医療の経済学批判

@
何のための医療保険改革?
A
資本主義的医療は保険制度なしには成り立たない
B
医療費膨張に耐えられなくなった医療保険財政
C
「老人医療費抑制」への疑問
D
負担をどうするか?(税・社会保険・自己負担)
E
医療のレギュラシオン
F
税か社会保険か?
G
もうひとつの構造改革
H
市場経済と社会保障制度
I
新しい医療は新しい医療費システムを求める

J最終回 大危機に向かう医療――危機脱出の条件を問う





@何のための医療保険改革?

 昨年の9月から、医療費の自己負担が重くなりました。病院で診療してもらい、会計の窓口で請求書を見てビックリ、なんていう経験をしませんでしたか?
 この9月の改定は、あらゆる方面の人々から不評を買っています。患者はもちろん「普段、高い保険料を払っているのに、いざ病院にかかったら、こんなに自己負担がかかるのか? 何のために、保険料を払ってきたのか?」と、怒っています。医師会などの団体も、「自己負担が増えたため、患者が病院や医院に来れなくなって、収入が減り、経営状態が悪くなった」と怒っています。労働組合もまた、「自己負担が上がっただけで、労働者が月々払う高い保険料は変わらない。これでは改革とは程遠い。」と怒っています。
 政府も「これがすべてではない。今から本格的な医療保険改革へ向けて、議論を煮詰めていかなければいけない。」と、問題が何ら解決していないことを認めています。問題はその先です。

医療保険をめぐる三つの立場

 今、昨年9月の改定に対して、皆が怒っている、と言いました。しかし、その立場は必ずしも同じではないのです。私達、労働者も、その場その場で、少しづつ違う立場から発言しているのです。

「患者の立場」

 第1は、何といっても「患者の立場」です。私達が、ひとたび、病気や怪我になったとき思うことは、何よりもまず「手厚い医療を受けたい」ということでしょう。そして次に思うことは「経済的負担はなるべく軽くしてほしい」ということでしょう。ところで、このことは、より多くの医者を、より多くの看護婦を、より高級な薬と設備を、ということであり、そのために、より高額な医療費を社会全体で支出してほしい、ということです。そうすると、医療保険料を上げるか、税からの公費負担を増やすか、いずれにしても、労働者や家族の社会保障費負担を上げることを求めるものです。

 「保険料を払う立場」

 第2は、「被保険者の立場」です。私達は、いざという時のために、月々の賃金から医療保険料を支払っています。労使折半とはいえ、その額はばかになりません。しかも、老人保険制度により、保険料のかなりの割合を、老人医療費に拠出しているのです。今、多くの企業の健康保険組合が赤字に転落しています。「これ以上、保険料の負担を上げることは、耐えられない。」「医療費の無駄使いを是正してほしい。」と、叫んでいるのです。ところで、この立場は「より効率的な医療を」求めるものです。そこで問題になるのは、何が「無駄使い」で、何が「必要やむを得ない経費」か、それをはっきりさせないといけない、ということです。「医療費は効率的に」しかし「患者に手厚い医療を」、これは一見、相矛盾することです。労働組合は難しい要求をしているわけです。

 「医療従事者の立場」

 第3は、「診療側の立場」です。これは、労働者の中でも、医療に従事する者、つまり病院でいえば、勤務医師、看護婦、薬剤師、放射線技師、検査技師、栄養士、理学療法士などの医療スタッフです。この人達の賃金は、病院の経営状態、学歴免許、人材の需給関係などによって決まるのですが、それを大きく左右するのが、診療報酬の点数なのです。医師ならば診断料などの技術料、看護婦なら看護料、薬剤師なら投薬料などです。したがって、これらの医療労働者が「賃金を上げろ」と要求すれば、その要求は、それぞれの職種の診療報酬を上げろ、ということにつながるわけです。しかし、その診療報酬の財源は何かと言えば、全体の労働者の払う医療保険料に他ならないわけです。これがまた、問題を複雑にしています。

行きづまった保険制度

 現在の状況は、年間29兆円に達し、今後もどんどん膨脹していきそうな医療費を目の前にして、この3者がアップアップしているといってもいいでしょう。戦後の高度成長の過程で、医療保険制度は「薬漬け医療」等の矛盾を孕みながらも、それなりに発展してきたのですが、今それが構造的に行きづまっているのです。レギュラシオン派風(?)に言えば、資本主義における医療費の問題が、医療保険制度を媒介にした「調整様式」によって、矛盾を緩和されていたのが、今日では機能しなくなっているのです。そこで、労働組合も政府も「医療保険の抜本改正」を課題に掲げるのですが、肝心の何をどう「抜本的」に改正すればいいのか、なかなか見えてこないのです。
 そこで、私達ワーカーズ・ネットワークでは、今年の夏に予定しているサマー・スクールのテーマのひとつに「医療保険制度」を取り上げました。この連載では、サマー・スクールの準備も兼ねて、医療の問題を経済的な側面から、突っ込んで検討してみたいと思います。参考文献として「医療の経済学」「医療保険改革の構想」(共に広井良典著・日本経済新聞社刊)をお勧めします。
       (M・S)


A資本主義的医療は社会保険なしには成り立たない

 医療制度の問題とは、すなわち「医療保険制度の問題」であるといっても過言ではありません。薬漬けや薬害の問題、医療費抑制の問題、救急医療たらい回しの問題など、医療をめぐるありとあらゆる問題が、「保険制度と切っても切れない」関係にあります。もちろん、医療保険を通過しない、自由診療と自己負担の領域や、税から直接支出される公的負担の領域もありますが、それらはやはり「医療保険制度を補完する」ものなのです。そこで、今回は、なぜ資本主義社会での医療が、医療保険制度を媒介するのか? また、それが矛盾を起こしているというのは、どういうことなのかを、経済学的に考察してみましょう。

「市場の失敗」とは?

 資本主義社会では、人々の生活に必要な、あらゆるモノ、あらゆるサービスが「商品」として生産され、売買され、消費されています。ですから、医療もまた、医師の治療行為や看護婦の看護行為つまり「サービス」としてであれ、あるいは医薬品や検査機器等の「モノ」としてであれ、いずれも「商品として」売られており、患者はその購買者であり消費者であると言えます。
 ところが、医療は一般の商品、つまり衣服や食品などと異なり、普通の市場経済では、すべてを円滑に供給することが困難であるという問題が生じます。これを、経済学者たちは「市場の失敗」と呼んでいます。

「衣服」の場合

 「市場の失敗」ということを、もう少し具体的に言うと、需要と供給のバランスが取りにくいということです。例えば、衣服を例に取ると、今は冬ですから、生産者がジャンパーを作って、市場に出しますと、消費者は「寒いからジャンパーが欲しい」という必要度とジャンパーの値段を秤にかけて、自分のサイフの状態から、「これくらいの値段ならジャンパーを買おう」という行動に出ます。
 ジャンパーの値段が高すぎると、消費者はそれを買うことができません。そうすると、生産者は「高いジャンパーは売れない」ということがわかるので、損をしても値下げするしかありませんが、それでは経営が成り立たないので、低いコストでジャンパーを生産しようと努めます。
 そこで、生産者は資金を投じて技術開発を行い、安いジャンパーを大量に生産することに成功したとします。すると、消費者はジャンパーが買えるようになり、それもたくさんの消費者がこぞってジャンパーを買うことになるので、生産者は技術開発に投資した資金を回収して、なおも儲けが手元に残るというわけです。

「薬」の場合

 ところが、医療の場合は、そううまくいかないのです。例えば、ある人が重い難病にかかったとします。医師はその患者を診断し「あなたは、難病にかかっているので、高い薬と長期の入院が必要です。」と言うとします。その患者が、裕福な人であれば、すぐに入院して、高い薬をもらい、高い入院費を払うということができるでしょう。しかし、所得の低い人であったらどうでしょうか?その患者は、高い薬と入院費のために借金をしなければなりません。しかし、借金をするといっても、入院している間は仕事がなく、稼ぐことができないので、借金を返す当てはありません。したがって、貸してくれる人もなかなかいないでしょう。そうすると、患者は薬を買うのをあきらめて、自宅で寝たまま、回復の当てもなく家族の看護を受けるしかありません。
 患者が医療を受けることができないと、診療者の側も患者を治療して収入を得ることができなくなります。もっとも、たくさんの患者のうち、大部分が裕福で治療費が払えるならば、診療者は、一部の低所得の患者に対しては、特別に無料で治療してあげることもできるかもしれません。しかし、所得が低いほど「有病率」は高いという、社会医学的法則があり、「診療の値引き」をしていては医療経営は成り立たないことになります。
 では、衣服の場合のように、薬や看護サービスを「安く大量に」供給することができるでしょうか?カゼ薬などの場合なら、たくさんの患者の需要が見込まれますが、重い感染症や難病などになればなるほど、患者の数は限られることになり、「大量生産によるコストダウン」というのが、医薬品にはできにくいのです。入院の費用にしても、看護婦1人が看護できる患者の数は限りがあり、そんなに下げることはできないのです。
 こうして、(1)一方で患者(消費者)は往々にして「支払い能力が低い」(理由は、病気の時は働けないため収入がないこと、また低所得の生活環境ほど有病率が高いこと)。(2)他方で診療者(生産者)は「大量生産による低価格の医療供給」ができにくい(理由は、難病になる程その患者の数は限られていること、看護婦1人当たりが看護できる患者の数には物理的限界があること)。という特性から生産者と消費者のミスマッチすなわち「市場の失敗」が起きることになるのです。

「保険制度」とは?

 さて、生のままでは市場経済に乗りにくい医療を、市場経済の循環に円滑に乗せていくために必然的に登場したのが医療保険制度です。
 しかし、その場合の保険制度もまた、経済的に成り立たなければなりません。そうでなければ、医療保険制度は破綻してしまうでしょう。では、医療において保険制度が成り立つ条件は、経済学的にはどのようなものなのでしょうか?

