基地撤去こそ問題の真の解決 安保にしがみつく米支配階級
基地分散のごまかしを許すな!
沖縄の犠牲の上の繁栄
私たちは、日米安保体制を考えるときの大前提として、基地の島=沖縄の現実こそ日米安保条約の現実であることをはっきりと知っておく必要があります。しかし沖縄と日本本土の基地周辺(横田基地等)以外の日本人のほとんどは、安保の現実に触れずに今まで来ています。安保の現実に直面している米軍基地周辺の人々にとって、安保は米兵の犯罪や騒音など生活ばかりか地域経済までも、全てにわたって基地のために犠牲になることです。
一方米軍基地周辺にいない人々、つまり安保の現実に直面しない大部分の人々にとって、安保はさしあたり自分の生活を脅かすものでなはく、安保に対しては現在の日本経済の繁栄を守るために必要といった認識ぐらいしか今まで持っていませんでした。この認識は従来の日本政府が唱えてきた見解でもあります。
しかし昨年の九月四日に沖縄で発生した米兵による少女暴行事件をきっかけとする沖縄の人々闘いは、ある人の生活の安定のために他の人の生活が犠牲になる矛盾、日本経済の繁栄のためという大儀名分のために沖縄が犠牲になっている矛盾を鋭く突きました。七二年五月十五日に本土復帰してからまもなく二十四年が経ちますが、年月の重みがあるからこそ太田知事の「代理署名拒否」の強行手段に対して日本政府でさえも正面きって異を唱えることはできませんでした。
基地の分散は解決にはならない
沖縄の闘いは安保体制の存続か解消かの問題も同時に提起しています。安保体制存続であるならば犠牲を沖縄のみに強いるのでなく公平に分担することが求められることになりますが、これは太田知事の主張でもあります。沖縄の基地の整理縮小は本土の基地の拡充=新たな犠牲の始まりでもあります。従って対象となる基地周辺の人々による大規模な反対運動が起きるのは必至です。実際日米首脳会談を前に、四月十二日に沖縄の基地問題の象徴ともいうべき普天間飛行場の返還が基地機能を他の基地に分散して行われることが決まりましたが、機能強化となる嘉手納基地や岩国基地の人々は反対運動を起こしています。
基地機能を維持したままでの基地分散は犠牲の分散であり、新たな犠牲を生み出すことでもあります。これでは基地問題を何も解決していません。ほんとうに基地問題を解決しようとするなら、基地の廃止でしかないことは自明の理といえます。
どちらにより必要か?
基地の廃止は日米安保の解消でもあります。となると日本の経済的繁栄を保障している日米安保を解消してまで基地を廃止する必要はないという論理が、日本のブルジョアジーを中心に一方で出てきます。この論理の弱点を突く形で、米国では日本は安上がりの防衛費でもって経済的繁栄だけを追求しているといった「安保ただ乗り論」があり、こうした負い目のため日本政府は米軍基地の経費の七〇%(九五年で六,二五七億円)を「思いやり予算」と称して支払っています。また九一年の湾岸戦争では血と汗を流す代わりにお金をと一三〇億ドル(当時の換算レートで一兆六五〇〇億円)を米国に支払っています。しかし沖縄で少女暴行事件が発生し、沖縄県全体で基地撤去運動が盛り上がって来たのに一番敏感に反応したのは日本政府でなく米国政府であったこと、知事の代理署名拒否闘争と続くその後の基地撤去運動を見てあっさりと普天間飛行場の返還に合意したこと(橋本首相は自分の手柄と思っているが)を考えると日米安保は日本のブルジョアジー以上に米国のブルジョアジーにとっていかに大切なものであるかがよく分かります。このように考えると過去の安保の論議には多くのドグマ(独断的主張)があると思います。
(次号に続く)
(伊藤俊康)
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市の嘱託職員に交通費支給を勝ち取るまで
つい先月、自治省は「自治体の非常勤職員にも通勤費相当分を費用弁済の形で支給することができる」という「見解」を自治労に示した。
「通勤費? なんだ、当たり前じゃないか」と思うかもしれない。
ところが、決して「当たり前」ではなかったのだ。今時、学生がコンビニでアルバイトしても、当然のように通勤費は支給される世の中に、自治体の嘱託職員は、その「報酬」には「もともと交通費相当が含まれている」という、なんとも珍奇な法律解釈が昔からあって、通勤費の支給要求の厚い壁となってきたのである。ところが、その場合の「報酬」という概念は、例えば自治体病院に、他都市の病院の偉い先生が週に一回来てもらうのに、交通費も含めて多額の謝礼を払うような場合が想定されているのであって、日給月給の低賃金で働く大多数の嘱託職員にこの解釈を当てはめるのが、そもそもおかしいことではあった。
とはいえ、このおかしな解釈を盾に自治体当局は、人件費を抑制する錦の御旗にしてきたというわけだ。
■ ■ ■
さて、私の勤務する市立病院には、多くの職種の臨時的任用職員や嘱託員が働いている。交通費の支給問題では、実に長い闘いの歴史をもっているので、そのことをお話ししたい。というのは、その闘いは、常に正規職員と嘱託職員の対立とその克服、あるいは免許をもった嘱託と無資格の嘱託、フルタイムの嘱託とパートの嘱託、看護職と技術職というふうに、ありとあらゆる対立や分断を乗り越えようとする闘いでもあったと思うからである。
約二十年前、回数券を支給されたのは実はパート職員が先であった。こうして「最初から逆転現象」があった。当時、市立病院の外来の正規職員の看護婦の人員を抑えて、パート看護婦を導入した。この時期、パート看護婦を確保するのは困難で、人材確保の必要性から例外的に回数券が支給されたのだ。
同じ看護婦でありながら、パート職員には回数券が支給されるのに、病棟で夜勤にも従事するフルタイムの臨時職員には交通費が支給されないのだった。準夜帯に四時間働く「準夜パート」には支給されるのに、深夜に十時間働く「夜勤専門看護婦」には支給されないのだった。
それ以降、「パート以外の嘱託職員にも交通費を」と毎年、要求し続けたが、なかなか実らなかった。
■ ■ ■
チャンスが巡ってきたのは、数年前、「看護婦不足」が社会問題になり、「看護婦確保法」が制定され、看護職員の給料表が大幅に改善された時であった。当局は、「看護職種に限って」交通費の支給を認めた。一日たったの三百四十円、バスの初乗り運賃往復分である。交渉の先頭に立っていた医療技術職の嘱託職員は悔しい思いをした。しかし、「当局の厚い壁に風穴を開けたんだから」と次の闘いへの決意を固めた。
だが、翌年もその翌年も医療技術職の交通費は取れなかった。三年後、ようやく「医療技術免許職に限って」支給する回答が出た。今度は、先頭に立っていた無資格の事務職や助手の嘱託職員が、悔しい思いをしなければならなかった。
他方、組合が嘱託職員の交通費を前面に掲げるようになるにつれ、正規職員の側から「どうしていつもパートや嘱託のことばかり取り組むのか?」という不満が出始めた。ベアが高い時代ならこうした不満は出なかっただろうが、ベアが一%を切るような低額に押さえ込まれるなかで、不満のはけ口は弱者へと向かう。「低い人々の条件を改善すれば正規職員の条件はおのずとよくなるのだ」と説得したが、労働者を分断する資本主義の世の中が続く限り「永遠のテーマ」のような気もする。
こんな苦労を繰り返し、昨年やっと全ての嘱託職員に交通費補助が支給されることになった。免許職以外は一日百七十円である。これにはオマケがついた。自転車で通勤する人も月千円まで「交通費補助」をもらえることになった。この分だけ、正規職員と逆転現象が起きた。といっても、ベアの上積みをしないことと引き換えの苦い成果でしかなかった。
■ ■ ■
こんな闘いが、きっと全国のあちこちで行われていたのだろう。やっと自治省が従来の見解を変えたのである。長い闘いの中で、交渉の先頭に立つ人も何人も交代した。しかし、みんな誇りをもってこの闘いを語る権利があると思う。それは、そのつどそのつど、分断を越える努力をしたからだ。
(市立病院職員 S)
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吹き荒れる首切り、賃下げ
「『大競争時代』だから仕方ない」のか?
