読書室ホーム主張論争色鉛筆連載メールバックナンバー

『精神現象学』 (未知谷刊行)
  翻訳者牧野紀之氏の講壇哲学界に対する執念の結実


 馬氏が完了したので、今月から黒根児の『精神現象学』を読み出して居ります。
 この文章は、私の尊敬する中江兆民の嫡子中江丑吉が、友人であり弟子でもあった鈴江言一に宛てた昭和十五年五月十四日の手紙にある。ただし、実際の手紙の原文では、書名の部分はドイツ語表記であることをつけ加えておきたい。
 中江丑吉は、常々、マルクスの『資本論』を読んでいない頭は、子供の頭だと酷評しており、この本とともに『精神現象学』をドイツ語で読むことによって、大人の頭を作ってから学問しなければならないことを強調していた。彼が言いたかったことを引用する。
 「要するに、ドイッチェ・イデアリスムスの根本精神は人としての生き方の問題にあるんだ。だから、その根本精神は、いわゆる『哲学者』なんかよりも、哲学のテの字も知らない真摯素朴な農夫などのレーベン(生)のなかに、むしろ自覚されずに存在しているともいえるだろう。」(『中江丑吉の肖像』勁草書房刊29頁)
 中江丑吉のここで確認できる見識の高さは、今回この新訳を完成させた牧野紀之氏の主著である『生活のなかの哲学』での主張と一脈通じるものがあると私は考えている。
 ともあれ、新訳本の「訳者のまえがき」にあるように、『精神現象学』の全訳本は、牧野訳を入れて実に四種類、『序言』だけの部分訳に至っては、その他に三種類もある盛況ぶりである。では、こうしたなかに出来した牧野訳の真価とは一体何か。このことを明らかにすることが、この書評の目的である。
 端的に書こう。牧野氏の新訳本を刊行した未知谷から、『精神の現象学序論』を死後出版した三浦和男氏自身が、一九六二年一一月一日出版した『経済学=哲学手稿』(青木文庫)の「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」において、若きマルクスが、『精神現象学』の主要な章の題目をその順序にそって書き写したあの有名な箇所に、「ヘーゲルのこの労作にたいする邦訳はあるのだけれど、訳出および注の作成においてはこれをいっさい利用しなかった。というのはこの訳はすくなくとも読者をめざした翻訳とはおもえないような性格のものだから」との注を書いていた。もっとも金子武蔵氏の決定的な改訳本が、一九七一年九月、出版されたので、この酷評自体は、彼自身が評価を変えたかもしれないが。ともかく、金子氏の初訳本や樫山氏の訳本に対する若き日の三浦和男氏の批判・対決姿勢は、注を読めば明らかなように、実に明確であったことをしっかりと確認しておきたい。
 今回の牧野訳の画期的な意義とは、ヘーゲル哲学の誕生の秘密を秘めた著書の内容と形式を、向学心ある読者の誰もが、自ら確認できる翻訳を提供したことにあるのである。
 この点をさらに詳説すると、まず第一に、「個人の意識がさまざまな段階を通って発展していく[その論理を明らかにしてものだが、内容的にはそれを]人類の意識が歴史的に経てきた諸段階を短縮して再現したものとして描いている」とのエンゲルスの考えを受け継いで、それを常に念頭に置いて翻訳していることである。第二に、そのことと密接不可分な関係にあることだが、「そこには、今日でもなお完全に値うちがある無数の宝がある」ことを、具体的に、数多くの訳注を付けることで明らかにしたことである。そして最後に、これが決定的なことだが、第一の原則で文脈流れを解明し、ヘーゲルの文脈の流し方の当否と未だ読めていない箇所を明記して、私たち後進に問題を明示し解明すべき点を課題化したことにある。このようなことをしてまで牧野氏が追求したかったものはなにか。抽象的で難解なヘーゲルの文章が、現実的には何を言っているか、その現実的な意味の追求であった。金子氏らドイツ語を日本語訳すれば事たれりとする講壇哲学者と敵対する牧野氏がここにいる。ここに牧野氏が切り開いた画期があり、真価があるのである。
 この点を確認するために、虚名の高い長谷川宏氏の翻訳賞をもらっている『精神現象学』(作品社刊行)と比較して、具体的に、その翻訳の優劣を問題にしてみよう。
 第一の比較。ヘーゲル哲学の根本的な読み違えについて。哲学書の序文について、長谷川氏は、自らの『精神現象学』1頁の「まえがき」の本文四行目の「シャイネン」を「思う」と訳し、ヘーゲルが実際にそのように考えていると解釈している。だからヘーゲルが序言をつけたことは矛盾だと『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社)で、長谷川氏は、実際に長々と展開しているのである。
 しかしこの部分を牧野氏は、「見える」と訳し、哲学書に序言は一見いらないようだが、実際には、つける意義があるとヘーゲルは展開していると牧野氏は解釈している。また、「まえがき」の本文の六〜七行目を、長谷川氏は、「哲学は、その本質からして、特殊な事例を内にふくむ一般として語られるもの」と訳しているが、牧野氏は、「哲学というものは、本質的に、特殊を自己内に含む普遍を本来的地盤としているもの」と訳している。まさに両者は決定的に違うのだ。長谷川氏が、文脈やヘーゲルの「普遍・特殊・個別」概念の決定的に重要な関係を、牧野氏と比較すれば、正確には読んでいないことがここに端的に示されていると私は考える。私は牧野氏の側に立つものである。