保険が成立する条件

 一般に、保険制度が成り立つためには、保険の対象となる事象(病気や事故)の起きる確率a、その事象(病気や事故)が起きた時の損害額(病気の場合は治療費)L、その保険に加入した場合の保険料P、のバランスが取れていることが必要です。
 資産Wを持っている人が、医療保険に加入すると、その人の資産は常にWーPとなります。病気になった場合も、治療費Lは全額保険金として支払われるので、資産WーPは維持され、おおいに助かったことになります。ただし、仮に病気にならなかったとすると、それでも保険料は支払っているので、資産はWーPで少し損をしたことになります。
 そこで、「自分は病気になる確率が低いから、高い保険料Pはもったいない」と、保険には入らないことにします。病気にならなければ、その人の資産Wはまるまる手元に残り、その分特をしたことになります。ところが、あいにく病気になったとすると、治療費Lは全額自分で負担しなければなりませんから、その人の資産はWーLしかなくなります。この治療費Lが資産Wより小さければ、なんとかやっていけるのですが、治療費Lが資産Wより大きいときは、その人は経済的に破綻するわけですから、「こんなことなら保険に加入しておけばよかった」と、後悔するでしょう。
 そこで、この人が保険に加入するかどうかは、保険料P、病気になる確率a、病気になった場合の治療費L、によって規定されることになります。つまり、保険に加入した場合の資産(WーP)が、「保険に入らなかった場合に予想される資産の平均」、すなわち、「病気になる確率」(a)と「病気にならない確率」(1ーa)に、それぞれ「病気になった場合の資産」(WーL)及び「病気にならなかった場合の資産」(W)を乗じた、両方の和、a(WーL)+(1ーa)W、を下回らない時に、この人は保険に加入しうるわけです。
 そうすると、保険料Pの設定が問題になります。保険料Pを下げれば、多くの人が保険に加入できることになりますが、他方、保険料の額は、病気の治療費Lと病気にかかる確率aの乗数、すなわちaLを下回るこはできません。
 したがって、公的医療保険制度が社会的合意を得て成立するためには、PがaLにほぼ等しく、かつWーPがa(WーL)+(1ーa)Wを下回らない事が条件となります。

なぜ「等式」は崩れた?

 さて、今「医療保険制度が破綻に瀕している」という時、それは経済学的には、前述の等式が成り立つ条件が欠如しているということに他なりません。
 政府や資本家は、主に国民の総所得の伸びに対して、医療費の伸びが上回っていることを問題にしています。すなわちWに対して、L(もしくはaL)が大きくなりすぎている、というのです。しかし、よく考えるとおかしなことです。Wが小さくなって、Lが大きくなっても、前述の等式が成り立ってさえいれば、国民は公的医療保険の被保険者として保険料を払い続けるわけですから、医療保険制度は決して破綻することはないのです。
 具体的に考えてみましょう。総医療費aLが大きくなったとします。これは高齢化等によって有病率(a)が大きくなったためや、高度医療によって個別の診療費(L)が大きくなったためによるものでしょう。すると、保険料Pは「aとLの乗数」を下回ることはできませんから、Pは大きくなります。不況で国民の資産が大きくならなければ、資産から保険料を引いたWーPは小さくなります。つまり生活は、確かにきつくなります。しかし、そのきつくなった分は、「自分が長生きし病気になる確率が増えた」ためであり、「医療が高度化して病気が治る確率が高くなった」ためであるとするなら、国民は高い保険料Pを払うことについて、総合的には不利益ではないと判断するはずなのです。
 生活がきつくなるから保険に加入しない、とは必ずしも言えないことは、多くの人が民間の生命保険会社の医療保険に加入している事実からも明らかです。民間保険の興隆は、限られたグループの人々の範囲では、等式が成立していることを意味しています。問題は国民単位で、保険の等式がなぜ崩れたのか、ということです。
 これを解明するには、(1)保険制度の「今の形態」に問題がある(すなわち職域を対象とした組合健保、地域を対象とした国民健保、それに依存した老人保健制度の組合せがバランスを失っている)という面。(2)保険制度それ自体に限界があるのかどうかという面。の両面から考察する必要があると思います。
       (M・S)



B医療費膨張に耐えられなくなった医療保険財政

「高齢化+高度化」で毎年6%増

国民医療費は年々増大し、1995年度には約27兆円となっています(図表1)。これは、国民1人当たり年間21万円に相当します。
 毎年の医療費の増加傾向は、約1兆円ずつ、対前年度比率で6%前後となっています。医療費増加の要因の半分位が、老人医療費の増加によるものであることがグラフを見てわかります。あとの半分は、医療の高度化によると思われます。
 そして、1990年代に入って、国民所得に対する国民医療費の比率が急上昇し、90年には5%台であったのが、95年には7%を越えています。(以上、富士総合研究所「1980年日本経済の進路」を参考)

医療費を抑制しても「対GDP比」は上昇

 さて、この年率6%前後の伸び率は、過去に比べると、抑制されていると言えます(図表2)。1960年〜65年には、年率平均22・4%の伸びを示していますが、これは国民皆保険体制が成立して受診率が向上したためです。また、1970年〜75年にも21・3%の伸びを示しており、これは「投薬や検査の増大」「物価・賃金スライド制による診療報酬引き上げ」「老人医療無料化による老人受診率の上昇」によるものです。
 1980年代になると「医療費の伸びがGDPの伸びを越えない」を目標に、医療費抑制政策が取られたため、それまで年率10数%から20%で伸びていた医療費は、年率5〜6%に抑制されるようになりました。
 ところが、医療費は抑制されているのに、対GDP伸び率でいうと、現在は戦後3回目のピークとなっています。図表2を見てわかるように、「医療費の伸び/国民所得の伸び」は60〜65年が1・51、70〜75年が1・39であるのに対して、80年代は低かったのに、90〜94年は2・97に跳ね上がっています。
 医療費の増加そのものは、80年代から一貫して抑制基調(5〜6%)であるのに、GDPの伸び率がバブルの時代には5%前後だったのが、バブル崩壊によって2%に落ちたためと言えます。(以上、広井良典著「医療保険改革の構想」を参考)
 もし、今後も1〜2%のGDPの低成長が続くなら「医療費の伸びがGDPの伸びを越えない」ためには、医療費の伸びも1〜2%に抑制しなければならないことになります。しかし、それは至難の技です。というのは、現在の5〜6%の増は、人口の老齢化による「老人医療費の増大」や、「医療の高度化」による診療費増によるもので、それもどちらも、すでに「老人医療への定額制導入」や「薬価の切り下げ」などの抑制策を実行して、なおかつ増えている分だからです。

医療保険財政が赤字に転落

 こうして、GDPの伸びが1〜2%にダウンしたのに、医療費が5〜6%の伸びを続けている状況で、各種の医療保険財政が次々に赤字に転落しています(図表3)。
 中小企業労働者のための政府管掌健康保険(3800万人が加入)は、93年度に535億円の赤字になり、その後も急速に悪化し、96年度には4969億円の赤字、97年度には8300億円の赤字が見込まれます。
 大企業労働者のための健康保険組合も、赤字の組合数が全体の6割を超え、赤字総額は2062億円となりました。
 自営業者等のための国民健康保険(市町村単位)も、95年度で赤字の市町村が6割を超え、赤字総額は2917億円となりました。
 こうした保険財政の危機は、必然的なことです。というのは、GDPの伸びが落ちて、企業が労働者の賃金の伸びを1%前後に抑制しているため、保険料の総額の伸びがついていかないために他なりません。
 これを解決するには、保険料率を上げるしかないでしょう。厚生省の試算では、今のまま続けば、30年後には国民医療費は141兆円となり、例えば政管健保の保険料率(現在8・1%)は、3倍の23・8%に上げざるを得ないとされます。労使折半としても、賃金の約15%を健康保険料として天引きされなければなりません。(以上、丹羽雄哉著「生きるために・医療が変わる」を参考)

高齢化が進めば対GDP比は上がる

 自民党代議士で「与党医療保険制度改革協議会」の座長を勤める丹羽雄哉氏は、「このまま5〜6%の伸びでいくと、30年後には国民医療費は141兆円、政管健保の保険料率は23・5%になることが見込まれているが、私はこの医療改革によって国民医療費は100兆円以内、保険料は17%前後に抑制することを目ざしたい。」(同著「生きるために・医療が変わる」)と述べています。
 つまり、高齢化社会になり医療費の負担が増えるのはやむを得ないことだが、保険料が現在の3倍というのは重すぎる、現在の2倍程度が妥当である、というのです。しかし、では何を基準にして、医療費の負担の「重すぎる」とか「妥当」とかが言えるのでしょうか? ちなみに、1990年の医療費の対GDP比は、日本では6・5%ですが、それはアメリカの12・1%の半分、スウェーデンの8・6%、フランスの8・8%、ドイツの8・1%よりも低く、イギリスの6・2%と同水準です。(広井良典著「医療の経済学」より)
 そこで、先進資本主義各国の「医療費の対GDP比率」を各国の「高齢化率」との相関で示したのが図表4のグラフです(前掲書)。これを見ると、高齢化が先に進んでいるスウェーデンやそれに次ぐイギリス、ドイツ、フランスに比べて、日本の医療費はやや低めに推移しているように見えます。高齢化が日本と同じ位のアメリカの医療費の対GNP比の急上昇と対比しても、日本の抑制基調が明らかです。ここからは、むしろ「日本の医療費は抑制しすぎだ。アメリカは論外としてもヨーロッパ並みに引き上げるべき。」という論調が出てきてもおかしくはありません。
 ところが、そう単純でもありません。図表5のグラフは、前掲にグラフに「日本の将来推計を」を加えたものです(広井良典著「医療保険改革の構想」より)。これを見ると、今後の日本の医療費の対GNP費は急上昇し、おそらくヨーロッパの漸増傾向を軽く追い抜いてしまいそうな勢いです。なぜそうなるのでしょうか?
 これについて、広井氏は「ヨーロッパ先進諸国の場合は、比較的早くから経済が成熟期(低成長期)に入るとともに、並行して「緩やかな」高齢化を同時に経験してきた。これに対し後発型経済としての日本の場合は、高齢化のスピードが加速する以前の比較的「若い」時期に急速な経済成長を経験したため(中略)「ツケを後回しにしている」かたちになっている」(同氏「医療の経済学」より)と指摘しています。

「30年後に2倍程度」がヨーロッパ並み?