実態を低く見積もる政府調査によってさえ、失業率は三%台、有効求人倍率は〇・六%台を記録しています。「リストラ」の合い言葉の下首切りが強行され、パートや派遣など不安定雇用者が大量に生み出され、それと結びついて賃金も大きく引き下げられてきています。
「一定の評価が出来る」(連合)と自賛された今春闘も、この攻撃への歯止めにはなりそうもありません。二〇〇〜三〇〇円という賃上げ上昇額、企業間格差の拡大、「ベア廃止」や「春闘見直し」論の台頭、「スト設定なし」等々、むしろ企業側の意思が貫れた春闘に終りました。
企業や御用組合の幹部は、「不況だからしかたない」「『大競争時代』を生き延びるためだ」と言います。
しかしこれは、これまでも繰り返されてきた「企業あっての労働者」という理屈と同じです。この理屈の下で労働者は「合理化」に「協力」させられてきました。しかしその結果は長期にわたる深刻な過剰生産不況、ますます情け容赦なくなる首切り・賃下げの攻撃以外なにものでもありませんでした。
「『大競争時代』だから仕方がない」など言っていては、労働者の生活はますます悪化するだけです。労働者は、不況と大競争によって労働条件が大きく脅かされる時代だからこそ団結と闘いを必要としています。むしろ今ほど労働組合の闘いの意義が大切になっているときはないのです。
確かに、現在の社会では「企業あっての労働者」というのはひとつの現実です。企業は利潤を唯一の目的に活動しており、労働者はこの利潤を生む搾取材料として役に立つ限りで雇用されるのです。そしてその結果が、より大きな利潤を目的とする無政府的な競争、過剰生産不況、失業と労働条件悪化というわけです。
しかし、資本主義の現実はそれだけではありません。資本主義は生産過程を賃金労働にもとづく過程に置き換え、今では生産と流通の基本的な過程のほとんどが労働者によってになわれるにいたっています。ここでは資本家は、人々の生活に必要な富の生産自体とは関係のない、ただ生産が利潤を目的に行われる限りで必要とされるにすぎない存在となっています。もちろんいかに「有能」な資本家といえども、不況や失業の問題を解決することは出来ません。
だとするなら、労働者が生産と流通のすべてを管理する社会に移っていって何の不都合があるでしょうか。資本家を廃し、高度に発展した生産力を利潤ではなく人々の生活をいっそう豊かにするために役立たせる社会へと進むことに、何の不都合があるでしょうか。
もちろん、そうしたからといってソ連や中国のような社会になってしまうなどというものではありません。かつてのソ連や中国は資本主義が未発展で生産の主体はまだ労働者のものにはなっていず、労働者の生産に対する知識も全く不十分で、官僚的な統制や命令や搾取がはばを利かす条件がありました。しかし今日の日本では高度な知識と能力を身に着けた労働者が生産を担っており、こうした社会では生産を滞りなく続けるためだけにさえもはや官僚主義は障害となっています。生産と流通のすべての過程を自由で平等な労働者が共同しながらコントロールすること、労働者自身が自主的な協議や決定にもとづいて社会を管理していくことが十分に可能となっているのです。
いま資本は、自らの支配体制をも変革しつつ労働者への攻撃をかけています。首切り・賃下げはもちろん、「構造改革」の名の下に弱肉強食の競争戦にいっそう拍車をかけ、「国際貢献」の名の下に軍備拡張や海外派兵の拡大をはかっています。彼らはこれを、数十年に一度の歴史的な大変革だとのたまっています。
だとするなら、我々労働者も彼らを上回る自覚と決意でこれと闘っていく必要があります。首切り・賃下げを許さない闘いを強め、海外の労働者との国際連帯を追求すると同時に、こうした闘いを資本の支配の廃絶、労働者自身が生産や流通を自主的にコントロールする社会をめざす闘いと結びつけて発展させていく必要があります。
社会党は今や社民党と名を変えて完全に保守党化し、共産党もまた中小経営者の利害にひきづられたり狭い政治主義やセクト主義を振り回すことをやめず、労働者の闘いは大きな困難を強いられています。しかし労働者の自覚と団結をもってすれば、この困難は絶対的なものではありません。雇用や労働条件を守り発展させる闘い、新しい社会を切り開く闘いを、ともに力強く押し進めていきましょう。
(阿部治正)
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棄権が多かったのもうなずける 大東市長選を振り返って
四月二一日に大阪・大東市長選の投票があり、三人の立候補者の中、現職の近藤松次氏が僅差で当選しました。投票率は五五・八%(前回六一・九%)で過去最低でした。
◇ ◇ ◇
現職の近藤氏は、共産党の支持を受けていました。そして、保守の一部の支持も受けていました。例えば、近藤氏を支持する「大東市を市民の手に! 新しい清潔な市政をつくる会」の会報「緑の風」には、自民党の中山正暉氏や坪井一宇氏のメッセージがありました。つまり近藤氏は、国政では考えられない保守と革新が推す市長ということになります。
要するに、近藤氏の主張は保守の人でも支持できる内容だったということです。対立の品川公男氏(新進・社民推薦、公明支持)や、隅田優氏(自民党大東支部推薦)との主張にほとんど差がありませんでした。どの候補者も「JR住道駅南側再開発」「下水道建設の推進」「緑の保全」ということを訴えていました。しいて違いを見つけると、近藤氏が「同和行政を終結する」と言っていることぐらいです。
◇ ◇ ◇
一方、品川氏は、もっぱら「近藤市政は共産党の言いなりだ」という批判をしていましたが、彼らも議会では近藤市政の提出案件に九割以上賛成しています。
これでは、皆しらけて、棄権が多かったのもうなずけます。
また、地方議会で自民党と共産党が手を組んでいるのだから、国会でもそのようなことが起きるということは十分に考えられます。
このような中、時間はかかるが、真に働く者のための政治党派の登場が必要だと、あらためて痛感しました。
(大東市発・K)
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混迷する北朝鮮 問われる私たちの立場
「北朝鮮の歴史」が前号から始まりました、あえて関連する記事を送るのは最近の北朝鮮の動きを危惧すすからです。
クリントン米大統領は、四月十六日の訪韓で中国を加えた四国で「南北平和協定」を目指す立場を明らかにしました。しかし、北朝鮮側は「二国間協議」の立場を崩しておらず、四月に入って非武装地帯への侵入や陣地構築訓練など休戦協定違反を繰り返しています。これは、韓国を排除して米国を「二国間協議」に引き込みたいための行動で、本当に軍事行動を考えていないとしても、偶発的な衝突は懸念されます。
不安定な金正日体制
金日成の後継者としての立場は明らかであるにもかかわらず、金正日体制は確立されていません、それは指導力の弱さだと言われています。確かに、父親のようなカリスマ性もなく、能力的に優れていたからでもない、単に「偉大なる首領様」の息子だということだけの後継者、指導力が弱いというのも当然でしょう。それどころか、金正日が表面に出てきた時期と北朝鮮の経済が低迷をはじめる時期が同一ということで、マイナスの要因にさえなっています。自分の権威を高めるため、父親の権威を高めるしかないところに弱さがあります。
少ない情報とは言え、それでも体制は確立されつつあるとも言われます。しかし、体制が確立したとしても経済破綻は明らかで、人民は飢餓状態と言われており体制の不安定は続くでしょう。
挑発的な行動
北朝鮮当局は、国際社会に水害被害の援助をいったんは断りながら、三月末に追加援助を要請しました。その直後、四月四日に軍事境界線の南北にある非武装地帯に軍隊を侵入させました。北朝鮮側は、「韓国が休戦協定を無視して、非武装地帯に武器と武装要員を引き入れた」「われわれの自制力と忍耐力にも限界があり、休戦協定に規定された非武装地帯の条項を守れなくなった」(朝日新聞による中央放送の談話)からだと言うのですが。
北朝鮮は、休戦協定を和平協定に「格上げ」するように米国に求めています。あくまでも相手は米国で、「休戦協定は北朝鮮と米国が署名した」「韓国は朝鮮半島の安保問題にかかわる資格がない」(朝日新聞による労働党機関紙から)という態度です。
今回の挑発的行動が、米韓首脳会談に向けた政治的行動であることは明らかです。これが単なる「政治的ジェスチャー」、外交手段で終わらず、国内での戦争煽動や体制固めに利用されることの方が危険です。
私たちも問われる?