 第二の比較。「哲学への王道はあるか」についてのヘーゲルの文脈の読み込みについて。この流れを理解していない長谷川氏は、前掲書46頁で、「真の思想と学問的洞察は、概念の労苦の中でしか得られないのだ。概念だけが普遍的な知をうみだすことができるので、その知は、健全な常識のもとにある、平凡で、あいまいで、貧弱な知ではなく、きたえあげられた完全な認識であり、他方また、怠惰で暗愚な天分ゆえに堕落へとむかう理性の要求する特異な普遍知ではなく、普遍理性の名にふさわしい真理−すべての人間理性が手中にできる真理−なのである。」と訳して、主体である私の「理性」と「真理」との関係がよくわからない訳になっているのに対して、牧野本160頁の同部分は、「[実際には哲学への王道などというものはないのであって]真の思考と科学的な洞察力を身につけるのには概念の労苦[という苦しい修行]をしなければならない。知を普遍的なものにするのはただ概念だけである。この知の普遍性とは常識のくだらない曖昧さや貧弱さでなくて、形成された完全な認識である。それは又、天才を口実にして努力もしないで思い上がったためにダメにされた理性の非通俗的[独善的な]普遍性ではなく、自己固有の形式にもたらされた真理である。[したがって]その真理は自己意識を持つすべての理性が我が物とすることの可能なものなのである。」と文脈の流れと両者の関係が理解できる訳になっている。この訳文に牧野氏は、三つの訳注をつけて、ヘーゲルの主張をさらに詳しく解説しているのである。
 第三の比較。「観察する理性の結論」として、ヘーゲルが、哲学をするとはどういうことかを具体的に明らかにした部分の訳について。長谷川氏は、前掲書232〜234頁で、「さて、この結論には二重の意味がある。一つには、これまでの自己意識の運動の結果を補足する、正しい意味である。−不幸な自己意識は自分の自立性を放棄し、自分の自立存在を物へと移そうとするものであった。ために、自己意識が意識へと−存在ないし物を対象とする意識へと−還っていくことになった。が、物としてあらわれるのは、自己意識であって、それは、自我と存在を統一したカテゴリーである。意識の対象がそのように定義されるとき、意識は理性をもつ。意識と自己意識はもともとそれ自体が理性なのだ。が、対象がカテゴリーと定義される意識についてのみ、理性をもつということができる。が、理性とはなにかを知ることとは、まだ同じことだというわけにはいかない。」と訳しいて、ここで問題になっている核心が、第一に私と存在との統一がカテゴリーであるとは現実にはどういうことか、第二にカテゴリーを対象にするときに初めて「理性を持つ」ということはどういうことか、第三に「理性を持つ」と「理性」との違いはどういう点にあるのか、この以上三点について、長谷川氏の訳は、読者に理解できるような明確なものになっていない。それに対して、牧野本の518〜519頁の同部分では、「さて、この結果は二重の意義を持っている。第一に、それは真理であるという意義である。それはそれまでの自己意識の運動の結果を補うものとして出てきたものだからである。不幸な自己意識は自分の自立性を手放したが、今や自分の自覚したあり方[精神]を物として戦い取ったのである。それによって自己意識から意識に戻ったのである。つまり、存在ないし物を対象とするあの[対象]意識に戻ったのである。しかし、[ここでの]物とは自己意識である。従ってそれは「私」と存在との統一であり、即ちカテゴリーである。そして、意識の対象がそのような[カテゴリーという]規定を持つとき、意識は理性を持っていることになるのである。[たしかに対象]意識も自己意識も初めから潜在的には理性である。しかし、カテゴリーという規定を持った対象を持つ意識にして初めて「理性を持つ」と言うことが出来る。しかし[先回りして注意しておくと]この「理性を持つ」ということはまだ「理性である」ということではない。」と、実にすっきりとした明快な訳になっているのである。
 紙面の関係で、訳文の比較はここで止めるが、ほとんど訳注のない長谷川氏の本と訳注が数多く付いている本とでは、読者に対する親切さの格段の違いは、判型の違いがあるとはいうものの本の厚さ極端な差として比較できるほど、誰の目にも明かなのである。
 その他に、牧野氏は、付録として四つの評論を巻末につけ加えている。それらは、ヘーゲル哲学の根幹に関わるものや形式や精神現象学の解説や金子武蔵氏に対する疑問の提示であるのだが、非常に内容がある評論である。これらの評論の意義も大きいものがある。
 最後に、牧野氏の執念について述べておきたい。この画期的な翻訳も一気に出来上がったものではない。この訳業のもとになったものは、鶏鳴双書の26と27と28の三分冊で出版された『精神現象学』であり、本の装丁が貧弱だったために、少し読み込めばバラバラになるまったく貧弱な牧野氏自身の手作りの自主刊行双書だった。このため、一九八七年五月一〇日、上製本が刊行されたとき、これらの双書を持っていた読者は、割引価格で購入できた。そのため何時最初の双書が刊行されたかは、私にはわからなくなってしまった。たぶん八〇年頃だっただろう。この上製本が刊行された時点で、牧野氏の労苦は報われなければならなかったのである。
 私自身が、このように牧野氏の翻訳が、苦闘の中で徐々に出来上がってきたことを知っている。その意味では、牧野氏を支えてきた読者の一人であるし、私の友人も私との関係でこれらの本を購入したので、牧野氏の良き支援者と言えよう。
 しかし、日本講壇哲学会は、牧野氏の訳業に対して、実に冷淡だった。徹底的に無視してきたと言っても過言ではなかった。無視した公式の理由は、この上製本が、全訳でなく、「第二部自己意識」までしか訳していないからというものだが、それが、本当の理由でないことは明らかである。在野の講壇哲学批判者である牧野氏に対する加藤尚武氏や西研氏ら講壇哲学者の嫉妬は、周囲が驚く程、どす黒いものがあるのである。
 しかし、今回のこの訳書の刊行は、牧野包囲網を打ち破るに充分なものがある。一万円という高い本ではあるが、各地の図書館に購入させて、ぜひ皆さんに研究していただきたい『精神現象学』であることを、私は責任を持って請け合う。ぜひ一読されたい。
(直)


