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■「個人的所有の再建」をめぐる緒論から社会主義を考える その(5)
問題は単なる解釈ではなく、エンゲルスの学説である
■田口幸一「社会主義と共同占有」における卓見
「個人的所有の再建論」をめぐり色々な文献を読んだのですが、田口幸一氏の「社会主義と共同占有」は、問題の第7節の理解としては、私にはもっとも納得できるものでした。もっとも素直に読めばそうとしか読めない%ヌみ方をしているだけでもあるのですが。
田口氏はエンゲルスを批判する人々に対し、それは本当にエンゲルスの見解なのかと問います。
ソ連公認の解釈、あるいはそれに追従する人々の解釈を、田口氏は図−1の「国際的通説

」に示すようなものだとします。消費手段は個人的所有、生産手段は社会的所有。ただそれだけであり、生産手段の社会的所有と消費手段の個人的所有の関係が失われています。そして「消費資料については個人が所有するという意味に」「すり替えている」と批判します。エンゲルスを批判する人々は「エンゲルスによるいわゆる『解釈』を『国際的通説』と同一視してしまったという点において完全な誤りを犯してしまった」と。
ではエンゲルスの説明の真実は何か。デューリングの議論が図に示すような平盤な理解なのに対し、エンゲルスの説明は生産手段の社会的所有論と結びついた個人的所有論で、図のような立体的なもの=生産手段の生産者による共同占有を基礎とした消費対象の個人的所有だとします。この「国際的通説」とエンゲルスの「解釈」の違いの図示は分かりやすいし、本質をついているでしょう。
また氏は「『個人的所有の再建』命題に関するエンゲルスの学問的な『解釈』は、『反デューリング論』第三編《社会主義》の《二 理論的概説》の箇所において展開されている」とします。すなわちエンゲルスの説明は単なる「解釈」ではなく、自己の学問的研究の結果なのでもあり、エンゲルスの学説だ、それがマルクスの学説と一致しているのだということでしょう。これは一つの卓見だと考えます。
エンゲルス解釈に反対しながらも、自分はエンゲルスの学説自体に反対しているのではない、単にエンゲルスのいいそこまちがい≠ノ反対しているだけだと思っている人々は、この田口氏の卓見に、真剣に学ぶ必要があります。
■だが中途半端なソ連批判
ではエンゲルスの説だと名乗る、あやしげな「国際的通説」がなぜ生まれたのか。
「ソ連の場合についてみてみると、生産手段の私的所有が廃絶され、いわゆる『全人民的所有』が確立されたから、ソ連社会主義は、『個人的所有の再建』命題をも実現しているといわれている。しかし、実際には『個人的所有の再建』命題の決定的な部分をなしているところの『生産手段を共同占有として生産者に引き渡す』という《社会主義者の任務》は、いまだに実現されていないのである。」そして「ソ連の労働者達は生産手段の《共同占有》を獲得できえてない限りでは、資本主義社会における資本主義企業の労働者(賃金労働者)たちとほとんどかわらない」。
前号では、平田清明氏も、これが語りたかったのではないかと「忖度」してあげました。そして1960年代の平田氏が曖昧な表現に包まねばならなかったことを、1980年代の田口氏は(やっとながら)はっきり語ります。
そしてここまでくれば「ソ連は社会主義ではない」ということが当然の結論になりそうです。しかしながら田口氏はソ連社会主義は「『初期社会主義』の段階に低迷しているとして位置づけられる」とします。
(当時の日本共産党は、まだソ連への評価を『生成期社会主義』と引き下げただけで、今のように『社会主義とは縁もゆかりもない体制だった』とはしていませんでした。おお、学問の独立よ!)。
田口氏は主観的には「現存社会主義の弁護論」を批判しているつもりのようです。しかし「初期」であろうと社会主義が実現しているならば、次になすことは「革命」ではなく、その社会主義体制を守り発展させることでしょう。「初期社会主義」はどのように発展させられるべきか。
田口氏は「ユーゴスラビアの『自主管理社会主義』の実践」を「試行錯誤的にではあれ、マルクスの『個人的所有の再建』命題を実質的には追求していると評価」して「大いに注目」します。
前号でも引用したマルクスが「フランスにおける内乱」で協同組合にふれた部分を、田口氏も「マルクスは『協同組合』が労働者達の《生産・取得単位》であるということを明示するとともに、全国の生産の計画や調整は『協同組合の連合体』によって行われるということも明示している」と解釈しています。
どうやら田口氏の目指す方向は、生産手段の社会的所有は名ばかりで、実際上は各協同組合に個別占有される社会ではないか?との疑いが生まれます。
この点については田口も(私が持っている文献では)はっきりとは語らないので、マルクスが協同組合にふれた文章を田口氏と同じように解釈している福富正美氏に登場してもらいましょう。
■福富氏の「農奴制的」社会主義論
福富正美氏は田口氏の論文に10年ほど先だって、『個人的所有と私的所有』という論文でこう書いています。
「周知のように、農奴の場合には、土地の最高所有権(上級所有権)は、封建領主に所属していた。だが、『自分の労働にもとづく個人的な私有』のもとでは『土地の占有』が『労働者が自分自身の生産物の所有者であるための一つの条件』として経済的に機能していたではないか。『否定の否定』の後における『生産手段の共同占有』もまた、その実際の経済的機能において考察されなければならない。もしも協同組合的協業と集団労働とに対応した『生産手段の共同占有』が、勤労者が自分自身の労働の生産物の所有者であるための不可欠の一条件としてあらわれるとするならば、協同組合的集団による『生産手段の共同占有』を『実在的な形態』とするようなこの『個人的所有』は、社会主義的所有のもっとも特徴的な形態(元基形態)ではないであろうか。」
要するに「社会主義」国家が全生産手段の最高所有権者として存在するにしても、共同組合が個別の生産手段を占有していれば、生産物はまず国家の所有物として現れるのではなく、個別の協同組合の生産物として現れます。ですから、労働者の集団が生産したものは、労働者の集団に一旦は取得されるでしょう。これが福富氏にとって「社会主義的所有のもっとも特徴的な形態」となります。
これは改良主義的願望をまぶしてはいても、当時のソ連の現実引き写しです。ソ連では生産手段は(協同組合ではなく)国有企業に占有されており、したがって生産物は直接の国家所有としてではなく、国有企業の所有物として現れました。それは国有企業間で商品として交換され、貨幣、賃労働、市場、利潤、金利その他、資本主義社会にある、搾取や抑圧、無政府性など、あらゆるブルジョア的害悪を現象させました。
福富氏が望むように、国有企業ではなく協同組合が「生産・取得」単位になるなら、これは生産者による生産手段の共同占有であり、賃金労働の搾取はなくなります。しかしそれだけです。農奴の土地占有が領主による搾取と矛盾しなかったように、その「自主管理」された企業から、スターリン主義国家が搾取することと、協同組合による生産手段の占有は矛盾しません。そしてブルジョア的なあらゆる害悪はそのまま残ります。
ユーゴスラビアの悲惨な解体が示したのは、このような「社会的最高所有権」のない、単なる個別生産手段の占有と、その「自主管理」といったものの無力さでもなかったでしょうか。
■エンゲルスの「学問的解釈」
田口氏の願望、生産者が生産手段を占有していない「初期社会主義」から、生産者が協同組合によって生産手段を占有・自主管理する社会主義への発展は、福富氏的見解にたどりつく以外に道はないと思われます。田口氏はエンゲルスを正しく理解し、それを基礎にソ連批判を行いながら、なお無力な批判にとどまっているのです。そしてなぜ無力な議論しかできないかと言えば、「マルクスは『協同組合』が労働者達の《生産・取得単位》であるということを明示するとともに、全国の生産の計画や調整は『協同組合の連合体』によって行われるということも明示している」などという途方もない理解、つまり社会主義とはなにかということをエンゲルスから本当には学ばなかったということに原因があります。