今回の北朝鮮当局の目論見は外れて、朝鮮半島の平和協定をめぐる協議は、当事者の両国に米国、中国の四カ国になりそうです。
北朝鮮以外の三国には、それぞれの思惑はあるでしょうが、現時点で金体制崩壊による難民や経済的負担に耐える余力はないという共通の利害では一致するでしょう。一方の北朝鮮当局は、体制維持に必死で「四カ国会議」に参加したとしても容易に協議がまとまるとは思えません。あくまでも、米国や日本との二国間協議との「平行路線」も考えられます。いずれにしても、朝鮮半島は不安定な状況が続きそうです。
北朝鮮からの亡命者達の声や著書には「どうにでもなれ」という人心が「いっその事、戦争にでも」という状況もあると言います。このことが政治的に利用されて、危険な行動に繋がる可能性は捨てきれません。 いろいろな状況が予想されます、最悪の場合を考えれば南北の衝突から戦争。その時、私たちはどの様な行動、立場をとればいいのでしょうか。どちらを支持する、しない、今の私にはわかりません。
まだ現実に起こっていない事に、「なにを考えてんねん」と言う事もできますが、仮に想定(非現実的とは思いません)としても十分に議論すべき課題です。事実、大阪の一部ですが問題提起されています。
北朝鮮の圧政下に苦しんでいる人民、韓国の資本主義の下での労働者、その支配者間の戦争にどの様な態度でいどむのか、日本の労働者は、と考えます。
読者の皆さん、ご意見をお願いします。
(折田)
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連載 ビルマの人権侵害 L
今年一月、ノルゥエー主導の国際議員派遣団がビルマを訪問しようとして入国を拒否された(ワーカーズ三月一日号参照)。やむなく国際議員派遣団はバンコクで各国、各機関からの聞き取りを行った。今年四月に公式な報告書が提出されたが、資料として価値が高いので、数回にわたって連載することとする。
国際議員派遣団報告書 その一
一九九五年五月、ワールド・ビュー・インターナショナル書記長のアルネ・フィヨルトフト氏と、ノルウエー・キリスト教民主党の国会議員団団長である元ノルウエー外務大臣のキエル・マグネ・ボンデビック氏はビルマの民主化のプロセスを促進する下準備としてタイを訪問した。
一九九五年七月十日アウンサンスーチー女史が解放されて以来、ワールド・ビュー・インターナショナルとボンデビック氏は、国際議員団をタイとビルマに派遣するためのイニシアティブをとってきた。
目的
アウンサンスーチー女史の解放は、ビルマの民主化のために彼女自身が直接反政府運動に参加することを可能にした。自宅軟禁中の反政府活動家と国際社会の努力は、ビルマに対して目立った政治状況の変化をもたらさなかった。一九九〇年の選挙以来、この国には民主主義が施行されていないわけだが、民主化の促進のためには斬新かつ強力な手段が必要である。アウンサンスーチー女史の解放は、ビルマ内外の民主活動家に新たなチャンスをもたらした。その結果、派遣団は次の目的をあげることにした。
派遣団は、アウンサンスーチー女史の解放後の民主化実現のために、どのような手段をこうじる必要があるかを調査する。
アウンサンスーチー女史の解放以来、SLORCはビルマの政治状況の改善のための彼女との対話は行わないことを明確にしている。国際社会の多くはアウンサンスーチー女史を解放したSLORCの意図に対して疑いを抱いてきた。案の定、彼女の解放は、SLORCの国際的な政治、経済関係の拡大を目論むものであった。
アウンサンスーチー女史の解放以来、SLORCと国際社会の政治経済関係が拡大したことは多くの人々が指摘していることであるが、こうした関係拡大のためにはビルマの真の民主化が伴わなければならないのは明白である。彼女の解放によるビルマの真の民主化に向けた変化はまったく見られない。したがって、派遣団はさらに次の目的を加えた。
派遣団はアウンサンスーチー女史の解放後のビルマの民主化推進のために、SLORCに対する国際的圧力を強め、維持する活動を行う。
派遣団メンバー
当初、派遣団は少なくとも半数はアジアからのメンバーを含む6人議員で構成された。アメリカと日本からの代表が参加することは特に重要である。さらに民族紛争もしくは軍事政権などから民政移管をしたという経験を持つ代表の参加が望ましかった。
派遣団は次のメンバーで構成された。
キェル・マグネ・ボンデビック、ノルウエー・キリスト教民主党国会議員団団長、
元外務大臣
レナルト・ボドストロム 元スウエーデン外務大臣
ニーラン・ティルチェルバム スリランカ国会議員
竹村泰子女史 参議院議員
シェイク・ハシーナ女史 バングラデッシュ・アワミ連盟党首
ビル・リチャードソン 米国国会議員
バングラデッシュでの政治状況により、シェイク・ハシーナ女史は参加できなくなった。しかし彼女は、同連盟の国際問題秘書、元バングラデッシュ国会議員のアブル・ハッサン・チョードリー氏を代理に派遣した。
ビル・リチャードソン氏は当時の米国内の予算紛争で参加できなくなった。
派遣団プログラム
当初のプログラムはタイとビルマを訪問することであったが、ビルマがビザの発給を拒否したため、すべてのプログラムはタイ国内で行われることになった。ロンドンのSLORC大使館は昨年十一月にビザの申請を受けたのだが、公式な拒否は一九九六年一月十六日に行うという状況だった。
当初のプログラムではビルマ連邦国民評議会(NCUB)、ビルマ連邦国民連立政府(NCGUB)、タイ外務省、SLORC、アウンサンスーチー、国連開発計画(UNDP)、国連児童基金(UNICEF)、在ビルマ日本大使館、在ビルマEU代表団、在ビルマ米国大使館、在ビルマ・オーストラリア大使館を訪問する予定であった。
ビザの発給を拒否された結果、最終的なプログラムはつぎのように修正された。
ビルマ連邦国民評議会(NCUB)、ビルマ連邦国民連立政府(NCGUB)、タイ外務省、ビルマ駐在国連開発計画(UNDP)、ビルマ駐在国連児童基金(UNICEF)、タイ駐在国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)、在タイ日本大使館、在タイEU代表団、在タイ米国大使館、在タイオーストラリア大使館、との面談。さらにビルマ人難民と反政府活動家からの聞き取りも行った。
主な討議内容
世界人権宣言は「人民の意思は統治の権力の基礎とならなければならない」とうたっている。この原則はビルマでは一九九〇年の選挙で一時的に適応されたが、軍事政権から民政への移管を伴うことなかった。いまだに移管のためのタイムテーブルは明確でない。
そのため、派遣団はビルマの民主主義達成の可能性として、今何が考えられるかを調査することとした。民主化の達成には、国民民主連盟(NLD)、軍事政権、少数民族各派が全部含まれなければならない。
いまのところSLORCはNLDおよび少数民族各派からの政治対話の提案を、国民会議こそがビルマの政治対話の場であるとして、無視している。国民会議は一九九〇年の選挙ののちにSLORCが将来のビルマのための憲法を作成するとして設立したものである。 しかしながら反政府派は、国民会議を民主的なフォーラムとは認めていない。国民民主連盟(NLD)、ビルマ連邦国民連立政府(NCGUB)、ビルマ連邦国民評議会(NCUB)は、国民会議の場の外側で本当の三者対話を行うことを求めている。
対話の提案が無視されていることに対し、民主勢力および少数民族各派はSLORCに対する圧力を強めている。そのプロセスには国際社会もかかわっている。
三者対話の可能性
ビルマの民主主義達成には、軍事政権、国民民主連盟(NLD)、少数民族各派が全部含まれなければならない。いまのところSLORCは、アウンサンスーチー女史からの政治対話の提案を、国民会議こそがビルマの政治対話の場であるとして、無視している。NLDは一九九五年十一月に国民会議から撤退した。この七年間にわたって、十五から十六の武装少数民族集団がSLORCとの停戦に合意している。しかしながらこれら少数民族集団は政治的対話の結果が生じていないことに不満足である。
SLORC