 要するに、医療保険改革論者の主張を総合すると、(1)経済の成熟化や人口の高齢化を加味すると、実質的にヨーロッパと同じ位の水準に抑えるためには、対GNP比率で現在の2倍程度(14〜5%?)が妥当であると考えているようです。ところが(2)日本の医療費の伸び率は実質的にはヨーロッパより高いため、このままでは対GNP比率は現在の3倍に膨脹しすぎるので、「高コスト構造を是正」するため様々なリストラが必要になると考えているようです。
 今考えられている「医療保険改革」とは、30年度に(1)負担面では現在の2倍にする(単純に保険料を2倍にするか、自己負担を増やすか、公費負担を増やすかのバリエーションはあるが)、(2)供給サイドでは今の体質では3倍になるところを様々なリストラで2倍に抑える(その手段として薬剤費の節減、老人医療費の定額制、無資格・低賃金の介護労働者の導入、病院の合理化・統廃合など)、というものであると言えます。
 したがって、医療保険改革を問題にする場合、社会的な富に対す医療費の割合は本当に現在の2倍で妥当なのか? また、その時の負担のあり方は社会保険という形態でよいのか? 医療の効率化で妥当なものは何で、妥当でないものは何か? 等を検討しなければならないでしょう。
       (M・S)



C「老人医療費抑制」への疑問

 すでに見てきたように、医療費膨脹の要因の約半分は、70歳以上の老人医療費の増大です。そこで、厚生省は1985年の「中間報告」以来、様々な形での「老人医療費抑制策」を打ち出してきました。その主なものは、
(1)老人医療を「無料」から「一部自己負担」に
(2)長期入院を「是正」し「在宅医療」や「中間施設」へシフト
(3)診療報酬を「出来高制」から「定額制」へ
 というものです。
 この中で(2)の「老人の長期入院の是正」については、本来的には悪い事ではありません。というのは、家庭で介護ができない「寝たきり」の老人を、特別養護老人ホームが少ないことや、世間体のために老人病院に入院させておく「社会的入院」の割合が多いことは良いことではないからです。
 問題は、では老人の長期入院(社会的入院を含む)の「是正」は、本当に医療費を抑制できるのか? ということです。私は、社会的入院の是正は必要だが、その事は別の形で医療費等の社会保障費用を増大させる必要があるということであり、必ずしも医療費の抑制にはならないのではないかという疑問を持つのです。そこで、いくつか具体的に考えてみましょう。

入院中心から在宅医療へ

 例えば、脳卒中や骨折などで緊急入院した老人が、手術やその後の急性期治療を終えて、退院できる状態になったが、片マヒなどの心身の障害が残った場合を考えてみましょう。従来なら「家で面倒を見れないから」と、いつまでも入院させ、必ずしも入院でなくてもできる投薬や注射をいつまでも続ける、そのうち本当に寝たきりになってしまう、というケースが多かったのです。これは「作られた寝たきり」専門用語で「廃用症候群」といいます。
 これに対して、自宅に帰って、家族と触れ合い、自分である程度の生活行為をしながら必要に応じて医師や看護婦が訪問してくれる「在宅医療」の制度が、現在普及しつつあります。
 しかし、これも十分な在宅医療を行うためには、訪問看護の回数を増やさなければなりませんし、保健婦やヘルパーなどの関係者との打合せを行うなどの時間も費やさなければなりません。また、訪問リハビリテーション指導のため、理学療法士や作業療法士も出かける必要があります。自宅に手すりをつけたり、段差解消や風呂の改造などの相談のためケースワーカーも出かける必要があります。
 在宅医療によって、当然のことながら病院の入院費は抑制されるわけですが、その分は訪問看護、訪問リハビリ等の在宅医療の費用に振り向けられていくわけですから、必ずしも医療費の大幅な抑制にはならないのです。
 ちなみに今、医師会は積極的に在宅医療に進出しています。病院に老人訪問看護ステーションを併設し、軽自動車に乗った看護婦が、町中を走り回っています。入院料が減った分、訪問看護の診療報酬が高いため、新たな収入源になっているからです。
 厚生省が「医療費抑制策の一環」として始めたはずの在宅医療は、今医師会の「新たな儲け口」として草狩り場の観を呈しています。

看護から介護へ

 次に、脳卒中や骨折の急性期治療を終えたが、なお継続した投薬やリハビリテーションなどの回復期の治療が必要で、退院に至らない場合を考えてみましょう。
 従来は、急性期も慢性期もいっしょくたにして「一般病院」に入院していました。そのため、病棟でも看護婦は、急性期と慢性期というタイプの異なる患者を看護しなければならないなど、働きにくく非効率な面もないとはいえませんでした。
 そこで、厚生省は入院患者を「1ヵ月以内」と「1ヵ月以上」に分けて、前者を「一般病棟」後者を「療養型病床群」にわけるよう、医療法を改正しました。そして、療養型の人員配置基準では、看護婦を大幅に減らし、代わりに「介護職員」(無資格の看護補助者)を導入しました。
 しかし、これも疑問があります。純粋に医学的に考えれば、確かに病棟を「救急患者」「急性期患者」「慢性期(回復期)患者」「終末期の患者」などに分けることは、合理的なことです。そして、それぞれにふさわしい人員配置のあり方があるのも当然でしょう。
 療養型の場合、看護婦を減らすれども、その分介護職員を増やすわけで、全体の人数は必ずしも大幅に減るわけではないのです。(減る場合も増える場合もあります。)「介護職員の導入で医療費を抑制できる」としたら、それは介護職員を低賃金労働者として導入する場合です。公立の医療機関では、看護婦は「医療職(3)」という比較的高い賃金体系であるのに対して、介護職員は「技能労務職」という低い賃金体系になります。これは正規職員の場合ですが、多くの場合では、非常勤等の嘱託職員を導入しています、こうなると人件費は半分以下になります。
 要するに、低賃金の介護職員の導入という前提があって、療養型病床は医療費抑制になるわけです。しかし、現在では無資格であっても、医療職場での介護には、やはり専門性が必要です。現在でも研修が必要であり、将来は「医療介護士」等の新たな免許職になる可能性は充分にあります。そうでなくても、私たちの立場からすれば、介護労働者も労働組合に参加して、低賃金の是正のために闘うでしょうから、人件費は上がっていくでしょう。
 もっとも、介護の部分はこれまでのような医療保険からではなく、今度創設される介護保険で賄っていくことになるので、医療保険財政だけを見れば、若干の軽減になるように見えますが、要は「医療保険」という財布から「介護保険」という財布に代わるだけのことです。やはり「医療や介護を含む社会保障費」という枠で見れば、大幅な抑制にはならないように思えます。

投薬中心からリハビリテーション中心へ

 「急性期に比べて、慢性期の患者は、検査や投薬・注射にかかる費用が少なくてすむはず」という見方もあるでしょう。だから、老人の長期入院患者については、薬や注射や検査を実施しても、一ヵ月にいくらという「定額払い」の制度が導入されてきました。これを徹底していけば医療費は抑制できると、厚生省は考えているのです。
 この考え方は、確かに従来のように、社会的入院の老人患者を、必要以上にベッドに寝かせて、必要かどうかもわからない薬を注射や点滴で投与してきた、「儲けのための寝かせ切り医療」からの反省という意味はあるでしょう。
 しかし、その代わりに、こうした慢性期(回復期)の患者には、様々なリハビリテーション医療が必要とされます(図表参照)。
例えば、骨折で入院した老人の患者が、ベッドの上で手足をギブスに固定し、1ヵ月後にやっとギブスが取れたとします。この間に、本来の疾患である骨折は治癒したものの、ベッドの上で寝ていたため、排尿が自分でできなくなったり、歩くことができなくなったり、という「廃用症候群」のため、そのまま「寝たきり」になってしまうケースが見られます。脳卒中の場合も同じです。
 こうした「寝たきり」を防ぎ、自立した生活に復帰するためには、まず、ベッドの上で手足を動かしたり、ベッドを降りて歩行する訓練(理学療法)から始まって、自分で食事をしたり、自分でトイレへ行ったり、自分で風呂に入ったりする訓練(作業療法)等のリハビリテーション医療が必要です。
 そのためには、病院では理学療法士や作業療法士、さらに言語や視覚、聴覚などの訓練を行うリハビリテーションのスタッフを増やす必要があります。退院後も訪問リハビリや通院型のデイケア等が継続して行われることが、自宅でも「寝たきり」にならないためには必要です。
 こうしてみると、検査・投薬・注射等の費用を抑制した分、今度はリハビリテーションの人件費等がかかるわけですから、やはり医療費は減らないということになります。
 実際、医師会等の病院・医院では、こぞって「リハビリテーション科」を設置し、デイケア(脳血管障害の患者を対象にバスで送迎しリハビリを行う)の看板を掲げ、「薬漬け・検査漬け」からの脱却と、新たな収入源確保に走り回っています。

後ろ向きの批判ではダメ

 こうして見ていくと、厚生省が「老人の長期入院が医療費を押し上げている」ことに着目し、「医療費の抑制」を目的に始めたはずの「長期入院の是正」は、「入院から在宅へ」「看護から介護へ」「薬漬けからリハビリへ」という、医療の構造改革を促進しましたが、そのことは、決して医療費を抑制するものではなく、「長期入院の費用」に代わる新たな費用として、「在宅医療の費用」「介護の費用」「リハビリテーションの費用」の必要性をもたらしつつあるといえないでしょうか?
 なお「老人が病院から追い出される」という事態があちこちで起きており、患者・家族や市民から怒りの声が上がっていますが、この場合、どの方向から批判していくかを考えておく必要があるでしょう。
 受け皿もなく「病院から追い出すのが悪い」というのは、その通りとしても、現状の寝かせ切り医療を認めて、いつまでも病院に預けさせてくれさえすればいい、という後ろ向きの批判ではいけないと思います。
 むしろ、先ほど言ったような医療のあり方の転換に伴う過渡期の混乱として、在宅医療の基盤整備(住宅の改造、訪問看護などの充実)、介護施設における医療の充実、老人医療におけるリハビリテーションの充実などを要求し、寝たきりにならない医療を求め、そのための財政的保障を要求する方向で、行政を追求すべきではないかと思います。
 そうなると、闘いの課題は、個々の分野で「医療費の無駄」を削ったとしても、「医療費総体」としては今後も増えていくという基本認識に立って、その負担のあり方について、労働者に有利な方向をめざしていくことではないかと思いますが、読者の皆さんはどうでしょうか?
      (M・S)