とはいえ、福富氏は福富氏、田口氏は田口氏です。田口氏自身に戻りましょう。
田口氏の「協同組合」理解は、田口氏が擁護した「エンゲルス解釈」と一致するでしょうか。氏がエンゲルスによる「学問的解釈」だと指摘した「理論的概説」と一致するでしょうか。
反デューリングの「理論的概説」から引用しましょう。
エンゲルスは資本主義による生産力の発展の姿と、それが同時に勤労大衆の困難や生産力の浪費を生み出すという矛盾した姿を描き出し、こう続けます。
「とほうもなく成長していく生産力がこのようにみずからの資本という性質に抵抗し、このようにみずからの社会的本性を承認するようにますます強くせまっているということ、このことこそが資本家階級自身に、およそ資本関係の内部で可能なかぎりでこの生産力を社会的な生産力として取り扱うことを、ますますやむなくさせるのである。産業の好況期は信用を無制限に膨張させることによって、また恐慌そのものも、大規模な資本主義的な企業の倒産を通じて、各種の株式会社においてわれわれが見るような、大量の生産手段の社会化の形態に向かって押しすすめる。」
「ある発展段階に達すると、この形態でさえもはや十分でなくなる。資本主義社会の公式の代表者である国家が、それらの指揮を引き受けなければならなくなる。」
「大規模な生産施設や交通通信施設が株式会社に、国家的所有に転化されるということは、この目的のためにブルジョアジーはいなくてもよいということを示すものである。」
「しかし株式会社への転化も、国家的所有への転化も、生産力の持つ資本という性質を廃止するものではない。株式会社の場合には、このことは手に取るように明白である。また、近代国家は、これまた資本主義的生産様式の一般的な外的な諸条件を、労働者や、さらに個々の資本家の侵害から守って維持するために、ブルジョア社会が自分のためにつくりだす組織にすぎない。近代国家は、どういう形態をとっているにせよ、本質上は資本家の機関であり、資本家の国家であり、観念上の総資本家である。国家がますます多くの生産力を引きついで自分の所有に移せば移すほど、それはますます多くの国民を搾取することになる。」
「生産力の国家的所有は衝突の解決ではないが、しかし、そのなかには、解決の形式的な手段、手がかりが隠されている。」
「この解決は、近代の生産力の社会的な本性を実際に承認すること、したがって生産、取得、交換の様式を生産手段の社会的な性格と一致させることのほかにはありえない。そして、そうするためには、社会以外のなにものの指揮の手に負えそうもないほどに成長した生産力を、社会が公然と、あからさまに掌握するよりほかに道はない」
「共同社会に結合した生産者達の手で、これらの生産力を悪魔的な支配者から従順な召使いに変えることができる。」
「今日の生産力をそれのついに認識された本性におうじて取り扱うようになれば、社会的な生産の無政府状態に代わって、全社会および各個人の欲望におうじての、生産の計画的な規制が現れてくる。それとともに、生産物がはじめは生産者を、次には取得者をも隷属させる資本主義的取得様式に代わって、現代の生産手段の本性そのものに基礎をおく生産物の取得様式が現れる。すなわち、一方では、生産を維持し拡大するための手段としての直接に社会的な取得、他方では、生活・享楽手段としての直接に個人的な取得が現れてくる。」
これを実現するため
「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまずはじめには国家的所有に転化する。だが、そうすることで、プロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を揚棄し、そうすることであらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、そうすることで国家としての国家も揚棄する。」
「国家が真に全社会の代表者として現れる最初の行為――社会の名において生産手段を掌握すること――は、同時に、国家が国家として行う最後の自主的な行為である。社会関係への国家権力の干渉は、一分野から一分野へとつぎつぎによけいなものになり、やがてひとりで眠り込んでしまう。人に対する統治に代わって、物の管理と生産過程の指揮とが現れる。国家は『廃止される』のではない。それは死滅するのである。」
「社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は排除され、それとともに生産者に対する生産物の支配が排除される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現れる。個人間の生存闘争は終わりを告げる。」
■自ら死滅する国家の建設という課題からの逃亡
共同組合など、どこにもその位置すべきところがありません。エンゲルスが徹底した所有の集中論者であり、協同組合による生産手段の分散的占有の敵対者であることは明らかでしょう。
もちろん協同組合は、個人的私有に対しては進歩であるし、農民をいきなり社会主義的所有に統合できないなどの条件においてはエンゲルスも、協同組合の反対者ではないでしょう。しかし、国家的所有にまで高まった生産手段を、再び協同組合の占有に譲り渡すなどということはエンゲルスの想定のらち外であったはずです。
それはエンゲルスの考えであって、マルクスのそれではないという意見があるでしょう。しかし、エンゲルスの見解はマルクスの見解と一致するという立場の人は、マルクスが協同組合の連合体を社会主義として想定していたなどという見解をとれるはずはないのです。エンゲルスを疑う人も自問すべきです。このエンゲルスと「協同組合主義者」マルクスが同志でありえただろうかと。文献の隅っこをかぎ回ってやっと見つける≠謔、な対立ではなく、明白な対立が露骨に示されていていいはずだと。
エンゲルスは課題をはっきりと示しています。自ら死滅するような国家権力を獲得する=現政権の転覆と社会革命が必要なのだと。国家という疎外物を存続させたままでの、協同組合的自主管理≠ネどナンセンス!だと。
ソ連=現存社会主義を批判するつもりでいながら、スターリニスト国家の打倒を語れなければ、その批判は矮小な方向に向かうしかなかったでしょう。これはまた、ソ連批判だけの問題ではありません。ソ連批判からは、真の社会主義のためには革命が必要なのだという、当たり前と言えば当たり前の議論が登場しなければなりません。しかしそれは先進資本主義における、民主的改良への幻想にとっても危険な議論となります。「協同組合主義者」マルクスの再発見=Aアソシエーションの再発見≠フ、本当の原因もここになかったでしょうか。
(飛鷹昭二)
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■「個人的所有の再建」をめぐる緒論から社会主義を考える その(6)
アソシエイティッドな知性とは何か
■田畑稔氏の「マルクスとアソシエーション」
以前に私は、廣西氏が資本によるコンビネート労働とアソシエーションを直接に対比させて論じていることを、変なことだと指摘しました。労働を組織する主体と、組織の仕方を一緒くたに論じていると。ただこれは、私が西洋語を理解できればもっと明瞭に語れることだったようです。
田畑氏の「マルクスとアソシエーション」では、コンビネートな労働に対しアソシエイティッドな労働が対比されています。アソシエーションという名詞だけでなくアソシエイティッドという「分詞形容詞形も、名詞形に勝るとも劣らぬ、大変重要な意味を担っているのである」と。資本によるコンビネートな労働に対し、アソシエーションによるアソシエイティッドな労働。この対比なら素直に理解できることです。
そしてアソシエーションだけでなくアソシエイティッドとは何かを理解することが重要であるという田畑氏の指摘は正しいものと考えます。
しかし田畑氏から素直に学べたのはここまででした。
■巨大な「落差」にいかに立ち向かうか
単純にではないのですが、田畑氏もアソシエーション社会を、協同組合の延長線上に考えます。