SLORC(国家法秩序回復評議会)は一九八八年九月十八日に権力を掌握した。政権を握ると同時にSLORCはいくつかの政策を発表した。治安軍による権力の掌握、法と秩序の回復、民主的多党選挙の実施、そして従来の政府機関すべてを廃止することなどである。
当初、SLORCは権力の掌握は一時的なものであると強調した。しかしながら一九九〇年の選挙のあと、SLORCは当選政党に権力を委譲することを拒否した。そのかわり新しいビルマ憲法の草案を作るとして国民会議を招集した。SLORCによれば一九九〇年に選挙で選ばれた人々は最終的に憲法草案を作成することになるという。結果的には新憲法のもとで選挙が行われ、そののちに国民投票が行われることと思われる。現在のところ今後のプロセスのタイムテーブルは設定されていない。
(つづく)
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北朝鮮の歴史 独裁の成立、展開、そして崩壊 A
1、ソ連による人造国家(続き)
前回、ソ連軍の北部朝鮮への進駐、彼らの振る舞い、その実態を見ました。それはいわば、長年ある暴力団に支配されていた町民が、暴力団が追っ払われたので喜んだら、喜んだのも束の間、この暴力団を追っ払ったのが別の暴力団だった、というものでした。
当然、この新たな支配者、新たな専横者に対する朝鮮人民の怒り、反発は、日に日に高まっていきました。
そこでソ連が思いついたのが、巧妙にも、直接自らを前面に現わすのでなく、朝鮮人を、しかも朝鮮人民の伝説的英雄、「金日成(キム・イルソン)将軍」を押し出すことでした。
伝説的英雄
一九一○年、朝鮮は日本に併合されましたが、このとき少なからぬ軍人が祖国をあとにし、以降、中国、さらにはシベリアを根拠地として日本軍との闘いを組織しました。そのなかで、やがて朝鮮国内に伝わってきたのが「金日成」の名でした。
「一九二○年代から、一人の勇敢な抗日の闘士の名が遠雷のように国内にまで聞こえてきた。金日成将軍である。苦難に沈む植民地下の民衆にとって、その名は希望であり、光明であった。彼らは、『いつか、金日成将軍が日本軍を打ち破って凱旋してくる』という祈りにも似た気持で待ちつづけた。こうしてひとつの伝説が生まれ、人々の心に刻まれていった。金日成将軍とは、かつて実在した抗日の闘士の一人でもあったし、また複数の闘士の集合名詞でもあった。事実と伝説とがないまざって作られたひとつの像であった」(萩原遼『朝鮮戦争──金日成とマッカーサーの陰謀』、文芸春秋社、三三頁)。
例えば、在日朝鮮人作家、金達寿(キム・タルス)氏の作品に『玄海灘』という長編小説があります。これは、太平洋戦争下の、つまり植民地下の朝鮮を舞台に、二人の朝鮮人青年が祖国独立運動に身を投じ、自らの生を賭けていく、その過程を描いた作品ですが、ここでも「金日成」の名はこんなふうに登場します。
「金日成! その名は、彼らにとっては伝説であった。それは生きている伝説であった。井戸端のおかみさんも、あたりに眼をくばりながら彼を語り、老人たちは『いまに、金日成が……』といっていたその名であった。小学校の生徒たちでさえ、学校へ持っていかないノートにはこっそりと彼の名を書いていたものであり、学生、インテリたちは暗黙のうちに、その存在をうなずきあっていたものだ」(講談社文庫、一六五頁)。
ソ連はこの金日成に目をつけました。
登場
すなわち、四五年一○月一四日、ピョンヤン市で開かれた朝鮮解放祝賀集会に、この金日成将軍がついに姿を現わしました。
「あの金日成将軍が帰ってきた!」といううわさは、ピョンヤン市内に広がっていて、金日成将軍見たさに集会場につめかけた市民は七万人に達したといいます。そして──
「いよいよ金日成将軍の登場となった。次の瞬間、みなはあぜんとした」(萩原、前掲、四六頁)。
というのは、上記のように金日成将軍は、一九一○年代、二○年代から日帝と戦いつづけているのですから、もうかなりの年配のはずです。ところが、「白髪の抗日の老闘士を想像していた人たちの目にうつったものは、似ても似つかぬ若造であった」(同)。
それもそのはず、にせ物でした。
青年の名は金成柱(キム・ソンジュ)。このとき三三才。実はハバロフスクのソ連極東方面軍の下にあった第八八特別狙撃旅団にいた朝鮮人隊員で、一九四一年、日本軍の討伐部隊に追われて「満州」からソ連領に逃げこんで以来この旅団に属す、ソ連軍の大尉でした。
この青年に、ソ連は白羽の矢を立て、四五年九月、ソ連軍の船でひそかに元山(ウォンサン)を経てピョンヤンに運び、この日、金日成将軍にすりかえて民衆の前に登場させたのでした。
これが後の、そして一昨年死んだ金日成です。
なぜ金成柱?
ではなぜソ連は、この金成柱という青年を選んだのか。
軍事的功績を基準とするなら、他の者になっただろうといいます。例えばソ連軍は、上記のように金成柱には「大尉」の称号しか与えていませんでしたが、崔庸健(チェ・ヨンゴン)という者には「少佐」の称号を与えていました、等々。
結局、いちばんの理由は、金成柱の、「スターリンとソ連共産党に対する忠誠度」(同、三四頁)にありました。
実際、かつて金成柱と行動をともにし、後に中国に亡命した元朝鮮人民軍歩兵師団政治委員、呂政(ヨ・ジョン)氏はこう証言しています。
「ソ連人はなぜ金成柱をそれほどかわいく思ったか。ソ連極東方面軍情報部長、ソローキン少将は、金成柱と手を結び、彼を頼りにした。金成柱は、反ソ的な傾向を帯びた自分の戦友たちをソローキンに密告した。金成柱は、ソ連安全委員会(秘密警察。KGBの前身)の情報員となったのである」。「抗日連軍を統率していた中国共産党側から見るなら
、革命事業の先頭に立ってきて、指導者として申し分のない才能、気質を備えた朝鮮人は崔庸健、金策(キム・チェク)、許亨植(ホ・ヒョンシク)だった。ともに戦った抗日パルチザンたちも皆それを認めていた。この三人はまた、金成柱を指導した金成柱の上官でもあった」。「ソ連人たちは、これらすべてのことを無視した。彼らの関心の的は、ソ連の言うがままになる人間は誰で、ソ連に最後まで忠誠を誓う人間は誰かということだった。そうして、ソ連秘密警察の情報員である金成柱が選ばれたのである」(呂政「暴かれた歴史」、東亜日報・韓国日報編『金日成──その衝撃の実像』、講談社、三三○頁)。
ホー・チミンと金成柱
なお、この金成柱、すなわち後の「金日成」について、玉城素氏が興味深い指摘をおこなっています。すなわち、同じく変名を使ったベトナムのホー・チミンとの対照です。
ホー・チミンと金日成、「この二つの名は、いずれも変名である。しかし、その変名の成立は、まったく逆の過程をたどっている。ベトナムのホー・チミンは、その名を名乗る以前には救国の英雄として有名な存在であったグエン・アイコックであった。彼は、ベトナム解放闘争を本格的に始めるにあたって、その伝説的な名前をふり捨てて、無名のホーおじさんとして、ひそかに日本占領下のベトナムに潜入し、その解放闘争の実績によって全民族に慕われる存在となった。それに対して、金日成とは、はるか以前から伝説的英雄として朝鮮民族のあいだに知られて来た名前である。ソ連進駐軍とともにソ連軍の一員として北朝鮮に進駐してきた金成柱という無名の青年が、新たな支配者の座に就くために、この名を名乗ったのである」(『朝鮮民主主義人民共和国の神話と現実』、コリア評論社、五○頁)。
ともあれ、こうしてソ連の手先、無名の青年、金成柱は、「金日成」となって朝鮮人民の前に姿を現わし、やがて、当時誰も考えられなかったような歴史的役割に果たす存在になっていきます。
(小川 紀)
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読書室 ぶっとび「霞ヶ関」事情
『お役所の掟』 宮本政於著 講談社発行
キーワードはニッポンの官僚
昨年の春は阪神大震災とオウム真理教で持ち切りだったけど、今は住専とエイズが大きな関心を集めています。それぞれに直接的な関連はないようだけど、どこかで繋がっているような気もします。そのキーワードは何か、いろいろ考えていて、偶然古本屋でこの本を見つけました。
日本の支配階級の一員でありながら、資本家のように闘いの前面に立つこともなく、議員のように選挙の洗礼を受けることもなく、ひたすら黒子のように階級支配を支えている。その生態は時折何かの拍子に表に出ることはあっても、その多くは闇の中です。
