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『教育改革と新自由主義』
  斉藤貴男 著  子どもの未来新書 

 教育改革の狙いを鋭く暴くタイムリーな出版


 本書は、四部構成で、作られている。結論の核心は第一章に凝縮している。
 教育改革の核心は、子どもの早期選別することである。こうしてエリート教育をしようというのが、本当の目的であり、ここに経済界の要請に応える形で動く文部行政の真の姿があるのである。
 かくして教育の機会均等という教育理念は破壊されて、人間を「勝ち組」「負け組」と区分して恥じない冷酷な国家が誕生していくことになる。
 本書の構成は、第一章 教育改革がめざすもの 第二章 差別の目と管理の目
 第三章 機会均等を守る 第四章 子どもの未来のために となっている。
 これらの章で、著者は、教育改革がめざしている国家への転換を阻止するため、学校で身につけるべき学力とは何かを根源的に問題にする。そして、わが子を守るために親は何をするかについての具体的提言を行い、信頼関係と連帯感を取り戻すことを著者はめざす。この対極的な立場から、東京都教委の日の丸君が代処分を斎藤氏は糾弾するのである。
 類書の主張に見られるような抽象性から、このように見事に脱却していることを指摘しておきたい。個々の主張の当否は読者が判断すべき問題である。一読を勧めたい。
             (N)

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『機会不平等』
  斉藤貴男 著  文春文庫 

 現代日本社会の生々しい現状分析


 二〇〇〇年、この本の親本は出版された。四年後、この本は、三箇所を増補されて、この二月に文庫本でも刊行されたのである。このことだけでも、本書が非常に優れた本であることを証明していると私は考えている。
 本の構成を紹介しておくと、第一章は、「ゆとり教育」と「階層化社会」、第二章は、派遣OLはなぜセクハラを我慢するのか、第三章は、労組はあなたを守ってくれない、第四章は、市場化される老人と子ども、第五章は、不平等を正当化する人々、終章は、優生学の復権と機会不平等、というものである。
 斉藤貴男氏は、論文だけで物事を論ずるだけでなく、なによりも足で歩き、直接著者にインタービューをすることで、著者の本音を、とことこ追求することができる少数派の気骨あるジャーナリストの一人である。
 今回のこの著書も、各章ごとに、関係者に対する直接インタビューすることで、決定的な内容をスクープしている。各章ごとに読み応えあるインタビューがなされているのだが、ここでは、紙面の関係で第一章でのインタビューのみに絞り触れておきたい。
 その一つ目は、本文の冒頭に掲げられている江崎玲於奈・教育改革国民会議座長のセリフである。
 「人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在氏を考えるしかない。その上で、人間のできることをやっていく必要があるんです。
 ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ」 その二つ目は、三浦朱文・前教育課程審議会会長のセリフで
ある。
 「学力低下は予測しうる不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならないということです。つまりできん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」「国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければなりません。それが狽艪ニり教育狽フ本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」
 これら二つの本音の告白は、労働者民衆にとっては始めて聞く重大な発言であることだろう。来年度の教科書から、すべての児童生徒が学習しなければならないところとゆとりがある児童生徒が学ぶところと教科書が内容的に分かれるのだという。事態はここまで来ているのである。
 この本で注目すべきは第一章ではあるが、他の章も、具体的な暴露・告発に満ちている。 特に第五章は、「不平等を正当化する人々」の表題の下で、竹中平蔵・中谷巌・伊藤元重・中条潮ら経済学者に対する具体的批判は実に読み応えある章である。
 是非とも一読を勧めたい。
(直)


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『愉快な裁判官』
  寺西和史著 河出書房新書 1800円+税

 著者の寺西さんは、現職の裁判官であり、日頃から新聞に投稿したりして、自己の考えを皆に明らかにしてきました。彼は、1998年、組織犯罪対策法案に反対する集会で一言発言しました。すると、裁判所から、裁判所法で禁じている「積極的政治運動をすること」に該当し、職務上の義務に違反したとして、分限裁判で懲戒戒告処分を受けました。
 しかし、寺西さんは処分に屈することなく、全国各地を回り自己の考えを皆に広めており、元気いっぱいです。