D負担をどうするか?(税・社会保険・自己負担)

確実に増える医療費

 医療の高度化と人口の高齢化によって、医療費は増え続けていることは、これまでもみてきましたが、再度グラフ(図表1)を掲載しました。国民医療費が国民所得(GDP)に占める割合は、昭和45年度(1970年度)では約4%だったのが、平成7年度(1995年度)には約7%です。25年で倍増している計算です。
 今後も、経済はますます「低成長」になってゆくでしょう。しかし、高齢化や医療の高度化は、待ってくれないでしょう。そのため、今後も、この傾向は続き、30年後の高齢化のピーク時には、国民医療費がGDPに占める比率は、約2倍から約3倍になるだろうと言われています。

負担増は避けられない

 問題は、それを「いかなる形で負担するか?」と、「いかに増大を抑制するか?」ということになりますが、「抑制」については、前回見たように、それほど大幅に抑制することはできないと考えられます。(老人の長期入院費を抑制しても、代わりに在宅医療、介護、リハビリ等の費用がかかるため。)したがって例えば、「今後30年間で3倍になるところを、2・5倍程度に抑制する」位がせいぜいではないでしょうか?「抑制策」をいろいろ講じても、いずれにせよ、負担増は避けられないのです。それが2倍になるか、2・5倍になるか、3倍になるか、という違いです。
 医療現場の声で多く聞かれるのは、「保険料を上げればいいではないか」です。しかし、保険料を払うのは労働者と資本です。倒産の危機に直面し、銀行からの貸し渋りにあっているような状況で、資本が保険料をこれ以上負担する事に難色を示すのは必至です。労働者も、解雇や賃金切り下げにあっている中では、保険料の負担を増やすことは、相当の重荷でしょう。
 そうすると、労使の意見で多いのは、「患者の自己負担と国庫負担をふやせばいい」です。しかし、「患者の自己負担」も高額になれば、一定以上は国庫から負担せざるを得なくなるのですし、その「国庫負担」も所得税や法人税、消費税などから負担しているのですから、結局は、労働者と資本の負担が増えることに、かわりはありません。

「増税」も「保険料アップ」も「自己負担増」も?

 そこで、とりあえず現状はどうなっているかを見てみましょう(図表2)。
 実は、日本の医療費負担のしくみは、「社会保険」制度を軸にしてはいますが、「保険料」だけで、すべてをまかなっているわけではないのです。平成4年度(1992年度)の時点で、保険料は負担の57・6%です。患者の自己負担は12%です(これは昨年の医療保険制度改正で20%余になっていると思われます)。国庫負担と地方負担の合計は30・4%です。
 つまり、国民医療費の5〜6割を保険料でまかなっているのであって、1〜2割は患者の自己負担、3割程度を租税で負担しているわけです。
 事の是非はともかくとして、社会的な様々な勢力(企業、労働組合、健保組合、自治体、大蔵省、患者団体、医師会、等々)の力関係により、医療費の増加に対応する負担の増加は、「税、保険料、自己負担」のいずれにも「振り分ける」ことにならざるを得ないでしょう。
 例えば、「患者の自己負担は昨年2割に引き上げたが、さらに3割位に引き上げよう。」「保険料も現在の約8%を15%位に、将来は20%位に引き上げよう。さらに介護保険料も引き上げよう。」「国庫負担や地方負担も増やさざるを得ないが、そのためには消費税を10%位に引き上げよう。さらに、年金や介護や保育も含めれば、15%位には引き上げよう。」というぐあいです。

高齢者も「聖域」ではない!?

 ところで、勤労者が「自己負担を1割から2割に」「保険料率や増税も避けられない」中で、「70歳以上の老人にも応分の負担をしてもらうべきだ」との声が高まってきています。昨年は、とりあえず老人医療の自己負担が増えました。
 老人医療費の自己負担増については、高齢者を支持基盤に持っている政治家(ほとんどすべての政党)や、高齢者を多く診療している医師会などからは、強い反発の声が上がっています(「弱者切り捨てだ」「患者が減った」等々)。しかし、勤労者の中からは、「今や老人は弱者ではない。所得の低い人はともかく、そうでない裕福な高齢者まで特別扱いするのはおかしい。」という声が聞かれます。
 かつて、人口に占める老人の割合が小さかった時代には、退職した高齢者は会社の健康保険組合を退会し、市町村の国民健康保険組合に加入するか、息子が勤める会社の健康保険の「被扶養者」として、健保と国保の枠の中にありました。
 1970年代に、革新自治体から始まった「老人医療無料化」は、国の制度にまで広がりました。ところが、オイルショック後の財源難と、人口の高齢化により「無料制度」は崩れました。ここで登場したのが、「勤労者の保険料と国庫で老人医療を支える」という「老人保健制度」です。国は「老人医療無料制度」をやめるが、しかし半分は国が負担しよう。残りの半分は、勤労者の健保組合などから「老人保健拠出金」を出してもらおう。というわけです。
 この「老人保健拠出金」は今や国民医療費の28・7%を占めるに至り(図表2)、健保組合の財政を圧迫しているため、労働者からは「高齢者からも自己負担分だけではなく保険料をとるべきだ」との声が出てくるのはやむを得ないことなのです。
 現在、老人医療費の負担については「企業の健保組合を退職後も延長し、退職者も保険料を払う」(連合案)、「高齢者については独自の医療保健を創設し保険料を払う」(厚生省案)、「税方式に戻し間接税でまかなう」(専門家の一部)等、諸説が入り乱れています。
 いずれにせよ、医療費の増大に対して、「税・保険料・自己負担」の3つの分野での負担増が避けられず、これまで「聖域」とされていた老人についても「税 自己負担」だけでなく「保険料」の負担が議論の俎上に上っているわけです。
       (M・S)



E医療のレギュラシオン

 破綻に瀕する医療保険制度の問題を考えてゆく中で、私はたまたま別の勉強会で「レギュラシオン理論」の学習をしている関係もあって、この理論をひとつの道具として、医療経済の問題を解いてゆくことが可能なのではないか、と思い始めました。そこで、今回はレギュラシオン理論の見地から、医療費の問題にアプローチして見たいと思います。
戦後の資本蓄積を支えた
健康保険
 戦後日本の高度経済成長の推進力は何だったかと言えば、何と言っても生産現場へのオートメーション・システムの導入による大量生産体制の確立であり、また家電製品を始めとした大量消費の市場創出であったと言ってよいでしょう。
 この大量生産と大量消費とを結ぶものが、春闘に象徴されるような団体交渉制度であり、これにより労働組合は生産現場の自動化と労働強化、長時間労働等と引き替えに、正社員・本工を中心にした賃金引き上げを勝ち取り、労働者は購買力の向上をもとに、洗濯機、カラーテレビ、冷蔵庫、クーラー、マイカー等の耐久消費財を購入するようになりました。
 消費の増大はさらなる大量生産へ向けて設備投資を促進し、設備投資は生産財の産業をも活性化させるという、資本蓄積の好循環が実現しました。こうした大量生産・大量消費による資本蓄積の体制を、レギュラシオン派は「フォード主義」と呼んでいます。
 この「フォード主義」の特徴は、労働者を単に「労働力商品」として長時間・過密労働によって搾取する対象とするだけではなく、「生産性の上昇」の範囲内で賃金を引き上げることにより、労働者を「消費者」として育成した点でしょう。
 ところで私達は、こうしたフォード主義のもうひとつの特徴として、苛酷な労働で心身の傷ついた労働者を、「再生可能な労働力商品」として常にリフレッシュするシステムに支えられていた点を忘れることはできません。それが企業の労使折半による組合健保を軸とした健康保険制度だったのです。

「労働力商品の再生」を担った医療

 大量生産の体制を支えたのは、言うまでもなく生産現場で、ベルトコンベアーに釘付けになって、長時間・過密労働に耐えて、働き続けた労働者です。私自身、アルバイトで食品工場で、パンケーキや蒲鉾などのベルトコンベアーで働いた経験がありますから、その苛酷さは骨身に染みています。労働の苛酷さゆえに、離職率が高いのも、オートメーション工場の特徴です。
 そうしたオートメーションに、労働者を長く繋ぎ止めるのが、「残業したら給料が多くもらえる」「頑張れば班長や主任になれて手当がもらえる」「来年の春には組合が会社と交渉して賃上げを勝ち取ってくれる」「そうすればテレビが買える」「車が買える」「マイホームも夢ではない」という消費願望であり、それを実現する団体交渉制度でした。
 しかし、労働者の肉体の方は願望通りにはいきません。食事もろくろく取らずに、残業ばかりしたために、体力が落ちて感染症にかかった。それを我慢して働き続けたために、風邪をこじらせて肺炎になった。疲労で注意力が散漫になっているのに、休憩しないで働いたために、機械に挟まれて怪我をした。火傷をした。骨折した。ストレスで胃炎になった。それを我慢していたら、胃潰瘍になってしまった。等々。
 戦前なら、労働者は基本的に使い捨ての労働力商品でした。病気や怪我で働けなくなった労働者は「やめてもらって結構」でした。しかし、それではベルトコンベアの故障を直して効率良くラインを進める「班長」は育ちません。生産ラインの問題を指摘して改良のアイディアを提供してくれる「主任」も育ちません。
 そこで、企業は「破損した労働力商品」を「修復・再生」して、再び生産ラインに投げ返すために、企業内の診療所を作りました。大企業は企業病院を設立しました。例えば、鉄鋼メーカーの企業病院には、「火傷ならナンバーワン」の整形外科医が高い報酬で招かれました。そして高い治療費を払うため、労使折半で健康保険組合を設立し、病院や診療所への支払いに当てるようにしたのです。
 大企業はそれぞれの企業で健保組合を作れますが、中小企業はそうはいきません。そのため政府がまとめて「政府管掌健康保険」を作りました。また農家や自営業者、退職した高齢者等のために、市町村が運営する「国民健康保険」ができました。その他、「日雇い健保」「船員保険」などが作られ、国民皆保険体制が確立しました。
 いずれにせよ、その主な役割は、大量生産に従事し、苛酷な労働で日々破壊される健康を、対症療法で治療し、生産現場に投げ返すことに他ならなかったのです。つまり、健康保険制度は、労働者を「使い捨て労働力」から再生可能な「耐久性の労働力」に変えて、大量生産・大量消費の資本蓄積体制を支える、ひとつの調整様式として機能したのです。