「しかし『協同組合』運動と、その延長線上に展望される『社会的生産を自由で協同組合的な労働の調和ある一大システムに転換する』とか『連合した協同組合諸団体が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体自身のコントロールのもとにおき、資本制的生産の宿命である不断の無政府性と周期的変動を終えさせる』とかいった、生産と交換の新たな総社会的調整システムを作り上げるという課題との間の落差はもちろん巨大である。」
社会主義を協同組合運動の「延長線上に展望」するなら、確かにそこには巨大な落差があるでしょう。しかしそれは「延長線上に展望」すること自体が招いた落差にすぎません。とはいえ「落差」を認識しているだけ、田畑氏は単純な協同組合主義者よりマシでしょうか。
田畑氏は、この落差にどう立ち向かうのか。田畑氏は、未来社会が生産の「総社会的調整」をどう行うかのかという課題として、この問題に近づこうとします。
■「市場調整絶対否定的に見える」マルクス
「経済の総社会的調整が過渡期において、また未来社会において、どのように組織されるべきかという問題について、具体的な実践的構想を提示できる条件は、マルクスの時代にはまったくなかったといってよいだろう。したがって、この問題に関するマルクスの言及はいずれも理論的でしかも論争的な性格のものにとどまる。基本的テクストとしてはつぎのものをあげることができるだろう。」
ということで、田畑氏は次のようなものを紹介します。
オーエン主義者ブレイによる「等労働量交換システム」構想批判。
「時間票券」を用いることにより、公正な交換を実現しようとするダリモンらの銀行改革プランの批判。
グレイの「交換原理論」批判。
サン−シモン主義者たちの「銀行改革プラン」批判。
これらはマルクスが、私的交換をそのままにして、ブルジョア的な諸悪をなくそうとすることが無力であることを論じている文献です(私も、本誌に寄せた以前の原稿で、グレイ批判は市場社会主義批判でもあると論じました)。したがって、協同組合運動の延長線上に社会主義は展望できないことを論じる文献でもあります。
しかし田畑氏は、これらを批判するマルクスの「結論」より、「方法」に注目します。
「これら一連の改革構想に対するマルクスの批判は、基本的には、一方で私的生産=私的交換を前提とした上で、他方で労働価値説の平等主義的(egalitar)応用である『等労働量交換』システムを構想する、にはらまれる矛盾を衝くというものである」
「労働交換システムへの対話法的批判」と田畑氏は呼びます。
「ヘーゲル流に言えば『意識の中で固定化され直接受け入れられている諸規定を解体』(否定的弁証法)しつつ、『具体的で無反省な意識から具体者の普遍性を指し示す』(肯定的弁証法)という議論のスタイル」
「たとえばブレイ批判ではつぎのように書かれている。『したがってもしすべてのメンバーが直接労働者であると仮定すれば、等しい量の労働時間の交換は、物的生産に必要な労働時間について、あらかじめ合意しているという条件においてのみ、可能であろう。だがかかる合意(convention)は個人的交換を否定する』」
「ブレイが彼の『具体的で無反省な意識』のなかにはらませていたものを、マルクスが意識化すれば、生産の総社会的関連に関して『あらかじめ合意する(convenir d'avance)』という条件が浮上してくる。そしてそれがブレイ自身の前提していた私的生産=私的交換を排除するように要請せざるをえないのである。」
ダモリン批判ではマルクスは、ダモリンの構想を実現しようとすれば銀行は、全般的な購買者かつ販売所とならねばならず、さらに全般的生産者とならなければならないことを語りますが、これは「商品・貨幣タームで議論をすすめつつ、論理を煮詰めていくと、気がつけば私的交換の地平を超えているというわけである」。
「グレイへの批判も見ておこう」としてマルクスの「彼はたんに商品生産から生来してくる貨幣を『改革』したいと思っているだけなのに、内的一貫性が彼を駆り立てて、ブルジョア的生産条件を次々に否認させる。」といった文章を引用し、
「ここでも『具体的で無反省な意識』自身が『内的一貫性に駆り立て』られて、それ自身の『真理』へと移行していく事態に、マルクスは注意を向けている」と、田畑氏は語ります。
「そしてわれわれはそこに、マルクスの、この批判スタイルの重要な意味を見るべきだろう」と。
田畑氏による特徴付けは、マルクスの方法の一面として間違ってはいないでしょう。しかしながら、田畑氏は次の瞬間にいきなりの飛躍をやってのけます。
「これら実践構想に対するマルクスの批判は、一見、本質還元主義風、市場調整絶対否定的に見えるが、実は非常に慎重なのである。」
どこからこんな結論が導かれるのか、私にはどうしても理解できません。
田畑氏は、このマルクスの忠告を「方法」から生まれたものであり、「慎重」なものだから、結論を鵜呑みにしなくて良いと言いたいのでしょうか。
何が言いたいのか、実のところあいまいです。しかし「慎重」かどうかはともかく、マルクスが語っていることは明確です。私的交換を廃絶するという課題から逃れてブルジョア社会の止揚はないということです。協同組合は協同組合にとどまっていてはならない。社会全体に対しては協同組合も私的生産者である点では株式会社と同じである(ついでに言えば生産の実質的社会化の競争では、現代では共同組合は株式会社に決定的に敗北している)。マルクスのこの忠告を正面から受け止めなければ、田畑氏の言う「総社会的調整」の展望など現れるはずもないはずです。
■だが田畑氏は「アソシエイティッドな知性」を発見する
マルクスの「市場調整絶対否定的に見える」忠告を、知りながら聞き流した田畑氏は、「総社会的調整」を可能にしてくれそうなものを別に探し出そうとします。
そしてそれを「アソシエイティッドな知恵」に見いだそうとします。
「ブレイへの批判でマルクスは総社会的調節原理として『あらかじめの合意』を市場原理に対置したのを見た。」
「未来社会を『一つのアソシエーション』として構想する以上、総社会的調整もまた『現存の欲求の総体に対する生産諸力の総体の関係を基礎とするひとつの合意の産物』として構想されなければならないのは当然であろう。その点でわれわれはマルクスの次の文章に注目したい。」
田畑氏が注目したのは、次のようなマルクスの文章です。
「資本制的生産諸部門の内部では、【部門間の】均衡は不均衡から脱する不断のプロセスとしてしか自分を現さない。というのはそこでは生産の【総社会的】関連は盲目的法則として生産当事者たちに作用し、彼ら【生産当事者】がアソシエイティッドな知性(associirter Verstand)として、その関連を彼らの共同のコントロールのもとに服属させていないからだ。」
この文章を、田畑氏は次のように考察します。
「いったい『アソシエイティッドな知性』とはどんな『知性』なのか。一応『知性』と訳したVerstandは、どちらかというと哲学的な理性(Vernunf)と区別されて、実際的な理解力や判断力を表現する。」一方associirterは「直訳すれば『結びつけられた』あるいは『結びついた』という意味になるだろう。」
「『生産当事者たち』自身のこういう『アソシエイティッドな知性』が総社会調整における合理性を支えると想定されていた。」
「こういう合理性は《大衆追随主義》であり、冷静な客観的『法則』を探求する《科学》の冒涜であろうか。そこに大きな問題がはらまれている。」
「『自然法則』として彼らに現象し、経済《専門家》のみが学問的反省に置いて透見することができるだけの経済合理性は、マルクスの理解では、諸個人がいまだ彼ら自身の社会的諸力を自立化させ物件化させていることを歴史的前提としている。」