ところが今は、その彼らが表舞台で立ち往生している。太陽に目が眩んだモグラのように。たがが緩んでしまった彼らは、もうこの社会を押さえ切れなくなりつつあるのか。そんな問題意識を抱きつつ、宮本氏が紹介する彼らの生態を見てみたい。
この本が出版された三年前、宮本氏は厚生省検疫課長でしたが、一九九五年二月に懲戒免職になっています。だからこの本は、宮本氏の首と引き換えに出版されたようなものです。精神分析医の冷静さをもって、自分達の生態をこうも赤裸々に書かれては、誰だってぶっとぶだろう。
お経読みと質問取り
まず最初に飛び出すのが「お経読み」と「質問取り」です。法案の趣旨説明のことを業界用語で「お経読み」といい、「次の日に国会で質問する議員先生の質問を、議員会館までうかがいに行く」作業を「質問取り」というのです。要するに国会で必要なもの、法案の作成から国会議員の質問や大臣の答弁まで、なんでも官僚が作ってしまう。国会議員にはそんな能力はほとんどなく、彼らは用意された文章を読むだけです。
そこで、厚生省幹部のこんな言葉も飛び出す、「国会なんてそんなもんさ。俺がお前みたいに初めからバカにした態度をとらないのは、程度の悪い議員でも、いちおう国民に選ばれた人たちだからだ。だから形だけでも尊敬の念を表すことにしている」。この辺は国会中継やニュースを見てもよく分かるし、特にころころ首のすげ替わる大臣なんかは「お経読み」そのものです。
こうした作業、質問想定問答集作りは夜を徹して行なわれ、サービス残業に泊まり込みの「滅私奉公」となる。また日常的に日曜出勤があり、それらが組織に帰属するための踏絵なっています。その他にも、横並びの発想からいつも一緒にいて同じ行動をすること、要するに苦楽を共にすることで仲間意識を強めているのです。こうした内向きの力は、外に向かっては排他的力となってはね返ることはいうまでもありません。
遅れず、休まず、仕事せず
このお役所ムラの掟は、「遅れず」「休まず」「仕事せず」というもので、宮本氏は役所に入りたてのころ、ある局長から「これさえ守れば、多少できが悪くても最低、課長職につけるから」と忠告を受けています。それで「遅れず」というのは、人より早く出勤して席についていろということで、これは仕事をするためではなく、「始業時刻より前に来ていることを、まわりに知らしめることが目的なのです」。
次に「休まず」というのは文字通り休暇を取らないことで、「病気になっても、熱で苦しんでいるところを十分に同僚に見せてからでないと休まない」。またサービス残業はもとより、「勉強会、研究会、持ち帰り残業、上司との一杯飲み屋へのつきあい、休日ゴルフ、課内旅行、野球大会、運動会、引っ越しの手伝い、結婚式、葬式への列席、と数え出したらきりがない」付き合いがあります。
最後に「仕事せず」は、「一見仕事をしているように見せかけながらも、本当の仕事はするな、具体的に言えば、行政官として新規の事業を自分から旗を振ることは避けろ」ということです。役所は減点主義なので、ひたすら前例にならいマイナスを出さないこと、「ひとりだけ抜きん出て自分の洞察力と信念に基づいて行動を起こせば」目立ってしまって攻撃の対象になってしまうのです。
こうして「滅私奉公」に励み、「五〇歳を超えれば人生も終わりに近づくのですから、退職後の天下り先を気にするようになるのは当然でしょう。ひと筋に 『先憂後楽』と考えて人生を仕事に捧げてきた以上は、大過なく幹部ポストを終え、その後の人生を何ヵ所かの名の通った財団なり民間企業に天下りたい。長年の滅私奉公の代償として、高い退職金もそこでもらえるのです。ところが問題を起こしてしまえば全部がパー。双六の上がり近くになって、ふりだしに戻るのはだれだって嫌です」。「遅れず」 「休まず」「仕事せず」というのは、官僚生活から生まれた実に深遠な人生哲学のようです。
官僚は永遠か
団塊の世代である宮本氏は、日大医学部を卒業後の一〇年間を海外で過ごしています。そして、一九八六年に厚生省に入省、保険医療局精神保険課課長補佐となり、そこで「ぶっとびお役所生活」を経験することになったのです。そこでは、自分の意見をはっきり言い責任を持って決断をするということが、掟破りとして攻撃されました。彼はこうした経験を外部に公表することによって、異質なものを排除しようとする力との均衡を保っていたようですが、最後には厚生省がメンツを保つ(内部に対して示しをつける)ために「懲戒免職」を強行する形でこの均衡は破られてしまいました。
最近宮本氏はこんなことを言っています。「日本の官僚制度の根底に流れる思想は、戦前も戦後も変わっていません。戦前は軍部官僚が、戦後は霞ヶ関官僚が、日本を破壊へと導きました。一心同体、心中の美学、 『滅私』とも呼ばれますが、それが日本をダメにしたのです。官僚は責任を取らず、最後は国民が犠牲になる、この筋書きは今でも健在です。日本を改革できるのは国民です、官僚制度ではありません。でも教育を通して、官僚は国民を去勢してしまいました。だから、おかしいなと思っても、ほとんどの国民は批判する気力もないのです。最後に笑うのは官僚たち、これが日本の実像です」(「週刊金曜日」三月一日号)。
当たらずと言えども遠からず。東大を頂点とする受験競争は今や幼稚園から始まっており、末は官僚か大臣かという出世競争はたった一つの価値体系を押しつけます。人生を落ちこぼれないためには、この価値体系を受け入れるしかありません。もちろん違った人生の目標を持ち、そのために生きているものにはそんなものはクソ食らえです。また、宮本氏が言うほど官僚機構は自立的なものでもありません。最初に延べたように、体制を支えるかぎりにおいて彼らは権力を行使できるのす。日本社会総体がゆらげば、官僚機構もゆらがざるを得ないのです。あらゆる手を使って、もっともっと揺すってやれば、おもしろいかもしれません。
(晴)
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連載 老人福祉の現場から G 問われるショートステイ
ショートスティとは心身上著しい障害のある六五歳以上の者で、常時家族によるい介護を受けており、その介護者が一時的に介護することが困難な状況になった場合利用できるサービスである。
その状況とは社会的理由(介護者の病気、出産、冠婚葬祭等)と私的理由(介護疲れ、旅行等)があり、平成元年まで私的理由は社会的理由の約3倍近い五千二百円も支払わなければならなかったが、現在は理由の如何に関わらず飲食費相当額を負担するする事となった。利用日数は七日以内とされているが、必要最小限の範囲で延長も可能である。又平成五年度からモデル事業としてミドルステイ(三ヵ月未満利用)等利用期間の長期化や計画的に利用できる弾力化が図られてきている。この事業の中には、ホームケアやナイトケア事業も含まれているが未だ低調な活用状況にある。
今までの福祉政策は、女性に二十四時間私的ケアを押しつけていた(今でもあまり変わってはいないが)。その結果介護者の燃え尽き現象や自殺・心中等の悲劇を生み出したり、高齢者個人及びその家族の孤立化等の社会的問題を生みだした。このような背景の中、社会的受け皿の要請が強まる中で出てきたのがこの在宅福祉政策である。
しかし利用にあたってはお役所の判断が優先され、利用者及び家族に選択権は保障されているとはいえない。病状や障害、痴呆の程度によっては受け入れを拒否されることもある。その為になんとか申請を受理してもらいたい家族は、障害や痴呆状況を実際より軽度に申告したり、感染症を隠す等の事例も少なくない。
実際私の職場でもこのような事例は珍しくない。区役所からきた書類と、利用者の状態が違いていたりする。これらはお役所のずさんな事務処理の実態と、ここまで家族を追い込んでいる介護の限界を顕著に物語っているのではなかろうか。
また利用者の重度化、虚弱化が進むなか既存の設備だけでは対応できないケースも多い。それは非人間的な処遇とつながり、現場労働者には労働強化となって押しかかってくる。
実際に利用されるケースのなかには、介護者の高齢化や、日中独居状態等により十分な介護がされぬまま放置さたり、何ヵ月も入浴していない、きちんとした食事もしていない等の深刻を極めているものもある。