医師会と健保を調整する「中医協」

 さて、国民皆保険体制のもとで、医療の提供側も高度成長していきました。図2ー3ー1は、病院と診療所の数の推移のグラフです。昭和25年(1950年)から昭和60年(1985年)まで病院数は右肩上がりで増加しているのがわかります。また、図2ー3ー2は、医師、歯科医師、看護職員(看護婦、准看護婦等)の数の推移です、こちらを見ると、1980年を過ぎても医師、看護職員ともに増え続けていることがわかります。
 こうした医療提供側の成長を支えたのは、支払い側(健保組合)と診療側(医師会)との利害を調整した「中央社会保険医療協議会」略して「中医協」でした。有名な武見太郎率いる日本医師会は、診療報酬を抑制しようとする支払い側委員と渡り合って、物価スライド制を要求し、「公開質問状」を出したり、「保険医ボイコット」戦術で全国の診療所をストップさせたり、労働組合顔負けの「闘い」を展開したものです。
 かつては、診療所はけっして「もうかる」仕事とはいえませんでした。金持ちのお抱え医師になるなら別として、一般の勤労者、とくに病気がちの人は、治療費を払えない人が多かったわけですから。ところが、健康保険制度によって、患者から直接お金を取らなくても、予め多くの勤労者が拠出した保険料から、診療に応じて報酬を保証してもらえるのですから、こんないい商売はないことになったのです。
 また、医薬品もかつては、限られた人々にしかゆきわたらない「贅沢品」であり、多くの開発費を要する医薬品産業は、あまり市場性のある産業ではありませんでした。ところが、健康保険制度を媒介にして、医薬品もまた「大量生産・大量消費」のレールに載ることができたのです。
 このように、健康保険制度は、医療機関(診療所・病院)や医薬品をも、フォード主義の蓄積体制に組み込むという役割を果たしたといえるでしょう。

フォード主義の危機と共に

 高度経済成長を謳歌したフォード主義は、1970年代の半ば頃から行きづまりを露呈し始めました。この危機の要因については、レギュラシオン派によって、いろいろ言われていますが、私は基本的には大量生産による大量消費が飽和状態になったこと、今後は多品種・少量生産の段階へ以降するには、現在のシステムでは合わなくなっていること、アジアを始めとした中進国が新たにフォード主義の戦列に参入し、世界的大競争の波に追われていること等があると思います。
 そして、労働者が退職し高齢者が増加する中で、これまでの苛酷な労働で蓄積された健康破壊が、高齢者の慢性疾患という形で、顕現するようになりました。これまで「破損した労働力商品」を「対象療法」で修復・再生し生産ラインに投げ返してきたことが、今はそれで済まなくなったのです。対象療法で健康破壊を慢性化・潜在化させてきたツケを、老人医療費という形で、支払わさせられる事態に直面しているのです。
 ストレスによる糖尿病や交替制勤務による高血圧の持続により、血管が徐々に虚弱になり、その結果、脳血管疾患や腎臓疾患が増えているのです。ところが、健康保険組合の成り立ちが、そもそも「現役労働者の治療」のための「職域健保」であるために、在職中の健康破壊の蓄積による、「退職後の疾患」が医療費の半分近くを占める状況に合わなくなってしまったのです。
 かくして、フォード主義の危機を克服する新たな調整様式が見出せない中で、医療保険制度も新たな形態転換ができずに、悶々とした出口の無い状況が続いているのです。
       (M・S)



F税か社会保険か?


保険本来の機能(リスクの分散)を発揮した時代

 戦後の高度成長の時代、それは医療保険制度が順調に機能した時代でもありました。
 なぜ、順調に機能したのでしょうか?それは、患者の大半が現役労働者であり、その扶養家族(主婦や子供)であったからであり、また病気の大半が比較的短期に治療できる「急性期疾患」(感染症や外科的疾患)であったからです。
 企業と労働者は折半で保険料を支払い、基金を積み立てて置けば、いざ病気になったときの治療費をまかなうことができ、治療した患者は、再び労働者として企業に貢献することができたのです。
 この時代というのは、社会保険が「保険本来の機能」である「リスクの分散」の機能を、うまく発揮できたのです。
 労働者は、企業を退職すると、年金を支給され「余生を送る」ことになりましたが、戦後初期は、多くの場合、このあたりで人生は終わりでした。現役時代の働き過ぎで、血管が弱くなり、そのため脳卒中や心筋梗塞などで、早く亡くなってしまうケースが普通といってもよかったでしょう。
 皮肉なことですが、退職後の高齢者が「早死に」することで、医療費は低く抑えられ、職域の医療保険の範囲で、うまく回ることができたのです。しかし、そうした時代は長くは続きませんでした。

「救命医療」の発達と「慢性疾患」の増加

 その後、高齢者の寿命はぐんと伸びました。そのひとつの要因は、何といっても医療技術の格段の進歩です。
 まず、脳卒中などの脳血管障害の救命率が上がりました。高齢者が、自宅や町で脳卒中で倒れても、救急隊が以前より早く駆けつける体制が整備され、地域毎に救急病院それも救命救急センターが設置されて、すぐに脳外科等の手術が行われるようになりました。放射線CTスキャナー(断層撮影装置)やアンギオグラフィー(脳血管造影装置)で、脳の出血部位が立体的なコンピュータ画面で、手に取るようにわかり、緊急手術が可能になったためです。
 心臓発作等の心疾患でも、同様に救急センターに搬送すると即刻、心臓カテーテルといって、太い血管にファイバーを挿入し、コンピューター画面で、血管の詰まった箇所を捜し、ファイバーの先の小さな風船を膨らまして血管を押し広げ、血液が通るようにすることで、心臓の働きを回復させることが可能になったのです。
 しかし、これら脳血管障害や心臓疾患の患者は、こうした手術によって「完全に直る」ことはなく、もともと血管が弱いわけですから、その後も再発を繰り返しますし、日常的に薬を飲んで、検査を受ける必要のある「慢性疾患」の患者として、ずっと医療を受けなければならなくなります。
 血管が弱いために起きる疾患は、脳血管障害や心臓疾患の他、腎臓疾患など多岐にわたり、また糖尿病患者の増加が血管の弱い人をさらに増やし(血管が「砂糖漬け」になって脆くなるわけです)、それに費やされる医療費の割合がどんどん増えています。

「リスクの分散」から「所得の移転」へ

 こうして、慢性疾患を抱えた高齢者の数がどんどん増えてきたため、その医療費を、現役労働者の健康保険からの「拠出金」と、税収入からの「公費」の折半で支える「老人保健制度」ができました。
 これが、保健の性格を、同世代間の「リスクの分散」という本来の機能から、現役世代から退職後世代への「所得の移転」というふうに、すなわち「保険」本来の性格というよりは、一種の「税」に近い性格へと、変質させつつあるのです。
 つまり、老人保健制度というのは、現役世代から退職後世代への「所得の移転」の役割を果たすことになったのです。というのは、現役の若年・壮年世代は、働いて給料をもらい、それなりの所得があるが、疾病リスクは比較的低いのに対して、退職後の高齢者世代は、年金に頼り所得は低くなるのに、疾病リスクは高いわけですから。
 ここから混乱が始まるのです。
 本来は「税」の機能であるはずの「所得の移転」を、本来の機能は「リスクの分散」であるはずの「保険」に担わせるところから、様々な矛盾が起きてくるのです。

新たな「高齢者保険制度」等の難点

 現在、高齢者の医療費の増加に対して、(1)現行の「老人保険制度」を手直しする案、(2)「高齢者独立医療保険」を創設する案、(3)職域健保を「退職後も継続」する案などが出されています。
 (1)まず、現行の「老人保健制度の手直し」について見れば、半分を公費が負担するものの、もう半分は現役労働者の保険料の「拠出金」から負担することに変わりありません。現在、保険財政は拠出金の膨脹に圧迫されて、破綻寸前の状態です。これを解決するためには、公費負担の増加と共に、保険料の水準を大幅に上げなければなりません。ところが、ここで集団の論理が働きます。健保組合は、そもそも現役労働者(と雇い主)で組織されているため、「老人保健の拠出金」のための保険料アップには抵抗の力が働きます。「拠出金」制度は、あくまで健保財政に余裕がある限りで、成り立つものでしかなかったのです。
 (2)それでは「高齢者独立医療保険」の創設はどうでしょうか?高齢者にも健康な人と、病弱な人とがいるわけですから、ある程度までは「高齢者世代間」の「リスクの分散」という役割を果たすことができるでしょう。専ら現役世代からの拠出金に頼った老人保健制度に比べれば、高齢者の自立した制度であり、健全性が認められます。しかし、問題は高齢者の大半が退職者であり、所得水準が疾病率の高さに追いつかないという問題があります。そのままでは、現役世代の職域健保は健全財政、高齢者独立保険は大幅な赤字(今の国保がそうです)という格差が生まれることになり、結局は公費等の援助を厚くするなどの措置で補完しなければならなくなり、その割合はどうするかといった問題が出てくるでしょう。
 (3)最後に、勤労者の職域健保を「退職後も継続する」案はどうでしょうか? これは連合が主張しており、ドイツの保険制度がそうです。これは、在職中から退職後の医療費を積み立てておこうというもので、その分も含めて労働者が資本に半分を払わせるという点では、ある意味で「階級的」な解決と言えます。しかし、その前提として、労働者が就職から退職まで、同じ企業(あるいは少なくも同一の健保組合傘下のグループ企業)に勤めるという「終身雇用制」が維持されていなければ、これは成り立ちにくいものです。これは企業内の「在職者から退職者へ」の所得の移転を意味し、企業年金制度に似ていますが、リストラで人員削減を行う時代には、やはり健保財政の悪化を伴います。
 いずれにせよ、税の機能である「所得の移転」を、保険制度の再編によって解決しようとするところに、今日の「医療保険制度の抜本的改革」の無理の原因があるのです。
 これについては、広井良典著「医療保険改革の構想」(日本経済新聞社)で展開されている論旨が参考になります。