不必要な規則に疑問が出た高校時代

 さて、この本は全部で4章からなっています。1章は「裁判官になるまで」です。
 寺西さんは、小学校の時裁判官になろうとしたそうです。「裁判官は、世の中にもめ事がなければ仕事をしなくても給料がもらえる人ですから、世の中にもめ事がなくなればよいと思っている人達なのだと思ったわけです。」と本で述べています。
 また、中学の時狭山事件(冤罪事件)に見られる日本の刑事裁判のいい加減さを知り、、自分が裁判官になって、日本の刑事裁判を良い方向に変えていきたいと思うようになってきたとのことです。
 それから、中学や高校の時、校則は厳格に守っていたそうです。当然、規則は守るものだと思っていたそうです。
 しかし、その考えは高校2年のある事件から変わりました。それは、学校側が生徒の意見も聞かず一方的に、通学用の靴に関する規則を変えてきたのでした。従来の規則では、通学用の靴は、「黒の革靴」か「白のズック靴」でした。学校側は靴の規則に関して、高価な靴を履いているのを規制する為にした措置であると言ってきました。
 しかし、規則変更により通学用の靴を「黒の革靴」か学校指定の「2種類のスポーツ用の靴」になりました。これにより、寺西さんが従来はいていた1700円ぐらいの靴より、高価な学校指定の「スポーツ用の靴」を履かなければならなくなりました。この靴は2200円くらいするのです。
 これについて、寺西さんは教師に規則を作った目的と結果が矛盾すると言いましたが、教師は、もう決まったことと言うだけでした。
 これ以来寺西さんは、「規則は何の為にあるのか、そのような規則は本来自由であるべき事柄を不当に制限していないかを考えるようになりました」と本で述べています。

司法修習生
時代

 寺西さんは、司法修習生時代に、青年法律家協会(青法協)に加入しました。裁判所側は、自分達に批判的な青法協をきらっており、任官拒否された人にしめる青法協会員の割合は多いのです。
 任官の為の面接で、寺西さんは、35分もかかりました。通常は8分ぐらいです。裁判官が新聞などに投書することの是非について時間がかかりました。寺西さんは、自身が新聞に投書しており、面接官(裁判官)はそれについて否定的でした。ただ面接官は、「別に、新聞投書をしてはいけないと言っているわけではありませんが」と言ったそうですが、これは面接官が寺西さんとの議論に負けたから出た発言でしょう。

自己満足でもいいと開き直ろう

 2章は、「裁判官になってから」です。
 寺西さんは、93年4月裁判官になりました。最初は札幌地裁で、令状審査を担当して問題になったのは、代用監獄(裁判所の留置所)についてだそうです。
 代用監獄にすると、警察官は長時間被疑者を取り調べることができ、これが自白を強要される原因だとして、寺西さんは、最初すべての事件で拘留場所を、本来の拘留所である拘置所にするという決定をしていました。しかし、検察官は準抗告をしてその決定のほとんどを取り消されました。
 そのため寺西さんは、やむを得ず否認事件だけは、勾留場所を拘置所にするという決定をしましたが、それでも準抗告が多く、その決定が取り消されました。
 寺西さんは、結果が出なくても、「正しいことをしているのなら、たとえ自己満足にすぎなくてもかまわないじゃないか」と開き直るそうです。私もそう思います。また、寺西さんは、代用監獄を法律で禁止すべきだと言います。
 それから、寺西さんはよく「今はおとなしくして、少し偉くなるまでまて」ということを言われるそうですが、これについて寺西さんは、裁判官は仕事において上下なしであると言い、「今は少しおとなしくして周囲の裁判官のやり方にあわせる」ということをすると、そこから抜け出すのが非常に難しくなると言います。全くの同感で、私も最初から思ったことを言うようにしています。それで多少対立は生まれますが、あまり気にしないようにしています。