「けれども未来社会は、マルクスの理解では、これら自立化した社会的諸力を『アソシエイティッドな諸個人』が服属させていることを基礎にしていなければならない。『現存の欲求の総体に対する生産諸力の総体の関係を基礎とするひとつの合意』において、各人自身が、欲求主体(消費主体)としても生産主体(労働主体)としても、合意《内容》をなしているのである。それだけではない。各人自身が合意《内容》であるがゆえに合意《主体》でもなければならない。没規範的で物件化された市場調整や官僚調整とは異なり、各人自身が、消費主体としても生産主体としても、責任主体として、総社会的調整過程に論争的にかかわらねばならない。その意味で彼らは生産の総社会的関連を『彼ら自身のコントロールの下に置く』ことになる。もちろん『合意』といっても、つねに所与の制約の下での『合意』でしかありえないが、こういう意味で未来社会においては『アソシエイティッド』な知性が経済合理性を担わなければならないのである。」
■己のしっぽに食いつく蛇のエンゲルスへの苦情
さて、何が言いたいのか。これもなかなか曖昧です。
田畑氏は明瞭に市場を否定せずに、総生産を調整する別の力を探しにいきました。そして出てきたのが人々の「合意」です。
たんなる「合意」で総生産がコントロールできるのか。
これは大衆追随なのか?と田畑氏はとんちんかんな問題を立てます。未来社会では資本家社会的転倒現象は消え去るでしょう。したがって人々が生産の連関を理解することは容易となるでしょう。ですから多数意志は生産の客観的必然に一致した意志でしょう。「合意」した意志が生産をコントロールするでしょう。しかしその「未来社会」を可能にするのは何なのか。人々の「合意」なのか。これは自分のしっぽに食いついた蛇でしかありません。
そして田畑氏が次のようにエンゲルスに苦言を呈するのを読むと、その意識が反対側からも照射されてきます。
「付言すれば、マルクスの死後一八九四年に『資本論』第三巻を編纂出版したエンゲルスは、『アソシエイティッドな知性』に関するマルクスの文章に加筆を行った。残念ながらこの加筆はきわめて根本的な意味の変更を含むものであった、と私は考える。」
マルクスの草稿では次のようであったようです。
「資本制的生産諸部門の内部では、均衡は不均衡から脱する不断のプロセスとしてしか自分を現さない。というのはそこでは生産の関連は盲目的法則として生産当事者たちに作用し、彼らがアソシエイティッドな知性として、その関連を彼らの共同のコントロールのもとに服属させていないからだ。」
エンゲルスはこれに削除や追加を行い、次のような文章にしました。
「資本制的生産の内部では、個々の生産部門の均衡はたんに不均衡から脱する不断のプロセスとしてしか自分を現さない。というのはそこでは総生産の関連は盲目的法則として生産当事者たちの上に自分を強制し、彼らのアソシエイティッドな知性により把握されそれによって支配された法則として、生産過程を彼らの共同のコントロールのもとに服属させていないからだ」
両者でどのような「根本的な意味の変更」があるのか。田畑氏は次のように分析してくれます。
「よく対比すると、マルクスとエンゲルスの差異が明瞭に出ていると思われる。マルクスでは、@『生産当事者たち』が、A『アソシエイティッドな知性として』、B『生産の関連』を、C『彼らの共同のコントロールのもとに服属させる』のである。エンゲルスでは@『総生産の関連』が、A『彼らのアソシエイティッドな知性によって把握され、それによって支配された法則として』、B『生産過程』を、C『彼らの共同のコントロールの下に服属させる』のである。エンゲルスは『反デューリング』(第一篇第一一節)でわれわれになじみの彼の自由論(客観法則の認識による支配イコール自由)の実例をここに読みとろうとしている。そのために法則認識機能と操作機能に力点が移って、『合意』形成機能という『アソシエウティッドな知性』にとって決定的に重要な側面が消失してしまい、物件化論もアソシエーション論も包摂しえない定式に取って代えてしまう結果となった。」
■マルクスが本来問題にしていること
まずイチャモンに近い事柄を片づけましょう。
田畑氏が引用しているのは、マルクスが「利潤率の傾向的低落」を論じる中で、資本の絶対的過剰という概念を展開している部分からの引用です。
田畑氏が引用部を1行ほど節約したため、何について書かれた文章なのかさっぱり不明になっていますから、もう少し前から引用しましょう。
大月全集版から。
「もしも、一般的な過剰生産が生ずるのではなくていろいろな生産部門のなかでの不均衡が生ずるのだと言うならば、その意味は、資本主義的生産のなかでは個々の生産部門の均衡は不均衡からの不断の過程として現れるということ以外のなにごとでもない。なぜならば、資本主義的生産では総生産の関連は自分を盲目的な法則として生産当事者達に押しつけるのであって、彼らの結合された理性によって把握され支配された法則として生産過程を彼らの共同管理のもとにおいてきたのではないからである。」
資本の絶対的過剰と、単なる部門間不均衡の違いの説明なのであり、アソシエイティッドな知性やらを「定式化」することや、物件化論といったことは、なんらこの文章の課題ではありません。
そしてマルクスの草稿のままであるより、エンゲルスは「個々の」とか「総」とかの言葉を挿入することによって、文章をより分かりやすいものにしています。マルクスは出版のために文章を仕上げてはいませんでしたから、エンゲルスは出版のためには手を入れる必要があると考えたのでしょう。文章の本来の課題の説明としては、なんら文意の変更はなく、説明が明瞭にされているだけのことです。
(もちろん、そうすべきであったのか、エンゲルス自身が、自身が明言している部分以外は手を入れてないと書いているのに、おかしいではないか、そういった議論はあるでしょう。ただそれはまた別問題ということで省略します)。
■エンゲルス的知性
ではついで≠ノ語られているアソシエイティッドな知性やらについてはどうなのか。マルクスの草稿ではアソシエイティッドな知性が生産の連関をコントロールすることは語られていても、アソシエイティッドな知性とはどういうものなのかを示す内容はなにもありません。これに対し、エンゲルスはついでに<Aソシエイティッドな知性の本質についても示唆を与えています。
エンゲルスにとってアソシエイティッドな知性とは「総生産の関連」を把握した知性です。総生産の関連を把握すれば、そこから何が必要とされているかは、自ずと明らかになるでしょう。ですから、アソシエイティッドな知性は「合意」する知性ですが、自ずから合意する知性です。
浸水し沈没しかけた船に乗り合わせた人々は、浸水を防ぐこと、水をくみ出さねばならないことなどに、自ずから合意するでしょう。しかし個々の労働者達が直面する生産上の諸条件が千差万別である高度な分業社会の中で生まれる、自ずからの合意とはなんでしょうか。
それは自分が直面している条件や、担当している任務だけを知るのではなく、生産の全体の連関を知る知性です。必然性を知る知性であり、そこから自己の任務を見いだす知性です。
精度を追求するより量を生産することが必要なのか、いや、ここで精度良く生産すれば後工程の効率が上がる、そういった直接的な連関も理解しているでしょう。一方では、人類が直面している課題は何であり、彼の担当分野がその課題において何を期待されているのかも理解している知性でしょう。
全体の連関とその中での自分の立場を理解すれば、己が何をなさねばならぬかが、自ずと理解されます。
この自ずからの理解が、自ずからの合意を生みます。
そしてこの合意は、たとえば鉄鋼を100万トン生産するという「同じ課題を承認する」といった形式的一致だけでなく、違った任務を担うことの合意なのです。100万トンの鉄鋼を生産するために君はあれをなせ、僕はこれをなす、という合意なのです。まさに他者の存在とアソシエーション=結合した知性です。
全体の連関を知り、自己の客観的立場を知るゆえに、必然的に、内的に、自己の主体的任務として把握される合意です。
もちろん、この基礎の上で「論争的に」議論はなされるでしょうし、それはどうでもいいものではないでしょう。しかし、論争したから「合意」が生まれるのではなく、論争や議論が、人々をより事態の全体を正しく理解した知性に高めるゆえに「合意」を深めるのです。
エンゲルスにとってアソシエイティッドな知性とはこのようなものです。田畑氏がやや軽蔑的に言うとおり「われわれになじみの彼の自由論(客観法則の認識による支配イコール自由)」が根底にあります。社会主義になることによって、経済の必然性がなくなるはずもないし、人々はそれを正しく認識し、その上で主体的に行動することが生産をコントロールする=豊かな社会=豊かな個人を実現する自由なのだとエンゲルスは語ります。