「税方式」論にも限界がある

 かくして、高齢者の医療費は「所得の移転」によってしか支えられないとなれば、やはり税方式でまかなうべきだ、との論が浮上する余地が生まれてきます。広井良典氏等も前掲書でそう主張しています。
 一応「論」としては、そんなに間違ってはいないと思います。そして、当面の労働者の要求としても、これは支持されると思われます。曰く「医療費の増加は公費で負担せよ」です。
 しかし、これはかつての高度成長時代の老人医療無料化の時と、税をめぐる経済環境が全く異なることを忘れるなら、古き良き時代の幻影に終わりかねないでしょう。というのは、経済の低成長が続く今日、公費負担の増加を支える程の「法人税の伸び」は期待できないからです。法人税率を上げるには、企業側の抵抗が予想されますから、労働者がよっぽど団結して、実力闘争を貫かなければなりません。
 加えて、仮に労働者の闘争に押されて、政府が法人税率を上げれば、一時は税収が増えるかもしれませんが、今日のように世界規模で資本が自由に移動する時代には、政府の意志に反して、マーケットが「日本売り」を始める等して、資本がどんどん海外に出てしまうことも想定されます。
 そこで、だから「企業が海外に逃げない範囲に法人税を留めよう」と「妥協」をすれば、結局「では直間比率を変えるしかない」、「医療・福祉のために消費税率を上げるしかない」という、お決まりのコースが待っています。
 こなってくると、資本側の間接税率アップ攻撃と闘い、法人税率アップを掲げて闘うことは当面必要なのですが、その先、つまり資本が海外へ流出してしまう事態に、どう対応するかが問われてくることになります。
 これは大変難しい問題です。第1に、医療制度もまた「国民経済」の枠を越えて、世界経済とその変革の中で展望する視点が必要になりますし、第2に、そこでは「保険」でも「税」でもない、新たな「健康のための共同出資」の制度を構想する視点が必要になります。
 そこで、次回以降では、「世界システム論」や「アソシエーション論」を借りながら、この問題にせまってみたいと思います。
       (M・S)



Gもうひとつの構造改革

病気を生み出す社会は医療費を減らせない

 年々増加し、まもなく年間30兆円に迫る勢いの医療費に対して、それを抑制するための様々な「構造改革」がいわれています。「老人の社会的入院の解消を」、「薬の値段を下げよ」、「開業医の儲け過ぎの是正を」等など。
 しかし、仮に老人患者をすべて病院から帰しても、あるいは製薬資本や開業医の儲けをゼロにしても、医療に従事する人々の数は年々増加せざるをえず、仮に今の低賃金を固定化したとしても、医療費は増加してゆかざるをえないでしょう。
 なぜでしょうか?それは、この社会の労働形態、生活形態が、日々不健康を生み出し、病気を増やしているからです。社会が病気を生み出す構造をそのままにして、いくら「医療の構造改革」を叫んでも、その効果は医療費全体の増加に対しては「焼け石に水」でしかないでしょう。
 私たちは、「病気を生み出さない社会作り」という視点に立って、もう一つの「構造改革」を考えて見る必要があるのではないでしょうか?
 そこで、最近医療関係者や保健・福祉関係者の間で提唱されている活動をふたつほど紹介したいと思います。第一は、病気にならない地域作りを目指す「ヘルス・プロモーション」の活動、第二は、急性期医療を終えた患者の地域での社会復帰を目指す「地域リハビリテーション」の活動です。

ヘルス・プロモーション(健康な地域社会作り)

 これまで「健康作り」と言えば「健康診断」の促進でした。
 しかし、健康診断には限界があります。というのは、病気を生みやすい生活形態はそのままにして、病気を「早期発見」するものでしかないからです。もちろん「早期発見」の意義は否定しませんが。
 これに対して、早期発見以前にそもそも病気になりやすい生活形態を改めることができれば、もっと効果があるわけです。
 「ヘルス・プロモーション」は、私もあまり詳しくはないのですが、もともと米国の歯科の保健予防活動の中から生まれたと聞いています。
 これまでは、定期的に職場や地域で歯科医が歯科検診を行い、虫歯が見つかったら歯科診療を勧めるというもので、進んだものでも、せいぜい「歯磨きの指導」程度であったと思います。
 しかし、例えば子供が祖母に預けられている間に、祖母が甘いお菓子を与えて喜ばせる
という習慣がある限り、いくらその子が歯科検診を受けても、無駄です。これは一つの例ですが、私たちの職場や地域の日常生活の中には、虫歯を生み出す要因がたくさんあります。
 ところで、これらを改めるには、地域の保健婦や歯科医がいくら一方的に「指導」しても効果は疑問です。というのは、先ほどの例で言えば、子供、親、祖母、近所の人々が、甘いお菓子と虫歯の関係を科学的に理解し、習慣を改めるため「その気」にならなければ進まないからです。
 そこで、保健婦や歯科医はあくまでも情報提供者の役に徹し、住民自身が健康作りを地域の共通課題として取り組む意識を引き出し、そのノウハウを提供するのが、ヘルス・プロモーションの考え方と捉えることができると思います。
 心理学的な手法も取り入れられているようで、間違うと行政による「押し付けの住民意識改革運動」になりかねない点を注意する必要はあると思いますが、逆に労働者や市民の自主的な運動の一部としていくなら、生活習慣の改善から、職場・地域の労働条件・生活条件の改善要求運動へと発展していく可能性があると思います。
 たとえば、ヘルス・プロモーションの視点から、職場の労働時間のコントロールを提起してみたらどうでしょうか? 産業医を労働組合の側に取り込んで、過密労働と脳血管障害との関係を職場で学習し、管理者に対して休憩時間や深夜勤務の組み方、ひいては労働時間の短縮を要求していくこともできると思います。

地域リハビリテーション(社会への主体的な復帰)

 これまで「老人の長期入院の是正」といえば、在宅での医療・介護であったり、施設への入所でした。訪問看護やホームヘルプサービスが盛んに行われ、まだまだ足りないものの、家族の介護疲れの解消には役にたつようになってきました。
 しかし、介護される人、看護される人は、あくまで受け身の「対象者」でしかありません。本人にとっては、介護してくれる人が、病院の看護婦・補助者から訪問看護婦に、家族からホームヘルパーに変わったにすぎません。自分自身の積極的な生活がない限り、在宅医療や在宅福祉も、ただ場所が施設から家に変わっただけです。
 積極的な生活意欲の無い環境では、結局「半寝たきり」になってしまい、病気も再発し、病院、老人保健施設、在宅医療のタライ回しになってしまいます。現に、在宅医療の多くが、そういう状態です。医療機関の中には、自らの系列の病院・施設・訪問看護ステーションの間で、患者をタライ回しにして、もうけているところも珍しくありません。
 これに対して、在宅医療や在宅福祉の中で、リハビリテーションを積極的に位置づける活動が、大阪の大東市など一部の自治体で始まっています。ここでは、障害を持つ高齢者は、介護を受ける単なる対象者ではなく、リハビリテーションに参加する主体として、位置づけられます。
 リハビリというと機能回復のための「訓練・治療」だけのようなイメージがありますが、それに終わらず、高齢者自身が組織を作って、様々な行事を企画したりする中で、家に閉じこもっていた高齢者が、買い物に、釣りに、居酒屋にと、積極的に地域社会で出ていくようになり、社会性を回復していることが注目されます。
 また、特に大東市の場合は、障害児が普通学校に通う運動を、リハビリ関係者がバックアップしてきた歴史があり、地域社会が障害を持つ人の社会参加を、住民自身の課題としているようです。
 関係者の間では、さらに障害を持つ人々の就労へと、課題を広げていきつつあると言われています。それは、リハビリテーションのもともとの理念である「社会性の復権」にも合致するものです。障害を持つ人々の労働参加を本当に追求していくことは、効率優先で労働者を分断する資本主義の構造改革の方向への挑戦でもあります。

労働の変革を展望した「保健・リハビリとの統合」を

以上、述べてきたことをまとめると、現在、医療費の増加に伴い、社会の負担のあり方が問題となっています。しかし、税か保険か自己負担か、その場合の労働者と資本との負担割合をどうするか、といった問題はあるにせよ、また、製薬資本や開業医の設けすぎを是正せよという問題もあるにせよ、いずれにせよ、今の社会構造をそのままにして、高齢化が進めば、医療費はどんどん膨張し、何らかの負担は避けられません。
 なぜなら、病気を生み出す労働・生活のあり方が温存される以上、高齢による有病率の増加は当然だからです。しかし、高齢者の有病率が高いのは当然でも、今日のように慢性疾患や寝たきりが多いのは、社会的な原因に起因します。ひとつは、若い時からの労働・生活による健康破戒の蓄積であり、もうひとつは病気の治療後の社会復帰の回路が閉ざされているための人間的な機能の低下です。
 したがって、私たちは病気を生み出す社会の在り方を根本から是正する必要があります。その契機は、今述べたような、ヘルス・プロモーションや地域リハビリテーションなど、従来の枠を超えた、積極的保健やリハビリテーションと医療との統合です。それを「有効な道具」として、労働者・市民による地域社会の改革、さらには労働現場の改革へと運動を進めていくことが、病気をやたらに生み出さない社会作りにつながるでしょう。
 その上で、医療は救命医療や難病の治療などに、「医療費の抑制」といった圧力を受けずに、人的、科学的、施設・設備的資源を、存分に投入すべきではないでしょうか?
       (M・S)



H市場経済と社会保障制度

 最近、経済学者の中で、社会保障は国民経済にとって、単なる「負担」ではなく、社会保障それ自体が、国民経済を活性化させる「経済効果」をもっているのだ、という主張がなされ始めています。
 つまり、これまでは「国民負担率が何%を超えると、経済は衰退する」といったマイナスの効果ばかりが強調されてきたのですが、例えて言えば、税を公共事業に投入することで景気が回復する効果があるというのと似たような意味で、社会保障とりわけ社会保険制度が、市場経済を活性化する効果があるというのです。
 これらの理論は、これまでは社会保障を一種の「社会主義政策」(福祉国家)として捉えてきたのにたいし、市場経済の論理から社会保障の存在意義を説こうとしている点で、時流にかなっているとも言えます。
 広井良典氏(千葉大学助教授)は「社会保険旬報」(4月1日〜5月1日)の連載「社会保障・個人・国家」で、いくつかの興味深い理論を紹介しています。

福祉国家の「効率性」とは?