読書室ホーム主張論争色鉛筆連載メールバックナンバー

『ドイツ・イデオロギー』

 この十月の十六日、岩波文庫の『ドイツ・イデオロギー』が出版された。長らく待望されていた新版であった。
 思えば、戦前、最初の版であるリヤザノフ版を翻訳したのが三木清であった。これも岩波文庫であった。その後、スターリン体制が確立する中で、リヤザノフ版は否定され、それに取って代わったアドラッキー版は長らく哲学会を重苦しく支配した。旧版の岩波文庫は一九五六年出版の古在由重訳であり、聖マックス等の部分の訳もついた非常に便利な名訳ではあったが、如何せんアドラッキー版が元であったのが惜しまれる。この訳本に対しては、一九六〇年代に東ドイツ版とバカトゥーリア版が編集されたが、なんといっても決定的な編集版は、一九七四年に出版された河出書房出版の広松渉版である。そして、この版は、未だに世界一の位置にあるのだ。
 その証拠に広松に反対している中核派もこの版を中心に据えて翻訳書を出版している。このように、現在広松版には、森尾誠氏らの新訳刊行委員会訳の『新訳ドイツ・イデオロギー』とここに紹介した小林昌人氏補訳の岩波文庫の二種類がある。
 特にこの岩波文庫の訳本は、河出書房版の付録として出版された横組みの翻訳参考版を、ただ単に縦組みにしたにとどまらない内容を持つものである。
 この訳本を出版するに当たっては、アムステルダム社会史国際研究所所蔵の『ドイツ・イデオロギー』の手稿オリジナルを調査して作成された山中隆次氏の私家版と一九九八年に出版された『草稿完全復元版ドイツ・イデオロギー』新日本出版社の渋谷正氏の本を参考にしたという。さらに校了直前には、的場昭弘氏から手稿のフォトコピーを利用させていただいたともいう。その意味において、まさに決定版とでもいうべき訳本である。
 こうしたことを聞いただけでも、理論的好奇心がわいてくるというものだ。この冬休みに、先に紹介した森尾氏らの訳本とも読み合わせる中で、私は、自分も一時関わったある政治党派の解体ということを理論的に反省しつつ、岩波文庫版『ドイツ・イデオロギー』の研究を進めていきたいと考えている。
   (ワーカーズ 猪)