このエンゲルスのアソシエイティッドな知性観と比較すれば、田畑氏の知性自体が矮小なものに見えてこないでしょうか。
■願望するだけの知性
田畑氏にとって経済的必然性などというものはのろわしいものです。
「もちろん『合意』といっても、つねに所与の制約の下での『合意』でしかありえないが」という、嘆かわしいが、我慢しなければならないこととして理解されています。
この、のろわしい必然性を、人間の意志で支配できないか。多くの人が議論して合意したならば、その合意によって生産をコントロールできるかもしれない。
しかし、市場経済をそのままにして単なる人々の合意で総生産がコントロールできるはずがないということこそ、田畑氏の前に立ちはだかった問題=経済必然性ではなかったでしょうか。
マルクスは合意した意志が生産をコントロールするとのたまわってくれている。田畑氏はそこから、アソシエイティッドな知性というものに奇跡をなすように要請します。しかしながらそのアソシエイティッドな知性のなんと矮小なことか。
「没規範的で物件化された市場調整や官僚調整とは異なり、各人自身が、消費主体としても生産主体としても、責任主体として、総社会的調整過程に論争的にかかわらねばならない。」
それは「ねばならない」であり、かくできるという自由ではありません。
そして「その意味で彼らは生産の総社会的関連を『彼ら自身のコントロールの下に置く』ことになる」のであり、総生産をコントロールするとは、ただ主体として論争的にかかわるというだけのことです。
「論争的にかかわる」ことがどうして総生産のコントロールなのか。氏自身が認めていることです「つねに所与の制約」があると。そのうえで論争的に調整可能なこともあるはずだということでしょうか。しかしそれでは「言いたいことは言わせてもらえる」というだけのことです。言いたいことを言ったからといって本質的なことが変わるわけではない。しかし、しかたのないことだから、納得しよう。納得したのだから「合意」だ。そして「合意」によって経済を運営しているのだから、これは「合意」による経済のコントロールだ。
「発言の自由」はあり、大会前に「ガス抜き」させてくれる、だが結論は予定通り、でも皆が討議して多数決で決めたことだから、皆が合意して活動しなければならない、なにやらあの、○○党における「合意」を思い出させます。
こんな情けない合意が経済をコントロールできるはずもありません。
「未来社会」に向かう明瞭な道を見いだせない知性が、未来社会の人々の知性に奇跡を期待しました。しかし、その未来の知性も自身に似せてしか理解できないのですから、奇跡は起こしてはくれないでしょう。
(飛鷹昭二)
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■「個人的所有の再建」をめぐる緒論から社会主義を考える その(7)
「可能なるコミュニズム」への不可能なる運動原理
■柄谷氏の「大きな転回」、平凡な知恵
今回は「可能なるコミュニズム」(柄谷行人篇、2000年1月3日太田出版)を取り上げましょう。
本の帯では「国家と資本に対抗する新たな運動原理をさぐる21世紀のコミュニスト・マニフェスト」という、壮大なことがうたわれています。
そして柄谷氏によって「新たな運動原理」が示された論文と、「資本蓄積しない新通貨LETSのメカニズムを分析した西部忠論文、国家に依存しない協同組合の原理的規定をさぐる山城むつみ論文」などが納められています。
さて柄谷氏が提起した新たな運動原理とはなんでしょうか。表題が「フランスの内乱」の一文、すなわち「もし協同組合の連合体が一つの共同計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自分の統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣(けいれん)〔恐慌〕とを終わらせるべきものとすれば、それこそは共産主義、『可能な』共産主義でなくてなんであろうか!」から採られているように、柄谷氏も協同組合の連合が共産主義だと考える潮流に属しています。
しかしそれだけなら何も新しくありません。柄谷氏が付け加えたものは何か。柄谷氏はこう書きます。
「私は一九九八年の夏に」「長年考えていたことの集大成」の論文を書き上げたが、「大きな転回が最後の段階で起こった」「なぜこんな簡単なことを今まで思いつかなかったのだろうか」
「資本の増殖運動G-W-Gを止める一つの方法は、この回路の外にあるような生産と消費の形態を創造することである。それが消費者−生産者の協同組合である。この『自由で平等な生産者達のアソシエーション』(マルクス)には賃労働(労働力商品)はない。これが拡大するためには西部忠が紹介するLETSのように、利子を否定するような信用システム、つまり支払い決済システムが形成されなければならない。しかしそれだけでは不十分である。非資本主義的生産―消費がいかに浸透しようと、それは資本の自己増殖の運動を止めることはできないだけでなく、そこに吸収されてしまうほかないだろう。したがって、それと同時に、資本制に対抗する運動が資本の運動の内部でなされなければならない。私は、そのような運動への鍵を、『資本論』、特に、価値形態論に見いだした。それは、ごく簡単にいえば、資本への対抗運動の場を、生産過程にではなく流通過程にシフトすべきだということである。」
この、柄谷氏が見いだした鍵は、なんのことはない「不買運動」というものです。
柄谷氏が「価値形態論」から学んだのは、商品の「売り」は商品の「命がけの飛躍」であるということです。しかしこれはマルクスが発見したことではないし、価値形態論などというおおげさなものを持ち出さなくとも、漫才師でも知っている常識です。お客様は神様だ。労働者も消費者としては神様です。「こんな簡単なこと」にようやく気づいた柄谷氏はこう考えます。
「資本と国家に対抗する運動」を「具体的に言えば、それは『不買』運動を基軸にし同時に、生産―消費協同組合をトランスナショナルに組織していくことである。この運動は基本的に非暴力的である。だが、資本にとっては、いかなる暴力よりも致命的である。資本は労働者のストライキを合法的あるいは非合法的に押さえ込むことはできるが、不買運動を抑えることは決してできないのだ。」
W―Gが商品にとっての命がけの飛躍であるにしても、それは個々の商品にとってのことであり、商品の総体においてはW―Gは当然に通過する一過程にすぎません。つまり社会は一定量の商品を消費する(買う)ことなく存在できません。消費者は神様だと見えるかもしれませんが、この神様にできるのは、A資本から買うのをやめてB資本から買うというだけのことです。
たとえばA資本は、労働組合を弾圧し、公害輸出をおこない、さらには第三世界の反動政権を資金援助している、けしからん、A資本に対して不買運動を組織しよう、と考えたとしましょう。しかしA資本の商品がB資本の商品より「安い」ならば、この不買運動が成功する見込みはほとんどないでしょう。それでも「断固として不買運動を貫くぞ!」とがんばったところで、その結果はB資本の「高い」商品を買い続けてやるだけの結果に終わります。
そしてそのB資本の実体をよく調べてみると、資本は資本であり、いくらでも悪事を働いていることが判明するでしょう。
いや、単に資本を選ぶだけでなく「生産―消費協同組合」を組織するのだというのでしょうか。しかし柄谷氏も知っているように「非資本主義的生産―消費がいかに浸透しようと、それは資本の自己増殖の運動を止めることはできないだけでなく、そこに吸収されてしまうほかないだろう」、です。資本は不買運動を、「押さえ込む」必要などまったくなく、非暴力的に簡単に粉砕できるのです。すなわち、より安い商品という武器で。(なぜ協同組合――特に生産共同組合――が株式会社に勝てないのかとということは、資本や労働力の動員において、協同組合がいかに制限のあるものかを考えるだけで分かることでしょうから、ここでは省略しますが)。