 広井氏がまず紹介するのは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの経済学者であるニコラス・バーの見解です。
 バーは「伝統的に、福祉国家をめぐる問題は所得再分配の目的に関わるものであると考えられてきたし、また、それは主として非経済的な視点から研究されてきたので、経済学者が発言すべきことはあまり無いような問題と思われてきた。幸いなことに、こうした状況はいま変わりつつある。その背景には、一つには理論的な進歩、とりわけ情報の経済学の展開があり…この結果、福祉国家に対して経済学者が言うべき事は大きなものになっているのであって、そして議論の多くは、福祉国家が有する効率性の機能の重要さに関わるのである。」と述べています。そして広井氏は、バーが「サッチャーやレーガン政権下の社会保障縮減政策が、かえってマクロ経済の効率性にもマイナスをもたらした」と指摘していると述べています。
 では「福祉国家の効率性」「情報の経済学」とは、どのようなことを意味するのでしょうか? バーは「福祉国家は、こうした視点からみると、公平性の目標とはまったく独立に、むしろ効率性のための道具立てとしての性格をもっている。社会保険は、情報の失敗の問題に対応するための制度としてつくられたわけではないが、実質的にはそうした効果を果たしてきたのである。」と述べています。

民間保険の「情報の失敗」を補う社会保険

 広井氏は、バーの見解に触れながら、まず(1)社会保障の機能には「所得再分配(税による公費負担)」「とリスクの分散(保険)」という2つの機能があるとし、(2)後者の保険について、民間保険と社会保険の2つのあり方があると述べます。
 そして、民間保険のうまく成立しないケースとして、「逆選択」と「選択」という事態があることを指摘します。
 まず「選択」とは、平たく言えば、保険会社が有利な非保険者のみを選択(選別)してしまい、病気がちの人(保険金のかかりそうな人)、所得の低い人(保険料を払えそうもない人)が保険のしくみから排除されてしまうことです。
 次に「逆選択」とは、自分は健康だと思い、保険料は割高だと感じ、保険に加入するのをやめてしまうことです。このため、保険は有病率の高い集団によって構成されることになるので、保険料はさらに高くなり、そうすると、さらに保険に加入するのを止める人が出て、悪循環に陥ちいり、保険が成立しなくなります。
 したがって、「高リスク群の救済」のためには、低リスク群を含めて、強制加入とする「社会保険」が必要とされるのです。この社会保険により、結果として保険料は低くなり、かつ医薬品や医療サービスは、市場にゆきわたるようになる、というわけです。

「税」「社会保険」「民間保険」のすみわけ

 こうした論理構成に基づいて、広井氏は(1)所得再分配的性格の強い「老人医療・福祉」や「年金の基礎的部分」は税を財源とすべき、(2)リスクの分散のうち、逆選択の生じやすい「若年者の医療」は社会保険とすべき、(3)逆選択の生じにくい「年金の所得比例部分」は民間保険に移行すべき、というふうに「税」「社会保険」「民間保険」のすみわけを提案しています。
 一方、政府厚生省は、広井氏の主張する方向とは別の道、すなわち「高齢者の独立した社会保険」の創設へ向けて動いています。もっとも、この「高齢者医療保険」も財源は半分が保険料、もう半分は公費負担という折衷案になる公算が強いようです。
 果たして、これで解決になるのでしょうか?
       (M・S)



I新しい医療は新しい医療費システムを求める


医療費増加要因の変遷

 戦後の医療費の増加要因は、年代によって遷り変わってきたことを示すのが図1のグラフです(広井良典「医療の経済学」)。

●投薬の時代

 1960年代から70年代は、医療費の伸びの牽引車は、投薬でした。化学工業の発達を背景に、様々な感染症に対する医薬品が開発され、急速に普及しました。ピーク時の71年には、医療費全体の46%が薬剤で占められました。
 「薬漬け医療」といわれる状況も起き、サリドマイド、スモンなどの薬害が問題になりました。
 しかし、その後、薬価の抑制などにより、薬剤費の割合は、医療費の30%程度にまで低下しました。医薬品メーカーはリストラを余儀なくされています。
 ちなみに、共産党等は今でも「薬剤費を抑制すれば医療費の負担は少なくて済む」と主張していますが、規制緩和で薬剤費を下げる余地があるのは事実ですが、今やそれによって医療費の大幅な抑制ができる時代は既に過ぎてしまっています。

●検査の時代

 80年代になると、医療費増加の最大要因は、薬剤から「検査」に代わりました。血液の自動化学分析機の登場で、糖やコレステロールなど何十種類もの血液成分を、大量に高速で分析できるようになりました。CTスキャンで、頭部などの患者の臓器内部を立体的に映し出し、癌や脳卒中等の診断ができるようになりました。
 医師の診断に検査は欠かせないものになり、また医療機関の重要な収入源になりました。今度は「検査漬け」と言われる問題が起きるようになりました。富士見産婦人科事件はその象徴でした。
 しかし、80年代の後半になると、検査も「包括点数」(まるめ方式)が導入されるなどして、検査料が抑制されました。今や、検査技師の専門学校を卒業生しても、医療機関の就職口が見つからない状況です。

●入院ケアの時代

 90年代にかけて、医療費を押し上げたのは、入院費です。老人の社会的入院が増加したことや、ベッド数規制を前にした駆け込み増床で看護婦の人手不足が人件費を上げたために、看護婦をはじめとしたケアにかかる費用がぐんと増えたのです。手のかかる患者が増えたため、看護婦と患者の比率は、4対1から3対1へ、さらに2・5対1へ、2対1へと、厚めに配置されていきました。看護婦の足りない所では無資格の看護補助者が導入されましたが、それもだんだん厚めになってきました。
 今度は、とにかく老人を入院させて、寝たきりの世話を看護婦にさせて、入院費を稼ぐようになりました。「寝かせきり医療の老人病院」という批判がおきてきました。在院日数が長くなるとe点数が下がる制度が導入されました。今ではベッド数が100床から200床の病院は、人件費や施設の増改築費を捻出できず、経営難に陥り、バタバタと倒産しています。

●在宅ケアの時代

 そして、グラフにはありませんが、90年代になると、訪問看護やデイケア(送迎・通院型リハビリテーション)等の在宅ケアが、新たな医療費増加要因となっています。もしかしたら、そろそろ「訪問漬け」「リハビリ漬け」が問題にされる時代かもしれません。事実、医療経営関係者の間では「リハビリブームもそろそろ頭打ちか?」とささやかれています。

産業構造の変化を反映

 こうした医療費の推移を見ると、化学工業や精密機器等の大量生産・大量消費から、人によるサービスのやり取りへと、重心が移動していることがわかります。それは、感染症から慢性疾患へという疾病構造の変化にも対応しているのですが、同時に戦後資本主義の産業構造の変化をも背景にしていると言えます。
 図2は、通産省が描いた「社会資本整備の4つのSカーブ」です(広井良典「医療の経済学」)。第一のSカーブは重化学工業化を支えた鉄道の敷設、第二のカーブは戦後の高度成長による労働人口の都市集中や家電産業・モータリゼーションを支えた上水道と道路の整備、第三のカーブは70年代以降の安定成長期における市民生活の底上げを支えた下水道、治水、空港、都市公園、高速道路、廃棄物施設などの整備です。
 そして、これからの第四のSカーブは、今話題の「新社会資本」、すなわち社会福祉施設、文化施設、情報ハイウェイ、バイオテクノロジーの研究施設等であろうと言われています。

医療の発展方向

 さて、このように疾病構造や産業構造の変化に対応した医療の変遷を見通したとき、図3のような医療の発展方向のイメージが描けると考えられます。
 第一に、図の「右への発展」。すなわち、高齢化で慢性疾患の治療やリハビリテーション、さらには障害を抱えながらも地域で自立し、職場へのカンバックを含めた社会復帰を支えるためのケアのシステム化です。そこでは、看護、介護、リハビリテーション、生活と労働のコーディネートといったサービス労働のいっそうの社会化が課題となります。寝たきりの介護にかかる労働は、当面は増やすにしても、将来的には寝たきりをなくすことで、減らせることができるようにすべきでしょう。また死へ向かう患者の肉体的・精神的苦痛を軽減するターミナルケアも社会全体の課題です。
 第二に、図の「左への発展」。それは予防です。そもそも、これだけ病気の高齢者が増えた原因は、若年期、壮年期の「働きすぎ」すなわち、消費生活の向上と引き換えに過密・長時間労働を強いられ、ストレスによる偏食、高血圧により、血管がもろくなり、腎臓病や心臓病、脳血管障害などが蓄積したためです。現在のような受け身の健康診断から進んで、労働・生活環境の改善をめざし、保健婦、産業医、労働組合が連携する必要があります。それにより、中程度の急性・慢性疾患を減らすことができるでしょう。
 第三に、図の「上への発展」。これまで十分に社会的資源を投入できなかった「難病」の領域に、重点をおいて医学医療の研究開発や治療体制を整備することが課題となるでしょう。その技術的基盤は、先程述べたバイオテクノロジー(生命工学)、すなわち遺伝子レベルでの医学の発達です。子供の時から苦しい闘病生活を強いられる難病の治療に、現在の何倍もの社会的エネルギーを配分すべきですし、そのためにも中程度の病気の予防に力を入れる必要があります。

参加型の医療費の出資・配分システムを

 こうした医療の発展を支えるためには、医療保険や介護保険だけでは到底まかなえないでしょう。確かに、医療保険や介護保険は、誰もがかかる確立の高い急性・慢性の疾患には必要です。しかし、地域での自立支援は自治体の行政費用からも支えるべきですし、予防の取り組みは企業もそのコストを負担すべきです。また難病のような少数の患者に高額の医療費がかかる領域では、大学が研究開発費を投入すべきです。そのためには、医療の社会的な位置づけと医療費の構造について、情報公開を進め、できるだけ多くの労働者や市民が、医療費のニーズと負担と配分の決定プロセスに、日常的に参加できるようなしくみが必要でしょう。
   (M・S)