読書室ホーム主張論争色鉛筆連載メールバックナンバー



『西洋哲学史要』
  未知谷刊行 波多野精一著  一本体価格2500円
   明治期の哲学史名著、新着想での復刊を喜ぶ

 この復刊された本の著者は、波多野精一氏。初版が出版されたのは、明治三四年九月二六日、著者二五歳の時の作品である。もちろん懐古趣味での復刊ではない。
 すべて歴史上の人物の著作というものは、単なる若書きと言い捨てられない香気と内容に満ちたものなのであり、この本もまた、哲学学会では非常に高い評価で知れ渡っていたからこその復刊なのである。それにしても、この百年、この本を越える著作が刊行されていないという事実は、実に、日本西洋講壇哲学学会の怠慢を痛打する事件ではある。
 私がこの本について知ったのは、1975年、牧野紀之氏の初版『先生を選べ』の中にある「私の指定図書」を読んだからであった。残念ながら、第二版以降の『先生を選べ』では、この部分は削除されているので、今では知っている方が限られており、また紹介することも意味もないことでもないと考えるので、初版の113ページから引用してみよう。

 「哲学の本としては、波多野精一氏の『西洋哲学史要』(いろんな所から出ていますが、 角川文庫のものが安くていいでしょう)と古在由重氏の『現代哲学』(けい草書房の『古 在由重著作集』第一巻に入っていますが、これなどはどこかで単行本にしてほしいもの です)とをまず挙げました。二冊とも不朽の名著です。ともに歴史書ですが、日本の講 壇哲学のもっともよい所が出ています。立場は、観念論と唯物論というように対立して いますが、ともに物事の核心を正確にとらえ、それによって歴史の必然的な展開を明ら かにしています。とくに『現代哲学』は日本の唯物論が生んだ最高の傑作の一つですの で僕はそれを追いこしていくべき後輩として、いずれくわしい論評を試みるつもりです。」