ある利用者の背中は湿疹で赤く腫れ上がっていた。それを見た看護婦が言った。「ここ(施設)にいたらすぐ直る病気なのに・・・。」その人に近くに病院はないかと尋ねると「あるけれど、そこは玄関が階段になっているので、じいさんと二人ではとても行くことはできない。」と車椅子のその女性は八十歳を越えた男性を見上げて言った。この老夫婦は申請してから利用するまで二年かかったという。絶対数の施設不足と人的不足を痛感する話である。
巷では介護保険だ、介護システムの構築だと新たな理論・技術の研究が盛んであるが、あまりに現実から乖離し、政策者や学者の研究材料にされているだけなように見える。
高齢者が、家族が、私たち国民が本当に必要としているサービスは何なのか、利用者及び家族の声を真摯に聴く姿勢から始めることが大切なのではなかろうか。
(T)
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外国の社会主義への手紙
我々の組織と闘いについて
世界の階級闘争の最前線で闘い、すでに大きな成果を上げてきた同志の皆さんに、少し送れて歩いている我々が同じ社会主義の同志として挨拶を送ることが出来ることを光栄に思う。我々は、同志たちから多くのものを学ばなければならないと考えており、そのために同志たちの闘いの経験やその教訓をできるだけ多く知りたいと考えている。
今回は、我々と同志たちとの間の今後の意見交換や討論の前提として、我々の歴史や現在の政治的立場について少しだけ紹介させていただきたい。
ただし、ここで述べることは必ずしも我々のグループの統一見解ではなく、我々の中でスリランカの社会主義者との連帯を追求してきた一活動家の意見であるお断りしておかなければならない。しかもこの意見はかなり要約され、単純化されており、その意味でも十分なものではない。
この短い手紙が同志たちとの意見交換の最初の手がかりになることを願うとともに、同志の皆さんの率直な意見を聞かせて頂ければ幸いである。
1、我々の簡単な歴史
我々は、労働者の闘いの中で多くの誤りと混乱の源となってきたスターリン主義の影響力の一掃、あるいはスターリン主義に反発して誕生した反スターリン主義の急進主義運動の限界の克服、それらを通して真の社会主義運動を確立するために闘っている。
我々の源流は日本共産党であるが、一九五八年に共産党の民族主義や改良主義を批判して分裂した日本のニューレフトの流れの中にある。この当時日本共産党は、日本のブルジョアジーが既に帝国主義的自立の動きを強めていたにも関わらず、アメリカからの独立こそが日本の労働者の課題だと強調し、反米・民族主義を唱えていた。また日本の労働者の任務は資本の支配を覆す社会主義革命ではなくそれに至る前の民主主義革命であると主張し、この民主主義的課題を越える可能性のある労働者の闘いを必至になって押さえつけていた。また当時内外の多くの革命家によってすでに明らかにされていたソ連や東欧や中国などの反労働者的で抑圧的な体制を、それにも関わらず労働者がめざすべき社会主義の手本と見なしていた。我々はこれに対し、日本の労働者の課題は民族独立ではなくむしろ復活しつつある日本の帝国主義との闘い、民主主義革命ではなく社会主義革命、ソ連等のスターリン主義官僚との闘い、そしてそれを可能にする新しい労働者政党の建設こそが必要だとして、共産党とたもとを分かったのである。
その後ただちに日米安保反対の大衆的な闘いの先頭に立ち、この闘いの広がりや戦闘化に大きく貢献する。この安保闘争は、社会党や共産党など既成の左翼政党の後衛性や日和見主義を決定的に暴露し、新しい闘いを広範囲に生み出したという点で、日本の階級闘争史上大きな意義を持つ闘いであった。
しかしその後ニューレフトは、全体としてはスターリン主義の批判をさらに深め発展させる課題を必ずしも十分には果たせず、政治的急進主義、急進的経済主義に走ってしだいに労働者大衆の闘いから遊離してしまう。またスターリン主義者と同様の狭量なセクト主義に陥っていく。日本のニューレフトは、いくつかの積極的成果を上げつつも、安保反対闘争から三〇数年経た今もこの急進主義やセクト主義を十分に克服することが出来ず低迷している。
我々のグループの源流は、意識の上ではかなり早い時期、六〇年の安保闘争の直後の頃から急進主義の限界を知り、その克服を呼びかけて闘ってきた。我々は、この急進主義運動の思想的・理論的な立脚点の批判を試み、また社会主義と労働運動の結合を追求してきた。この立場は現在もかわらず、急進主義の反省の上に立って労働者と深く結びついた革命的な社会主義運動の構築をめざして闘っている。この課題は、資本主義が高度に発展した諸国ではいまだどの党派も成功したことのない困難な課題であるが、我々は現在もそれに果敢に挑戦している。
反スターリン主義の左翼といえばトロツキーを師と仰ぐ人々が多い。しかし我々は、スターリン主義への最初の告発者としてのトロツキーの功績を認めつつも、彼らが持つ急進主義的体質、それと一体の日和見主義とは一線を画し、むしろマルクス主義とレーニン主義の復権をめざしつつ党派形成を行ってきた。
しかし90年代に入ってから我々のこの立場はさらに進展し、なによりもマルクス主義を科学的なものとして一層発展させること、マルクス主義を日々新たに展開しつつある現実の世界を解き明かしそれを変革する武器としていっそう鍛え上げていくことこそが重要だと感じ始めている。そしてその立場から、最近では、トロツキーやローザなどだけでなくレーニンについてもその言説を教条的に受け売りすることを戒め、レーニン主義の中の合理的なもの、今でも光を放っている価値あるものをこそ継承すべきであると強調してきている。
2、我々が現在特に重要だと考えている問題
上で述べたように、我々の立場はマルクス主義であり、マルクスが生きていたならそうしたであろうように、今日現在の世界の労働者がおかれている現実を徹底して科学的に明らかにし、その闘いの先頭に立つことである。こうした我々の原則的な立場は、現在特に重要なものとなっているように思われる。
なぜなら、現在の世界では、レーニンが闘った時代のような既存の社会主義理論や社会主義運動のバックボーンが不在だからであり、それが大きく問い直されているからである。とりわけソ連・東欧のスターリン主義体制の崩壊は、スターリン主義に打撃を与えただけでなく、それを批判してきた我々にもより大きな試練を課している。
それは例えば、ロシア革命から既に八〇年を経た今日の世界資本主義の新しい現実を正しく明らかにする課題である。今日の世界資本主義はマルクスやレーニンの時代には知ることが出来なかった極めて高度な生産力を実現しており、世界の資本主義的一体化がより深まってきている。このことは資本主義の破壊力、労働者に災厄をもたらすちからもまた巨大なものになっている事を物語っている。がしかし、労働者階級の方は闘いの方向を見失っているかのようにも見える。労働者の闘いの後退と弱体化は、とりわけアメリカやヨーロッパや日本など発達した資本主義国で著しい。これらの国々では、社会主義は労働者大衆の支持や共感を失ってしまい、一部の活動家グループの信念の位置、悪い場合にはインテリの知的玩具の位置に身を落としてしまっている。
こうした現実を打ち破るためには、我々は資本主義の新しい現実を具体的に分析し、この変化が労働者の闘いにどういう意味を持っているかを明らかにしなければならない。マルクスやレーニンが社会主義を労働者大衆自身の課題として、具体的で豊かで実践的なイメージとして明らかにしたように、我々も新しい資本主義の現実の中で、それを果たさなければならない。一握りの革命家の信念やインテリの研究テーマとしてではなく、労働者大衆自身が日々の労働と生活の中で具体的で豊かなイメージを抱けるものとして、社会主義やそれを実現するための闘い方法を明らかにしていく必要があるのである。