消費者は神様であることの中身は、A資本ではなくB資本を選べるだけのことでした。
そしてそれだけならば、消費者としてではなくても「販売者」としても可能なことです。
労働者は労働力をA資本に売らずにB資本にも売ることができます。賃金の安いところからは去り、すこしでも「まし」なところをさがします。もちろん、このときは資本の側が消費者=神様なのですが、この神様が家父長制を信奉しさらには排外主義に凝り固まった神様であっても、「安さ」には勝てず、女性の労働者化や外国人労働者の就労を増加させてしまいます。資本もまた労働力という商品を買わずには存在しえないのです。
柄谷氏は「なぜこんな簡単なことを今まで思いつかなかったのか。もしかすると、私は根本的にまちがっているのではないか、などと考えた」そうなのですが、根本的に間違っていることにすぐに気づかなかったのはなぜなのか、の方が不思議な話です。物事を一面的に見てはいけない、というのがマルクスやエンゲルスが、弁証法的な知恵の初歩として教えてくれたことだったのですが。
時には「不買運動」も必要でしょう。しかしそれを「新たな運動原理」などともちあげたら、酒屋政談としても、すぐに「あほうなこというな」とたしなめられるであろう水準のことです。しかし柄谷氏によると「私にとって喜ばしかったのは、似たようなことを若い人たちが考えているのを発見したことである」そうです。
この「若い人たち」が西部・山城氏です。
■西部氏のおもちゃのお金≠そび
西部氏の論文は「〈地域〉通貨LETS、貨幣・信用を超えるメディア」と題されています。
「冷戦後の十年間に世界経済は大きな変動と混乱を経験した。その原因を探っていくと、必ずつきあたらざるをえないのが『グローバリゼーション』という名の妖怪である。」「われわれはグローバリゼーションそのものを押しとどめようとしたり、それに対して背を向けて閉じ籠もるべきではなく、資本のグローバル化と投機化がもたらす災禍から地域経済を防御しながら、内生的・自立的な成長を遂げる道を模索すべきであろう」「LETSとはそのような指向性を持つ一つの運動形態である。LETSは、『グローバリゼーション』という名の妖怪を退治するグローバルかつローカルな『ゴーストバスター』として登場してきたのである。」
なにやらすごい運動のようです。
しかしながらその正体はこんなものです。
「LETSとは'local Exchange Trading System'(地域交換取引制度)の略称」「参加者が財・サービスを自発的に取り引きしあう自立的な経済ネットワークであり、各参加者が交換媒体として固有の地域通貨を発行・管理しながら利用する仕組みである」
たとえばグリーンドルという「地域通貨」を定めて、「太郎は花子に芝刈りサービス一時間を10グリーンドルで提供し、花子は次郎にバラの切り花10本を20グリーンドルで提供し、次郎は太郎にビール一ダースを15グリーンドルで提供する」というような「市場」を作ることになります。そしてこのグリーンドルが持つ価値≠ヘ、カナダドルなりとの交換で明らかになります。
ですから基本的に、本来の市場≠竍本来の貨幣≠ェ存在することを前提とした、おまけ市場、日曜日のフリマ≠ニ同じものであり、継続的な事務局を置いてやや組織的にしたものにすぎません。本来の市場では国家=中央銀行が通貨管理を行いますが、このおまけ市場では事務局が行うというだけです。そして組織的≠ネのは通貨管理だけであって、生産=財・サービスの提供は無政府的です。
こういう市場が成立しえておもちゃのお金≠ェ通用するのは、参加者の生存=生活に本質的なことは本来の市場で解決され、おまけ、遊びとしてしか意味を持たないからです。
こういったローカル市場、ローカル貨幣がお遊びとしてではなく、一時的な「生活防衛」として発生することはあります。種々の経済危機で、市場が分断し、麻痺しても、市場社会では、ともかく生産物の交換を行わなければその日暮らしもままなりません。貨幣は、市場の発展が生み出すものであり、貨幣が貨幣と純化する度合いは、市場に登場する商品の種類と量によります。ですからローカルな分断された市場に、貨幣らしい貨幣は存在できない、それは潜在的商品交換であり、実体は物々交換というものに後退するはずです。しかし発展した市場を前提とし、一時的に分離されているだけのローカル市場では、代用通貨が通用しえます。日本でも、戦後のハイパーインフレーション、通貨の機能麻痺という状況で一時的に「ある地域ではコメが通貨の代わりになっていた」ということが発生したようです。この場合も、コメが貨幣商品になったのではなく、「コメa量はb円相当だから」ということで、つまり、コメは貨幣商品の代理として通貨機能を果たしています。本来の市場と貨幣が前提されてこそ、コメは通貨になりえたのです。もし、本来の市場との分離が恒常化するなら。このローカルな孤立した社会は、商品生産者社会としては崩壊し、自給自足と補助的な物々交換があるといった原始社会に後退しなければならないでしょう。もちろんそこで「通貨」を定めたり、管理したりすることは、完全なお遊びです。
経済のグローバリゼーション、世界的な市場に巻き込まれ、したがって世界的な市場の混乱にも巻き込まれるようになった人々が、通貨危機などの一側面で、一時的な生活防衛からローカル市場と、そこだけで通用するローカル通貨を生み出すことはあるでしょう。
それを逆にして、日頃からローカル市場、ローカル通貨を組織しておけば「資本のグローバル化と投機化がもたらす災禍から地域経済を防御しながら、内生的・自立的な成長を遂げる」ことが出来るという妄想が生まれたようです。
しかし事前に準備されるローカル市場は、グローバルな経済=安い商品と競争しても存続できる、おまけ市場、お遊び以上に発展するはずもないのです。いざ危機となれば、何の役にも立たないことが暴露されるでしょう。
西部氏は、まじめくさっておもちゃのお金≠ノついて長い分析を行っていますが、私にはまったくどうでもいいことばかりと思えます。
柄谷氏はこのLETSを「利子を否定するような信用システム」などと呼び、何か特別なもののように書いています。しかしLETSは代用通貨にすぎないのであり、そして利子は通貨の特性が生み出すものではありません。万札をタンスに預金していても利子が生まれないのは誰でも知っていることです。(高利貸し的利子を無視すれば)貨幣が資本として貸し付けられるから利子が生まれます。LETSが利子を生まないのは、資本として貸し出されないからで、LETSのおもちゃ的性質とはなんの関係もありません。(商人が手形を銀行に割り引きしてもらって通貨を手にいれるとき、彼は利子など問題にしてなく、自身の所有する資本価値を商品形態から貨幣形態=通貨形態にすることを問題にしています。この割引に利子の形態を与えるのは、通貨の性質ではなく、その背後にある、貨幣が一般的に資本として貸し付けられているという関係です)。
■山城氏による「想像を絶する」マルクス改竄
マルクスを批判することは自由です。しかしマルクスの見解だとして、マルクスとは縁もゆかりもない見解を持ち出すことは、あきらかに嘘であり、「自由」ではないでしょう。柄谷氏もかなりマルクスを「改竄」しているのですが、それはまあ、本人がまともにマルクスを読んでいないのに読んだふりしているだけのこととしましょう。しかし山城氏の論文となると、意図的改竄、犯罪的としか言えないことが書かれています。
山城氏はこうマルクスの見解を紹介します。
「『ゴータ綱領批判』には、コミニュズムの高次の段階として、二つの規定がある。
(1) コミニュズム社会のより高い段階において、すなわち分業の下における個々人の奴隷的依存、それとともに精神労働と肉体労働との対立が消滅した後、労働が単に生活手段でなくて、第一の生活の必要にさえなった後、個々人の全面的発展とともにまた生産力が成長して共同組合的富のすべての源泉が溢流するに至った後――そのときはじめて狭隘なブルジョア的権利の地平線は全く踏み越えられ、そして社会はその旗の下にこう書きつけるであろう、各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!