最終回  大危機に向かう医療――危機脱出の条件を問う

縄文時代における労働と健康の一体性

 縄文時代の人骨を、弥生時代の人骨と比べてみると、意外にも縄文時代の方が体格もよく、スポーティーで健康的な体系をしていたと言われます。その後、弥生時代の方が、かえって貧弱になっているというのです。
 しかし、反面、縄文遺跡の墓地を発掘すると、人骨の半分は乳幼児や妊産婦であったようで、いかに乳児死亡率、周産期死亡率が高かったかがわかります。また長生きした人の人骨も、よく調べると何本もの飢餓線が走っており、一生の間に、幾度となく飢餓状況に瀕していたことが推測されます。
 狩猟、漁労、採集を基礎に、若干の栽培農業と交易活動に従事していた始源共産制社会では、確かに食料生産の量的な低さゆえに、特に乳幼児や妊産婦など、抵抗力の弱い人に必要な栄養を確保できず、死亡率が高かったのは事実です。
 しかし、そうした中でも、社会の構成員は「縄文カレンダー」とよばれる四季の自然の変化に対応し、河川に上ってくる鮭や鱒を採り、海浜では素潜りで貝を採り、山では猪や兎などを狩り、森ではどんぐりや椎の実を採り、スポーツ的要素の多く、しかも多方面の労働に従事することで、健康な肉体を再生産していたのです。食料の種類の豊富さも、健康の支えになりました。ただ、量的に少なかったため、食料の途絶えた時期や、出産などの体力の弱った時に、感染症に打ち勝つことができなかったのです。
 誰かが病に倒れると、共同体全体が病人を取り巻き、お祭りを行い、何とか元気付けようとしました。というのは、共同体に病人が出たということは、何らかの理由でその共同体が自然の掟に背いたため、その罰を受けているのだ、という認識があったので、共同体の存続のために、社会全体の物的、人的資源を一人の病人のために投入するのは当然のことだったのだそうです。
 ここに、私たちは人間社会の生産・労働の在り方により健康・疾病がどうなるか、さらに社会にとって医療とは何かについて、本源的な関係を見ることができると思われます。

農業社会発生に伴う労働と健康の対立化

 弥生時代になると、水田による稲作が始まり、毎年の秋には大量の穀物が、共同体の倉庫に蓄積されるようになりました。この限りでは、食料生産の水準は、飛躍的に増大し、乳幼児や妊産婦の死亡率は、いくらか少なくなっていったと推測されます。
 しかし反面、労働形態は、農耕という特定の分野に固定され、走ることは少なくなり、常に地面の方へ屈み込み、単調な反復作業が続き、体格はだんだんと貧弱になっていったのです。また、栄養源も米など特定種類の穀類に限られ、栄養バランスの点でも、かえってビタミン不足等による低下があったと思われます。
 農業共同体は、広大な水田を計画的に耕す必要から、共同体首長層は専ら開墾や水利事業の計画と指揮命令を行い、共同体成員は自ら思考せず首長の命令に従属して単純な作業に従事するようになりました。スケジュールを乱すことなく、開墾、耕作、収穫を効率的に推進することが、社会の存続の至上命題になり、病人への看護の社会的優先順位は下がり、個別の家族の扶助行為にゆだねられることになりました。古代のヒルコ神話に見られるように、障害者や病人は農業共同体の生産活動の邪魔者として、棄民化されていったと推測されます。
 この関係は、その後の古代、中世の農業社会を通じて、基本的には変わらなかったと思われます。ただ、農業の営農単位が共同体から個別家族に移り、家族の経済力(扶養能力)が向上するにつれて、病人を家内で扶助する余裕も出来てきました。このため、農村内には、薬を調合し病気を治療する村医者が生まれてきます。農産物の商品化に伴い、薬と医療行為も商品交換の萌芽が見られます。
 いずれにせよ、縄文時代に見られた労働と健康の一体性や、社会存続と医療行為の一体性は失われ、生産は個々の労働従事者の健康を度外視して効率化され、その結果生産性の拡大(栄養水準の量的拡大)にも関わらず、様々な不健康(感染症への抵抗力の低下)が生み出され、病人の世話は、家族や共同体の余裕の範囲内で相互扶助として「負担」するという、生産(労働)と医療(健康)との二律背反の関係が生じていったのです。

資本主義における医療の成長と危機

 初期資本主義は、この労働と健康との対立関係を一層徹底させました。工業都市が形成され、農村から労働者が流入しました。労働者は、長時間の過密労働、粉塵や高熱などの有害作業環境や、低賃金による貧しい食事、不衛生な住宅環境のもとで、栄養失調と感染症による病気に倒れていきました。有名なエンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状態」によれば「リヴァプールでは、1840年には、上流階級(紳士階級、自由職業者等)の平均寿命は35才、商人と上層手工業者のそれは22才、労働者、日雇労働者および僕婢階級一般はわずかに15才にすぎなかった」という驚くべき状況でした。
 しかも、都市に流入した労働者は、農村に存在していた家族や共同体の相互扶助からは切り離されていましたから、病気になれば工場から捨てられ、町の教会の慈善施設に収容されるか、町で野たれ死ぬしかありませんでした。こうした状況を背景に、イギリスではエリザベス救貧法が、ドイツではビスマルクの保険制度が登場するのです。しかし、それは労働と健康の対立関係の補完物でしかありませんでした。
 やがて資本主義の外延的蓄積体制は危機を迎え、その後オートメーションによる大量生産と、労働者の賃金上昇による大量消費の好循環を伴う内包的蓄積体制(レギュラシオン派の呼ぶフォーディズム)の時代に移ります。ここでは、社会保険方式(日本やドイツ)か、税方式(イギリスや北欧)か、民間保険主体(アメリカ)かの違いはあれ、労働者の消費力(所得)の増大と企業の高利潤を源泉として、勤労者の医療費を社会的にプールし、労働者が疾病にかかった時に効率的に治療し、再び生産現場に復帰させ、医療機関に円滑に費用を支払うシステムが機能しました。フォーディズムのもとで医療費は飛躍的に膨張していきました。その結果、労働者の平均寿命は延び高齢化社会を到来させましたが、同時に構想と実行の分離を原理とするテーラーシステムによる過酷な労働により慢性疾患が増大し、病弱な高齢者の一群が生まれることになったのです。
 70年代以降、フォーディズムは危機を向かえます。利潤率と賃金の停滞は、医療費の源泉である税収や保険料の伸びを頭打ちにしました。他方、高齢化と慢性疾患の増加は、高齢者の医療費を押し上げています。様々な医療費削減(診療報酬の切り下げ等)が次々に打ち出されていますが、それにより医療機関や医療産業は経営不振に陥り、倒産や統廃合を余儀なくされています。
 各国とも共通していますが、日本の政府は、3方向からの医療費抑制策を進めています。それは、(1)病院や製薬会社等の供給サイドについては、これまでのような保護政策をやめ(ベッドの削減、薬価の切り下げ、定額制「DRG/PPS」の導入)、規制緩和で合理化・統廃合を促す(米国等の民間保険の参入、国公立病院の統廃合)、(2)患者に対しては、自己負担の増加や早期退院の促進で受診を抑制する、(3)医療費の調達についてはケア部分を介護保険として別途徴収し、高齢者の独立医療保険(年金からの天引き)を創設する、というものです。
 しかし、これらはフォーディズムの危機に対する、継ぎはぎの対症療法にすぎず、医療の危機的状況を改善するものではありません。というのは、これらの改革の基本となっている道具が、すでに破綻したフォーディズムを支えていた古い制度的諸形態(税、社会保険等)の枠を超えていないからです。

新しい労働・健康・医療への諸条件

 フォーディズムの危機からの脱出が、資本主義の何らかの新しい蓄積体制に収斂していくのか、それとも資本主義的生産様式そのものの克服へ向かっていくのか、現段階では定かでありません。しかし、いずれにせよ社会と労働との関係(健康と医療の関係)を、より高度にしてゆく方向が展望できるし、しなければならないと思います。
 まず中心に据えられなければならないのは、労働と健康との対立的関係の克服です。フォーディズムのもと、労働者は賃金水準(消費水準したがって医療費の支払い能力)の向上と引き換えに、構想と実行の分離の徹底による単純労働、しかも長時間・過密労働を受け入れなければなりませんでした。そのことが様々な慢性疾患を増やしました。特定の部分労働に固定化される労働のあり方を変革し、企画・開発にも関与しつつ、広い範囲の労働領域(製造現場、研究・教育、農漁業、保育・介護サービス等)を回り、労働時間を短縮することで、労働への参加が精神的にも肉体的にも健康作りと一体であるような労働システムが必要です。今日のエレクトロニクスの発達は、その条件を提供しています。
 次に専ら成年男子が働き蜂になり、配偶者(主婦)、子弟(学生)、親(高齢者)を養うという労働のあり方を変え、女性もパートではなく正規職員として労働参加し、高齢者も体力や経験に合わせて労働参加し、児童・学生も社会教育を兼ねて労働参加し、障害や慢性疾患のある人も障害の程度に応じて労働参加する、というノーマライゼーションとワークシェアリングを確立し、それぞれが経済的主体(医療費の出資主体)となることが必要です。すでに、年金の掛け金を大学生から徴収したり、高齢者の独立医療保険創設の動きで、保険料の家族単位から個人単位への転換は、社会的要請となっていますが、労働参加が伴っていないため矛盾を深めているのです。
 また、企業の利潤について、これまでは法人税や社会保険の労使折半などの形で、社会保障費を支出させてきましたが、それは生産や投資のあり方とは無関係でした。これからは、企業の設備投資そのものに、労働環境の改善や地球環境問題への取り組みの要素を盛り込ませる必要があります。規制緩和や国際的大競争の荒波のもとで、短期的には困難に見えますが、企業社会の底流の変化を見れば、労働者の経営への関与や、株式の証券会社経由での大衆化の動きがあり、労働者自主管理や市民出資による企業コントロールは決して夢ではないと思います(この問題は別途、深く論じる必要がありますが)。
 最後に、労働者・市民の医療システムへの様々な回路を通じた参加です。職場・地域の労働生活環境の変革を通じた健康作り(ヘルス・プロモーション)により医療費を少なくし(その分難病対策に回す)、医療現場の周辺業務(介護等)への参加(時短とセットのボランティアもひとつの方法)により医療費はどの程度必要なのかを日常的に実感できるようにし、必要な医療費は保険料というより共同出資として積極的に出資し運営に関与する、そのような医療自治システムが必要ではないでしょうか?
 大危機へ向かう医療に立ち向かいながら、新しい労働・健康・医療について、大いに論じ、変革への取り組みを共に進めましょう。
        (M・S)