また、上の問題とも関連するが、ソ連・東欧や中国などの体制は何だったのかという問題について、これまでの我々の見解を更に発展させていくという課題がある。我々は、これらの諸国の体制を、ニューレフトの多くの人々のように「堕落した労働者国家」とは見なさず、ロシアの後進性によって余儀なくされた一種の資本主義、独特の国家資本主義の体制だととらえてきた。そしてこれらの体制に必要なことは「本当の労働者国家」に立て直すための改良というようなものではなく、国家資本主義のもとで発展しつつある生産力と労働者階級の成長を条件とする新たな社会主義革命であると考えてきた。そしてこれは基本的に正しい捉え方だと現在でも考えている。しかし実際には、これらの体制は労働者の社会主義的闘いによって打倒されるのではなく、ブルジョア的勢力のイニシアチブによって西側の資本主義と変わらないような体制へと帰着しつつある。このことは、これらの体制の内部の自由資本主義に向かおうとする圧力が我々の理解よりも強力であったこと、あるいは労働者の政治的解体が予想以上に深刻だったことを物語っている。このことは、労働者の闘いの方向をもう一度確立し直す必要があること、そのためにもソ連・東欧の体制とは何だったのかについての研究をさらに深める必要があることを教えている。
さらに、労働者の革命運動における具体的な闘いの手段や方法、党組織のあり方についても、これまでの経験を洗い直し、欠陥を克服していく必要があると考えている。
とりわけ革命組織のあり方は重要である。我々の闘いを誤りのより少ないものとし、より正しい路線の上にすえるために決定的なことは何よりも我々の理論の科学性、革命性を確保することである。そのためにも組織の内部での生き生きとした活発な議論が保障されること、労働者大衆に開かれた組織となっていることが極めて重要である。こうした組織だけが、あらゆるブルジョアイデオロギーに対する真の抵抗力を組織の中につちかい、本当の確信を生み出し、また不幸にして誤りを犯した場合でもそれから立ち直ることを容易にし、またそこから多くのものを学ぶことを可能にさせてくれるのである。
もちろん社会主義運動は討論のための討論の場ではなく、階級敵との生死をかけた激しい闘争の場であるが、これを闘い抜く強力な団結や闘争力を獲得するためにも、活発な論争と労働者大衆とのしっかりとした結びつきが決定的に重要である。労働者の上に立ち、労働者を指導していく組織というより、労働者自身が自らの闘いの必要の中から生み出した自主的な解放組織、我々がめざすのはそうした組織である。
3、我々の具体的な課題
現在我々が重視している具体的な実践的課題は、搾取と抑圧に対する労働者の闘いの組織化、帝国主義化する日本の支配階級との闘い、労働者の国際連帯とりわけアジアの労働者との共同の闘いの追求、新しい労働者党の建設などである。
現在、アメリカやヨーロッパと同様日本でも労働者の既存の労働条件が大きく揺さぶられ、大量解雇や賃金切り下げ、労働条件の悪化、社会保障の後退が急速に進んでいる。ところが、これまで労働者の要求を一定程度吸収役割を果たしてきた社会党(社民党)はすでに完全に保守党化してしまい、共産党もまたプチブルブルジョアの要求の組織化に熱心で労働者の闘いを十分に組織できておらず、労働者は無防備なまま資本の激しい攻撃の前にさらされる形となっている。こうした労働者を励まして闘いを組織していくこと、しかもこの闘いを単なる経済闘争や改良闘争に終わらせず資本の支配そのものに対する闘いへと結びつけていくことが必要であるが、この課題を追求できるのは、社・共の裏切りや限界を思い知らされつつある労働者の新しい自主的な闘い、それとの結びつきを真剣に追求している革命的な社会主義者だけとなっている。
また、多国籍企業の発展、ソ連・東欧や中国等々の資本主義市場への編入、アジアのいくつかの国々の経済的躍進などを通して世界の資本主義的一体化が急速に進んでおり、またその裏側で今なお停滞を脱し得ない国々の困難も深まっている。このことは、労働者の国際的な共同の闘いをますます重要なものとしている。とりわけ日本の労働者にとってはアジア諸国の労働者との連帯が重要である。なぜならこれらの国々では大量に進出した日本企業が搾取と収奪をほしいままにし、日本の支配階級はこれらの国々に対して再び政治的・軍事的な影響力を及ぼそうと画策しているからである。アメリカと並んで「世界の憲兵」の道に踏み出しつつある日本の支配階級に対して、アジアを始め全世界の労働者と連帯して共同の闘いをつくり出していかなければならない。
そして、こうした闘いを強力かつ有効に進めていくためには、新しい労働者政党が建設されなければならない。建設されるべき新しい政党は、我々が先に述べたように、生き生きとした討論が可能な組織、労働者の自主的解放闘争と深く結びついた組織でなければならない。なぜならそうした政党でないと、ブルジョアの影響力に対する本当の抵抗力や、強い団結と闘争力を持つことは出来ないからである。また我々は、こうした政党が我々一人の努力でつくられるとは考えておらず、基本的な考え方を同じくする内外の革命家や労働者のグループとの共同の作業が必要だと考えている。新しい労働者政党の建設は、スターリン主義のドグマや多くの場合その裏返しでしかなかった反スターリン主義のドグマにも縛られない人々、結局は日々の資本の搾取と抑圧に苦しみ、それへの自主的な闘いを挑み始めている革命的労働者の共同作業の中から生み出されていくであろう。
以上は我々自身についての簡単な自己紹介であるが、今後更に具体的な深い意見交換が出来ることを期待したい。ともに闘おう。
一九九六年四月一七日
阿部治正(Workers)
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メーデー・メッセージ 日本からフィリピンへ
メーデー集会に参加されたフィリピンの労働者の皆さんに、日本の地より心からの連帯の挨拶を送ります。
アメリカの労働者の8時間労働制を求めるゼネストを起源とするメーデーは、労働者の国際連帯の意義を確認する闘いとして、今日ますます重要なものとなっています。なぜなら、アメリカの労働者がメーデーに立ち上がってから一一〇数年を経た今日、世界は資本主義的な一体化をいっそう深め、それとともに世界の労働者を共通の運命のもとにますます強く結びつけているからです。
今日、世界の資本家階級は、ソ連・東欧圏の崩壊、欧米や日本の多国籍企業の発展、一部のアジア諸国の経済的成長などを見て「資本主義が勝利した」と有頂天になっています。しかしこの「資本主義の勝利」の実際の姿は、労働者・人民を苦しめる資本のちから、資本の破壊力のいっそうの強大化をも意味していました。欧米や日本における大量の失業と労働条件の悪化、今なお停滞を脱し得ない国々での困難のいっそうの増大、世界の至る所での新たな紛争の激化が生み出されました。資本主義が急速な発展をみた国々においても、労働者は、古い支配層にかわる新しいよりどん欲な支配階級による激しい搾取と抑圧にさらされています。
こうした現実を知って、欧米でも日本でも労働者は真剣な闘いの必要を思い出し、新しい闘いの準備をはじめつつあります。アジア・アフリカ・ラテンアメリカでは労働者はすでに前進を開始しており、いくつかの成果を上げています。ソ連や東欧などでも労働者は打撃から徐々に立ち直るにちがいありません。こうした試練を経て再び開始された労働者の闘い、労働者の国際連帯は、以前にもまして力強いものに成長していくであろうし、またぜひともそうしていかなければなりません。
私たち日本の労働者は、自分たちに押しつけられた資本の搾取や抑圧との闘いと同時に、とりわけアジアの労働者との連帯が大切であると考えています。なぜならこれらの国々では日本企業が大量に進出して搾取や収奪を欲しいままにしており、さらに政治的・軍事的な影響力の強化をも画策しているからです。そしてこのことが、日本の資本家が日本の労働者を支配するちからの強化にも役立っているからです。私たちは、日本の支配階級がアジアの支配階級に隠然公然とテコ入れしている事実を見逃さずこれと断固として闘うこと、アメリカとともに「世界の憲兵」の道を歩み始めた日本の支配階級との闘いの先頭に立つことを皆さんに誓います。
困難の中でなお闘いを継続しているフィリピンの労働者の不屈の闘いを、私たちは深く尊敬しています。皆さんに加えられた苦難を私たち自身の苦難と見なして、それを取り除くために日本の地でも可能な限りの闘いを組織する決意です。
資本の支配に対する世界の労働者の共同の闘いを力強く発展させていきましょう!
労働者の国際連帯万歳! フィリピンと日本の労働者の国境を越えた団結万歳!