(2) 生産手段の共有の基礎に建設された協同組合的社会の内部においては、生産者は彼らの生産物を交換しない。ここでは生産物に転化された労働はこの生産物の価値としても、またそれらの有する物的性質としても現れない。というのは、今や、資本主義社会とは反対に、個人的労働はもはや間接にではなく、直接に総労働の構成部分として存在するからである。
(1)において瞠目すべきなのは、精神労働と肉体労働との対立が消滅するという規定である。(2)において瞠目すべきなのは、(商品)交換が行われず、したがって労働もその生産物の価値として現れないという規定である。精神労働と肉体労働の対立が消滅した労働のあり方とはどのようなあり方か。商品交換が行われない社会とはどのような社会か。『コミニュズム社会のより高い段階』についてとはいえ、ここには想像を絶することが記されている。」
ゴータ綱領批判など、もう誰も読まないだろうから、こういうあからさまな嘘でも通用するだろう、と思って書いたのでしょうか。それとも山城氏は何かの引用でゴータ綱領批判を知っているだけで、あの短い文章の全体さえ読まないでこれを書いたのでしょうか。「想像を絶する」ことです。
マルクスは(2)について、ハッキリ書いています。
「ここで問題にしているのは、それ自身の土台の上に発展した共産主義社会ではなく、反対にいまようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である」と。
そして社会主義に残る資本主義的な「母斑」=個人的な消費手段の分配に残るブルジョア的な権利について説明し、
「こういった欠陥は」「避けられない」「権利は、社会の経済構造およびそれによって制約される文化の発展よりも高度であることはけっしてできない。」だから
「共産主義のより高度な段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働の対立がなくなったのち、労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的発展にともなって、またその生産力も増大し、共同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち――そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視野を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことが出来る――各人はその能力に応じ、各人にはその必要に応じて!」と書いています。
つまり商品交換の廃絶の規定が語られ、これは「生まれたばかり」の状態だと念押しし、その上で生まれたばかりの社会主義の「欠陥」を説明し、それが克服された社会の展望として「各人は」の規定が語られます。山城氏はこの叙述の順番を逆にしてわざわざ(1)(2)などの番号を打ち、逆に並べたことを隠蔽して、その上で両者を「高次」の段階について書かれたことだとしています。
これは読解力の不足などということでは理解できない「想像を絶する」読み方です。意図的な改竄、あからさまな嘘としか評価できません。しかし何のための嘘なのか。
奇妙なのは、一方で山城氏がマルクスの価値形態論からまじめに学ぼうとしているかの姿勢も見えることです。
その叙述に理論的に意味のある内容はないのですが、その悪戦苦闘ぶりの中に、柄谷氏や宇野弘蔵といった偉い先生≠ゥら教わったことと違うらしい、マルクスの本意に近づこうとしているのではないかと思える部分もあります。
となると、山城氏が本気で、高度なコミュニズムまで商品生産が続くということがマルクス説だと思いこんでいる可能性も、まったくは否定できません(だからといって、山城氏の文章が犯罪的であるという事実が変わるわけではないですが。柄谷氏や宇野に嘘を教えられたのが原因だとしても、『だまされたあんたが悪い』です)。
この連載を書いていて気づかざるを得なかったのは、取り扱う文献が近年のものになるにつれて、その理論的水準も落ちていく傾向です。今回の「可能なるコミュニズム」など、落ちるところまで堕ちてしまっていると思えます。マルクス主義陣営≠ヘ節操のないおしゃべりの陣営になってしまったのでしょうか。しかしながら「若い人たち」が、単に、柄谷氏や宇野弘蔵といった悪い先生≠フために道をあやまっているだけだとしたら、かすかな希望もあります。
「可能なるコミュニズム」とは何なのか。マルクスが本当に語ったことは何なのか。次回はそれについて書かせていただくつもりです。
(飛鷹 昭二)
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■「個人的所有の再建」をめぐる緒論から社会主義を考える その(8)
「可能なるコミュニズム」とはなにか (前)
前号で柄谷行人篇「可能なるコミニュズム」を検討し、その内容がマルクスの学説とはかけ離れたものであることを見ました。では、マルクス自身は、どういったものを「可能なる共産主義」と考えていたのか。今回と次回では、これを考えてみましょう。
ただその前に、連載が長くなってきたので、ここまでの議論を簡単に要約しておきます。
マルクスは社会主義において「個人的所有が再建される」と書きました。これをどう理解すべきかが、この連載の基本課題でした。
そして生産手段の共有を基礎として、消費手段の個人的所有が再建される≠ニするエンゲルス解釈と、それに反対、もしくは批判する諸見解を検討してきました。
その代表的な潮流が、生産手段の「個人的所有」も再建されるのだとする見解でした。
「反共主義者」廣西氏は、株式会社におけるような「共有」が、マルクスの語ったことだと主張しました。株式会社は共有されているが、また個々人的に所有されている(個人的持ち分=株式は自由に転売できる)など。
それはあんまりだ=Aという「左翼」は、協同組合=アソシエーション的所有が、マルクスの語ったことだと主張しました。マルクスは将来社会をアソシエーションと呼んでいる、将来社会は協同組合の連合体として展望されると。
これらの見解は、直接にはスターリン主義的な「社会主義」への批判、反発ではありました。生産手段もまた生産者=労働者によって支配されるはずだが、ソ連の現実はそうではない――という批判としては、正当な一面があったでしょう。しかしその議論はソ連にはブルジョア的生産関係の一切が存在し発展している、ソ連もブルジョア社会の一種だ≠ニいう形ですべきであって、「個人的所有の再建」と結びつけて議論する必要などまったくなかったはずです。ではなぜ「個人的所有」が呼び出されたのか。
「右翼」にせよ「左翼」にせよ、エンゲルス解釈に反対する潮流は、実のところ、社会主義の名で、現代のブルジョア社会と大差ない社会を構想します。ソ連という「社会主義」に懲りた$lたちにとっては、社会主義をブルジョア社会と大差ないものと思うことは、一つの慰めとはなったのでしょうし。
しかしソ連がブルジョア社会と違って見えたとすれば、それはブルジョア的要素が克服されたのではなく、未発達であるか抑圧されていただけのことです。ソ連のブルジョア的現実に、別のブルジョア社会構想を対抗させても、ソ連批判としては無意味なものでした。
■マルクスの協同組合論
マルクスが協同組合について書いている、その代表的なものを(引用が長くなるので)別枠で示しましょう。
さて、引用の全体を読んでいただければ、マルクスの主張の骨格は自ずと明らかでしょう。マルクスが目標としたのは個々の協同組合ではなく「協同組合的労働」「協同組合的生産」を実現した「巨大な、調和ある一体系」としての「協同組合的社会」です。この社会を実現するための階級運動にとって「今日の協同組合」がどんな意味を持っているかといえば、それは協同組合的労働=生産が「可能であることの実証」というだけのことであり、協同組合的社会は協同組合運動からではなく、階級運動――国家権力へと自身を高める――から生まれる、とマルクスは書いています。
とはいえ、これらの文書は、協同組合運動への幻想を語る人たちも引用する文章です。ですから断片だけから勝手な解釈をしないために、どのような文脈の中で書かれていることなのかの注釈も必要でしょう。そこで引用毎について注釈しますが、まず引用全体を読んでいただき、その上で、以下の注釈を読んで下さい。
@の資本論3巻からの引用は、信用について論じられている部分からの引用です。しかも27章からの部分は、株式会社について論じられる中でついで≠ノ協同組合についてもふれられている部分です。
マルクス以前の社会主義者、あるいは革命的社会主義に反対する改良主義者が、様々な協同組合構想を「宗派的」に労働運動に押しつけようとしていた歴史を念頭において読む必要があります(オーエンの徒やフーリエの徒、あるいはカトリック社会主義者にしてサン・シモンの徒「ビュッシェがフランスの社会主義者に反対して書き、『アトリエ』派の反動的労働者によって採用された処方箋」など)。