神坂さんの任官拒否に理由を示せと投書

 94年の神坂さんの任官拒否について寺西さんは、最高裁は任官拒否の理由を示せという内容の新聞投書をしています。現職の裁判官がこういう声を上げたのは大いに意義があると思います。
 その後寺西さんは、旭川地裁に転勤になり、朝日新聞への「信頼できない盗聴令状審査」と題する投書をしました。すると、中西さんは裁判官を誹謗・中傷するとして所長から注意処分を受けました。しかし、寺西さんは、令状の発布率がほとんど100%に近い現状を明らかにし、令状審査の中身も問題ありと言っただけで処分されたものです。言論統制もいい加減にしてほしいものです。

集会で発言すると戒告処分を出す最高裁

 3章は、「分限裁判」で4章が「最高裁決定批判」です。まとめて紹介します。
 寺西さんは、98年4月18日、「組織的犯罪対策法案」に反対する集会に参加して、「当初、この集会において、盗聴法と令状主義というテーマのシンポジウムにパネリストとして参加する予定であったが、事前に所長から集会に参加すれば懲戒処分もあり得るとの警告を受けたことから、パネリストとしての参加は取りやめた。自分としては、仮に法案に反対の立場で発言しても、裁判所法に定める積極的な政治運動に当たるとは考えないが、パネリストとしての発言は辞退する。」旨発言しました。
 これだけで、仙台地裁は仙台高裁に寺西さんの懲戒戒告処分を申し立てる分限裁判を起こしました。懲戒の理由は、上記の発言が、裁判所法で禁じている「積極的な政治運動」であり、「職務上の義務違反」に当たるというものです。全く無茶苦茶な話しです。裁判官は、意見を言ってはダメなのでしょうか。
 さて分限裁判は、高裁では2回の審問があったのですが、一般公開されず、本人の口頭陳述もないまま戒告処分決定でした。
 最高裁では、1回の審問もない中、12月1日戒告処分が決定されました。
 しかし、最高裁判官15人のうち、5人が処分に反対しました。
 処分について寺西さんは、集会の発言が、裁判所法で禁じている「積極的な政治運動」に当たらないと考えており不当だとしています。
 また、寺西さんは「憲法が表現の自由を保障しているのに、裁判官の積極的な政治運動を憲法より下位の法律である裁判所法によって禁止することができるのだろうか?」と言っています。私も、裁判官も政治運動をする自由はあるし、その他いろいろ社会問題についても行動を起こすべきだと思います。
 このことは、裁判官に限らず、他の職業の人達にもあてはまると思います。皆、世間を気にせず自らの考えを自由に表現していきましょう。
     (河野)


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 「死刑廃止」  アムネスティ人権報告 8

 「あなたは真剣に死刑のことを考えたことがありますか?」と問われたら、返答に困る人がきっと多いことでしょう。他の社会問題に比べると、関心が低いと言えるのではないでしょうか。自分には死刑なんて縁のないものだと、思い込んでいる人がほとんどだと思います。しかし、冤罪も起こりうる可能性のある現代社会に安心はできません。つまり死刑制度はその社会のあり方に大きく影響している、ということなのです。

 本書の第1章には、死刑廃止に向けて様々な立場からの取り組みが紹介されています。「死刑制度で人間がよくなることはないと思います。養子縁組した彼も死刑判決が下される度に打ちのめされて、立ち直ろう立ち直ろうという気持ちをくじかれていくわけです。私ともう一度生きてみようという気持ちが、死刑判決で打ちのめされ、もう一度立ち直って生きてみようと思っても、また死刑判決が打ちのめします。
 死刑囚が残したいろんな本や文章などを見て『死刑制度があるから死刑囚はあれほどまでに人間性が高められたんだ』と言う人がいますけれども、私はむしろ逆に、彼らが残した文章を見て、日々何かに打ち込まなければ気が変になるほどに死刑制度が彼らを追いつめているということを読み取るんです…」
 死刑囚を養子に迎えた向井武子さんの手記ですが、死刑囚として生かされていることの精神的な苦痛が、ひしひしと感じ取れます。犯罪によって引き起こされた人間の悲しみや憎しみが、処刑というもう一つの人の死によって、新たに悲しみやある意味の憎しみを人間の社会に再生産し続けていく。この連鎖をどこかで断ち切っていくことで、はじめて良い社会が築かれていくだろう。彼女の確信に、死刑制度の持つ重みを再度、確認させられた思いです。