 牧野哲学に惚れ込んだ私は、早速、角川文庫の当該古本を購入し、通勤鞄に入れ往復の車中にて読書をしたことを懐かしく思い出す。しかし、この本は、「ある程度以上この方面に関心を持っていないと読みにくい」(初版『先生を選べ』同ページ)とは言われていたものの、実際読んでみると、実に見事な文語体で書かれている上に、人名の表記や哲学の専門用語も現在ものとは違っていたのである。だから、私には、一気に読むことなどできなかった。そのうちに文庫本は絶版になってしまった。
 その後、牧野氏の出版活動が発展していく中で、この本がすばらしい理由として、『哲学夜話』では、それぞれの哲学思想を捕らえる時に、@その哲学は前代からのどういう問題に取り組んだのか(その哲学者の問題意識)をはっきりさせていること、Aその問題に対するその哲学者の答え=その哲学の核心を簡潔にまとめていること、Bそして、その哲学にはどういう限界があり、したがってまた後代にどういう課題を残したかを明らかにしていること、以上三点がしっかりしていることだとした、一層明確な評価がなされた。続いて『囲炉裏端』においては、『西洋哲学史要』が生まれた明治期という時代背景を考え、個人の才能と努力のほかに時代の力を挙げる根拠を、牧野氏は、実に説得的に生き生きと書いていた。
 たぶんこの本が買えなくなってから、約四半世紀が過ぎたであろう。出版不況に苦しめられている今この時に、この本を高く評価している牧野氏自身が、「絶版になっているのを惜しんで、再話という形で」世に問うてみる決断をした。絶版となっている理由が、「内容は優れているけれど、文章や用語があまりに古く今の若い読者には読めない」だろうから、「民話を語るように平易に話したい」と、牧野氏は、「再話者の言葉」で述べている。
 では、牧野氏が、単なる再話者として、平易に語ることだけに徹しているかというと、まったくそんなことはなく、牧野氏が、この本の欠点としてきたもの、「ヘーゲルについての解説があまりに通俗的で独創性がなく、精彩に欠けること、マルクスとエンゲルスの唯物論について書いていないこと」についても、原作の弱点を補う演技者のように、より積極的で的確な再話者として振る舞っているといえる。なぜなら、波多野氏が書いていないマルクスとエンゲルスについて語るのは、再話者としての役割を越えることになるため、越権行為こそしていないが、牧野氏が、「ヘーゲルについては今回、一番多くの注釈を補って私の考えを加えた」ことを、その証拠として挙げることができる。そして、これらの注釈が、実に貴重であり、本文の要所要所に的確な形で入っていることに、私は驚くのである。
 牧野氏のヘーゲル理解に学んで、社会運動に役立てていきたいと考えている私にとっては何とも魅力的な再話者ではある。そして、牧野氏がつける注釈は、キリスト教についても的確なものがある。ヘーゲル哲学とキリスト教との緊密な関係を考えれば、必須の知識ではあるが、この関係の重要性に気づいている者は少ないようだ。
 今回一読して印象深く感じたのは、「スコラ哲学」の第2章の「実在論と名目論」第3章「トマスとスコットゥス」第4章「スコラ哲学の衰退」の所の記述であった。
 この「普遍論争」の中から、この論争の重大性の意味を深く認識せずに感性の立場に執着した経験論や唯物論とその後この論争を深く認識し最終的に決着したヘーゲル哲学との観点の違いまた分岐の意味が、私にはよく了解できた。その意味で「ヘーゲルは、個別・特殊・普遍を概念の立場と感性の立場で二重に考えることによって、またそれを発展の論理として考えることによって解決しました」との牧野氏の注釈を読んだことは、私にとっては、目から鱗が落ちたようだった。
 そしてこの本の弱点の一つであったヘーゲル哲学の部分は、牧野氏の努力で見事に補強修復され、とくにヘーゲル哲学の核心である「論理学」部分は、本文を越える注釈が書かれている。そこでは、「始元をどうすべきか、そこからの展開はどうあるべきか」という問題に対して、ヘーゲルは、「結果が始元になる円環構造とか、存在とともに歩む思考といったこと」を発見して、現象の認識から本質を認識するだけにとどまらず、「客観自身が人間との関わりのなかで」、概念の認識になるという存在論をうち立てた。267ページから引用してみよう。

 「それは又客観を現象と本質の二重構造で捉えないで、概念を加えて三重構造にしたと いう特徴があります。この概念は単に人間の頭の中にある観念のことではなくて、客観 自身の意義ないし働きのことなのです。その働きを自然史全体(ヘーゲルでは神、絶対 者)の流れの中で捉えなおしたものなのです。ヘーゲルの論理学の個々のカテゴリーの 実際の意味については、そのカテゴリーをなぜ全体系の中のここにおいたのかという点 を手掛かりにして考えていくと分かることがあります。なぜならこの「位置づけ」こそ ヘーゲルの最も苦心した点だからです。」

 紙面の関係で、これで止めておくが、以上の記述だけでもこの補修が実に良くなされていることが分かるであろう。ここで明らかになったように、ヘーゲルは、普遍論争をアウフヘーベンしたのである。こんなことを明らかにした哲学史書は、この本の外にない。
 若者に良く通じる言い方をすれば、この優れた再話者のおかげで、明治期の名著は、百年ぶりに数段のバージョンアップを成し遂げた。とくに、ヘーゲル哲学の箇所は、大変わかりやすくなって研究の指針になるまでになっていると評価できる。こうして、読むことのできる人なら誰でも、ヘーゲル哲学が、ギリシャ以来の哲学史の研究成果の上に誕生したこと、またヘーゲル哲学を高く評価し研究する中で、概念の操作術を見事に習得したマルクスだからこそ、リカード経済学の数々の矛盾を解決して資本論を仕上げることができたことが分かる。また、この本を復刊した牧野氏の眼力と未知谷の見識に、私は驚かされる。ヘーゲルのわかりやすい翻訳という評価をうけた曖昧訳で虚名を売っている長谷川宏氏と明確に対立している牧野氏の『精神現象学』の出版も、ぜひこの組み合わせで出版されることをお願いし、今後のヘーゲル哲学研究の深化のきっかけとなることを期待したいものである。 
  (N)

読書室ホーム主張論争色鉛筆連載メールバックナンバー