協同組合が社会主義的要素、あるいは社会主義的ではなくても資本家的制度とは違った要素の現れであることは常識≠ナした。そしてマルクスも協同組合のこの要素を否定しませんが、それはもちろんマルクスが独自の研究によって明らかにするまでもないことでした。ですからそれを再確認するだけのことなら、こういう中途半端な形で協同組合について論じる必要はなかったでしょう。マルクスは協同組合の「奇跡的処方箋」などには何の関心もありませんでした。マルクスは信用の研究、株式会社の研究に大部分を割いており、そこに「崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものの胎内にはらまれている新しい社会の諸要素」を発見しようとしています。協同組合的工場もまた資本主義の産物であって、何かの「処方箋」の産物ではないし、協同組合を絶対視する必要もない、株式会社(という自然発生的成長物)も「協同組合工場と同じに、資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよい」ということが、マルクスが、「宗派的運動」に対抗して独自に明らかにしたことです。
資本主義的信用制度はなにより、「資本主義的個人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化していくための主要な基礎をなしている」のであって、「国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張されて行く」基礎をも提供するにせよ、「社会主義的な意味での信用・銀行制度の奇跡的な力についてのもろもろの幻想は、資本主義的生産様式とその諸形態の一つとしての信用制度とについての完全な無知から生まれるのである」。
Aは11項目に渡る、当時第一インターが直面していた諸問題、「個々の問題」についての「指示」の一部です(1,国際協会の組織、2,労使の闘争、協会の仲介による国際協力、3,労働日の制限、4,年少者と児童の労働、5,協同組合労働、6,労働組合。その過去、現在、未来、7,直接税と間接税、8,国際的信用、9,ポーランド問題、10、軍隊、11,宗教問題についての指示の5,の部分)。
読んで明らかなように、マルクスは協同組合運動や制度の特別な処方箋を書くのではなく、それを階級運動の一部に位置づける必要を語っています。
協同組合運動は社会改造の「諸力のひとつ」であると「われわれ」も認める、のであり、積極的にそれを打ち出しているのではありません。宗派的運動の「協同組合的生産のおしつけがましい、声高の」声に対して、それを正当な場所に位置づける必要から指示されているのです。
協同組合運動の「大きな功績」は協同組合労働が「可能であることを、実地に証明」することにあるのであって、協同組合運動は解決そのものでないことも同時に語られています。協同組合運動の発展がそのまま諸問題を解決するであろうなどという展望はかけらもありません。
マルクスが評価しているのは、個別の協同組合工場でも、制度でも、さらに運動すらでもなく、協同組合「労働」です。協同組合的労働。これは資本主義的労働に代わる、未来の労働形態です。個別の資本主義下の協同組合は、このような労働の組織が「可能」であることを「実証」し、実例で「宣伝」します。しかしまたそれだけのことです。
個別の協同組合を沢山作り、それを発展させることではなく、「社会的生産を自由な協同組合労働の巨大な、調和ある一体系に転化する」ことが必要なのです。それは協同組合運動から生まれるのではなく「全般的な社会的変化、社会の全般的変化が必要である。この変化は、社会の組織された力、すなわち国家権力を、資本家と地主の手から生産者自身に移す以外の方法では、決して実現することはない」。
では「諸力」の中のひとつとして、協同組合運動自体はどれほどの位置を占めるのか。それは書かれていません。「指示」には、共同組合運動自体を発展させるための「処方」も書かれています。すなわち消費共同組合より生産協同組合ということ、また宣伝のための基金づくりや、普通の株式会社の堕落させないための処置など。しかし、共同組合運動が階級運動の中心に位置づけられてないことは確かです。なぜなら、この引用の後の「6,労働組合。その過去、現在、未来」において、中心が何かがはっきり書かれています。すなわち「労働組合は、資本と労働者のあいだのゲリラ戦にとって必要であるとすれば、賃労働と資本支配との制度そのものを廃止するための組織された道具としては、さらにいっそう重要である。」「労働組合は、その当初の目的以外に、労働者階級の完全な解放という広大な目的のために、労働者階級の組織化の中心として意識的に行動することを学ばなければならない」と。
協同組合運動は反対すべき事柄ではありません。資本主義の現実が、それへの対抗運動の一部として「自然発生的」に発生させるものです。労働組合が流通搾取への防衛策として設立する消費協同組合、あるいは倒産した企業の労働者自主管理による生産共同組合、色々な事情によってそれは生まれるでしょう。だから階級運動全体の発展との関連を見失わない中で、その発展を勝ち取るべきでしょう。そして協同組合自体の内部では資本と労働の対立は「積極的に廃止されて」います。だから逆に、その意味、階級運動にとっての意義についての諸種の錯覚も生まれやすい面があり、これは協同組合運動の消極的側面です。そしてそこにつけこんだ改良主義的説教が労働運動に持ち込まれることもあるでしょう。マルクスによる協同組合の位置づけは、そういった事態にたいする警告でもあるのです。
Bのフランスの内乱からの引用にはついては以前にも触れました――これが協同組合賛美ではなく、協同組合やその連合にとどまるなら社会改造は「欺瞞や罠」に終わるのであり、それ以上のもの「可能な共産主義」にまで進まねばならないという文章であることも含めて。
「協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだせる程度の零細な形態にかぎられるかぎり――つまり労働者が組織された力=国家権力を手にいれず、個々ばらばらの賃金奴隷のままであるなら(飛鷹)――、それは資本主義社会を改造することはけっしてできないであろう」と67年のマルクスは書きました。そして、労働者が「個々の賃金奴隷」であることを越え、組織された力を手に入れたならば、労働者が何をはじめるかを71年のパリコミューンは実証したのです。
Cに引用された「ゴータ綱領批判」は、主としてラサール的「社会主義」への批判が行われている文書です。
引用部の前半は、ラサール派の「労働の全収益」という概念がいかに空っぽなものであるかが批判された後の文章です。
そして引用部の後では「平等な権利」や「公正な分配」というラサール的概念の空っぽさが批判されます。
協同組合云々が目的で書かれたものではないのですが、「生まれたばかりの共産主義」を、マルクスが協同組合の連合などとして構想してなかったことがはっきり示された文章です。新社会はいきなり生まれ出はしないでしょう。「労働者階級は長期の闘争を経過し、環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程を経過しなければならない」のです。「しかし協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず最初は自国に国民的規模でつくりだそうとする」ならば、その「自由な協同組合労働の巨大な、調和ある一体系」では、生産物は交換されない=商品にならないのです。
なお、ラサール派――だけでなく小ブル的社会主義全般がですが――の特徴の一つは、消費手段の分配の問題をことさらに取り上げて論じることです。そこでマルクスはやむなく、消費手段分配の問題を詳細に論じています。またゴータ綱領批判の中でもその部分ばかりが、小ブル的社会主義者の関心を集めて来ました。しかしマルクスはゴータ綱領草案が「いわゆる分配のことで大さわぎして」いる点自体を批判しているのです。「消費手段の分配は、生産諸条件の分配の結果にすぎない」のだからと。かの、社会主義にもブルジョア的権利が残る云々の議論も、マルクスが共産主義の具体的内容を語った数少ない部分として注目されていますが、このことを念頭に読む必要があります。たとえば前回、生産物が商品にならないのは共産主義の高次の段階≠セと解釈する、山城氏の見解を見ました。なのに山城氏は、ブルジョア的権利が残るところの生産物の分配についてのマルクスの議論は、生まれたばかりの共産主義についてだと納得しています。しかし生産手段が各協同組合に分配≠ウれるのであれば、消費手段の分配について語っているマルクスの文章のすべても、たわごとになります。マルクスは消費手段の「共産主義の低い段階」での分配を、生産手段が単一の主体のもとに所有されているという前提で語っています。
(飛鷹 昭二)
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