 第2章では、世界の人権がテーマで毎年、多くの国で死刑制度が廃絶されていると、報告されています。1948年に世界人権宣言が採択された時、8ヶ国のみでした。しかし、1998年には、新たにアゼルバイジャン、ブルガリア、エストニアが加わり、67ヶ国にもなっています。資料編のアゼルバイジャンを見てみると、
 「2月、議会は圧倒的多数で大統領から提出された死刑廃止案を可決し、刑法上の死刑がすべて廃止された。この時点で128人に下されていた死刑判決はすべて拘禁刑となり、4月には102人が別の刑務所に移されたが、過酷な状況の死刑囚監房に移された者の中には数人の政治囚が含まれている」
 死刑廃止に至る経過では93年に、ヘイダール・アリエフが大統領に当選、事実上の死刑執行停止となっていました。94年には女性、96年には65歳以上の男性が死刑廃止となっています。アリエフ大統領は、犯罪対策を強化することで犯罪の発生を抑えられる、同時に政策と刑罰を人間的なものにすると予測し、人々の間に暴力と犯罪に対する健全な意見を形作るだろうと、意見を述べています。
 ところで、日本政府の姿勢はどうでしょうか。国連自由権規約委員会が死刑廃止へ向けての対策をとるように勧告(98年11月)したほぼ3週間後に、3人の男性が処刑されました。このような嫌がらせは、93年にもあり、11月の勧告後4名が処刑されていたのでした。なんと恥ずべき行為なのか、○○人権週間をキャンペーンする政府の本音は、ポーズだけということでしょうか。
 「いかなる人の生存権も尊重されなければならない。さもないと、殺人者は無意識のうちに国家そのものを殺人者に仕立て上げ、最終的で倒錯的な勝利を得るだろう。そして、故意に人間を抹殺する社会的な嫌悪が薄れていくだろう」
 この言葉は南アフリカ憲法裁判所のサックス判事によるものですが、死刑制度の根本的な問題を指摘しています。死刑制度は平和な社会を作るのに役だっているのか? むしろ人の心を荒廃させ、社会全体を荒廃させる原因になっているのではないか。アムネスティの活動は私たちに呼びかけています。 
     (折口恵子)


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「『買ってはいけない』大論争」 
 鹿砦社編集部&『買ってはいけない』特別研究班編集
   問われているのは生産のあり方

 昨年、突如としてわき起こった『買ってはいけない』の二つの波がようやく納まろうとしている今、『買ってはいけない』現象の意味とは何であったのか、ようやく冷静に判断できる時期に来たようです。発売と同時にベストセラーとなった『買ってはいけない』はあっという間に100万部に達し、これに対する類似本や批判本も書店の棚を飾るようになりました。『買ってはいけない』のこの二つの波については、本紙(11月15日号)で紹介しました。
 私はそこで、第1の波は『買ってはいけない』の品切れ状態をもたらし、第2の波は 『買ってはいけない』の相対化、解毒の役割を果たそうとしている。『買ってはいけない』の功績は商品の実名をあげて告発したという点にあり、これを否定するものは何らかのメーカー弁護論に行き着かざるを得ないと指摘しました。
 これに対して「『買ってはいけない』大論争」は、賛成、反対、メーカーの言い分も含めこの現象の総体を取り上げ、論争の意味と本質に迫ろうとしています。以下その内容を紹介しつつ、『買ってはいけない』現象について、もう一度考えてみたいと思います。
 まず、批判本「『買ってはいけない』は買ってはいけない」(以下夏目本と略)を発行した夏目書房の宮崎正行氏の発言を紹介しましょう。宮崎氏は「私たちの本と『買ってはいけない』が議論の契機となって、私たちを含めた消費者が商品の大洪水のなかで、賢い生活者として自立していくことが、この論争ならざる論争の成果となることを期待したい」と言い、同書が批判のための批判を目的としたものではないとしています。
 しかしその言葉とは裏腹に、夏目本の読者からの「このひと月(『買ってはいけない』を買って以来)の憂鬱が晴れました」とか、「これで気詰まりな生活から解放されます。どうもありがとう」といった声を紹介し、 『買ってはいけない』が燃え上がらせたメーカー批判の火の手を夏目本が消火していることを認めています。夏目本は『買ってはいけない』が取り上げた商品の検証に終始し、毒性のない物質は地球上に存在しないとか、どんな食物でも食べ過ぎたら毒なのだとか言うことによって、普通に食べていればそんなに問題ないという結論を導いてしまっているのです。
 とは言え、『買ってはいけない』の商品批判がずいぶんといい加減であったために、こうした批判本が出現したことは明らかです。もちろん、批判者達にそのエネルギーを他の商品批判に振り向けるべきだという指摘は可能ですが、批判そのものに謙虚に耳を傾けることも必要です。例えば、再春館製薬のドモホルンリンクルでは、カタログに記載されている表現が薬事法(第66条)違反、化粧品などの「効能」について虚偽・誇大広告だと、『買ってはいけない』は批判しています。
 しかし、このカタログは10数年前のものであり、「まだまだ薬事法に基づく表現について未熟だったころのものです。その後、薬務行政の指導のもと変更いたしました。現在のパンフレットにはこのような表現は一切使われておりません」とあります。さらに、保存料パラベン(注)以外の、合成保存料、殺菌剤、酸化防止剤、合成香料は「いっさい使用しておりません。ご安心ください」と述べています。事実に即さない杜撰な批判と言われても仕方のない事例です。
 ここで問題なのは、『買ってはいけない』の著者達も完璧ではない、100パーセント何かを信じることは危険だということです。常に批判的視点を持つこと、ただ一つの情報に満足してはいけないということです。鹿砦社編集部も、「本書の特別研究班のレポートで、『買ってはいけない』『「買ってはいけない」は買ってはいけない』は「姉妹編」だと述べているが、あながち否定できない。つまり、この二書に対する前向きな批判ー反批判を繰り返し、論議の盛り上がりによって、企業に商品の情報公開を迫り、徹底した商品検証を行なうーかつて、こうしたことが、わが国にあったであろうか?」と述べ、消費者が発言していくことの必要性を強調しています。
 以上の紹介をふまえて、現時点での簡単な総括を行なっておこう。まず、『買ってはいけない』は商品を疑うことの重要性、消費者が選択することの必要性を明らかにしました。これに対し批判本は、一方で『買ってはいけない』の不十分性を批判することによって前向きな役割を果たしながら、他方で消費者の批判を鎮めるという否定的な作用ももたらしてしまいました。ここで明らかなのは、消費者は自ら考えることより、あれこれの商品について買ってもいいのか、買ってはいけないのか°ウえてほしがっているということです。
 「週刊金曜日」の役割はすでに明らかです。一つ一つの商品についての、より科学的で正確な情報の提供を心がける(「買ってはいけない」の安直な連載は避けるべきだろう)とともに、読者に単に何を買ってはいけないかを教える権力に成り下がってならないということです。そして消費者は、単に何を買うかの情報を求めるだけではなく、消費を規定している生産にも関心を寄せる生活者へと変わっていかなければならないでしょう。
 結局のところ、『買ってはいけない』現象は何を生産すべきかというところへ至ります。そして生産部面へ来れば、現在の生産が企業の利益のためという枠に捕われていることが、危ない商品の発生源となっていることに思い至ります。だから私たちは、生産者としてどのように働き、どんなものを社会へと届けるのかについても、反省しなければならないのです。
      (晴)

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