1996年5月1日
Workers(新しい労働者党をめざす全国協議会)
※同様の趣旨のメッセージをスリランカのメーデー集会にも送りました。
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連載 ヘーゲル論 C プレハノフ著
これまでにわれわれは、ヘーゲルが「世界史とは、精神がみずからを自由だと意識する、その自由の意識の発展過程である。発展はいくつかの段階を踏んでおこなわれ、事柄の概念に即して、自由がこまかく区分される」としているのを見た。そしてこの発展の諸段階が、ヘーゲルによって中国→インド→ペルシャ→エジプト→ギリシャ→ローマ→ゲルマンという順で示されるのを見た。そうして、この順に矛盾しない限り現実の歴史はヘーゲルによってあるがままに受け取られるが、しかし現実の歴史がこの順と食い違いをみせるとき、ヘーゲルはこの順の方を取って現実の歴史の方を見捨てるのだということを、つまり現実の歴史を自分が並べた概念の順に合わせるためヘーゲルが苦しいこじつけをおこなっていることを見た。
以下、ひきつづきこの例を追ってみよう。
ヘーゲルのこじつけ(二)
インドのカースト制度とエジプトのカースト制度とが取り扱われる場合も、そうである。
すなわち、ヘーゲルはインドのカースト制度について、それは「自然的な差別となっている」、だからインドにおける個人は中国の場合よりも「さらに自己没却的」となる、とする(『歴史哲学』第一部「東洋世界」)。そしてこれに反しエジプトのカースト制度は「固定してはいないで、カースト間に闘いや接触があり、カーストの分解やカーストへの抵抗もしばしば見られるのである」とする(同)。
しかし現実には、インドのカーストにしても闘いと接触とがまったく欠如しているわけではないのである。そしてそれは、インドのカーストについて述べたところでヘーゲル自身が触れていることである。
要するに、ただヘーゲルだけが、先に動物崇拝の議論をした場合と同じく、ここでもまた、自分の勝手な組み立てに引っ張られて、まったく類似の歴史的現象をまっく別のものとして判断せざるをえなくなっているだけである。
ヘーゲルのこじつけ(三)
こうした観念論のアキレス腱は、ヘーゲルがある民族から他の民族への歴史的運動の重点の移動や、また個々の民族の内的状態の変化を説明しようとする場合に、さらに露わとなる。つまり、そうした場合には、これらの移動や変化が起きるのはなぜかという疑問が当然に生じてくるが、観念論者としてのヘーゲルは、その答えを、その実現が歴史であるというあの「精神」の本性のなかに求めるのである。
例えば、ヘーゲルによれば中国やインドよりもペルシャの方がより高い段階に位置づけられているが、ではなぜ低い方の中国やインドがまだ命脈を保っているうちに、高い方のペルシャが滅びたのか。
これについてヘーゲルは言う、「まず何よりも遠ざけねばならないのは、滅亡よりも存続の方がすぐれたものであるという偏見である。変わることのない山の方が、香りを失って散り果てた薔薇の花よりもすぐれているというわけではない」(同)。
こういう予防線を張って、ヘーゲルは言う、「世界史では、ペルシャにいたって初めて、自然と対立する自由な精神の原理があらわれる。自然からの離脱という原理がペルシャ帝国には存在している。だからペルシャ帝国は、かの自然のなかに埋没した世界よりも高い位置にある。この原理こそ、前進の必然性を切りひらくもので、ここに精神が姿をあらわし、自己の実現へと向かったのである」(同)。
そこで、「中国人は故人となって初めてその価値が認められるし、インド人は自分を殺してブラフマン(梵天)の境地に入り、完全な意識喪失の状態で生きながら死んでいるか、うまれながら生きた神であるかのいずれかである。ここには何の変化も何の進展もない。なぜなら、進展はただ精神の自立がうちたてられるとき初めて可能となるからである。これに対し、ペルシャ人のいう『光』とともに精神の直観がはじまり、そのなかで精神は自然に別れを告げる」(同)。
皮肉
ところで、こうしてペルシャを中国、インドと対比して、ヘーゲルはそのあと今度はそれをギリシャと対比した。
「かくして、ペルシャにおいて初めて対象世界が自由に放任され、民族は隷属を脱して、富や国家体制や宗教を自分たちの手でつくりだす。が、同時に、まさにこの点がギリシャに対するペルシャの弱さだった。というのも、ペルシャ人は完全な組織をもつ帝国を建設できず、征服地におのれの原理をうちたてられず、したがって全体としてのまとまりを欠いて、個々ばらばらの個人の集合体をつくりだしたにすぎなかったからである」(同)。
見られるように、この叙述はペルシャ帝国の内的組織に関するものである。そしてヘーゲルは、ペルシャのこの内的組織を、ペルシャがギリシャとの衝突に際してさらけ出した弱点と見ているのであるが、われわれはヘーゲルのこの叙述を、ヘーゲルの叙述のうちの上記の部分ではなくこの部分を、まさにこの部分のみを、ペルシャの没落という歴史的事実の真の説明と見ることができる。
そして皮肉なことに、いうまでもなくこの部分というのは、ヘーゲルの観念的歴史哲学のなかでは、本筋というよりまさに例外に当たる。
ヘーゲルのこじつけ(四)
最後にもう一つ、ギリシャの内的解体の問題を例にとろう。
ギリシャの世界は、ヘーゲルによれば、美の世界であり、美しい人倫の世界であった。ギリシャ人はその身を祖国に捧げ、数々の偉大な行為をなした優れた民族だった。そしてそうした行為を、ヘーゲルによればギリシャ人はとりたてて「反省」というものもなしに、ごく自然に遂行した。
ところが、後期に至って、ここに「反省」が持ち込まれた。「ソフィストによって、主観的な反省が、つまり各人はそれぞれ自分の考えるところに従って行動すべきであるという新しい教えが持ち込まれた」(『歴史哲学』第二部「ギリシャ世界」)。
そしてまさしくこれとともに、ギリシャ人の美しい人倫の解体がはじまった、とヘーゲルは言う。「自由な内面性」がギリシャの解体をもたらした。この内面性の現象形態の一つは、思考である。こうして、ときには思考もまた、凋落の原理として作用しうる、と。
だが、ではこの「自由な内面性」なるものは一体どこから来たか。それは精神の、当初の、「美しい精神の統一という立場」から来た。ではなぜ、それはそこからここへ来たか。ヘーゲルの観念論哲学はこれに答えて言う。それは、「精神は、美しい精神の統一という立場には長くは立ち止まれないからだ」(同)と。
しかし、これでは答えになっていない。ただ、答えられるべき問題を観念論の言葉で表現したというだけである。
ところが興味深いのは、まさにヘーゲル自身が「うーん、これは苦しいなあ。こじつけだなあ」という気がしたらしいことである。そこで彼はあわてて、こんなふうに付け加えた。
(編集・小川 紀)
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地声人歌
「職業に貴賤あらず」と嘘を言うな
耐え苦しみて吾は働く
石田 比呂志
僕はかつて、教職員組合の事務所で働いていました。そして、そこに出入りする組合の活動家たちと接していて思い知らされたのは、彼らの多くが、「差別と闘う教育」という謳い文句とは裏腹に職業や学歴に強いこだわりを持っていること。やはり差別の解消というのは、単なる教育(意識)の問題ではなく、労働や職業のあり方も含めた現実の人間的諸関係の変更による以外ない、と教えられたのでした。
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須山公美子反戦歌ライブ ご案内 B
いよいよ五月になりました。「反戦歌ライブ」まであと少し、須山さんの準備も着々と進んでいる様子です。
新たに決まった歌の一つは「君死にたまふことなかれ」。一九○四年に雑誌「明星」に掲載された与謝野晶子の有名な反戦詩です。
旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても何事ぞ
……
君死にたまふことなかれ/すめらみことは戦ひに/おほみずからは出でまさね
僕がこの詩でショックを受けたのはやはりこれらの部分でした。「晶子には別に佐久間艦長を賛美した十一首や飛行機で殉職した木村・徳田両中尉を弔う七首、明治天皇を哭く二首などもあ」る(佐藤春夫)そうで、与謝野晶子は天皇制否定論者でも、一貫した反戦論者でもなかったようです。でも、その彼女が、それも日露戦争で世間がわきたっているときに「すめらみこと」(天皇)を批判し、「旅順の城は」(すなわち日本の権益は)「ほろぶとも/ほろびずとても何事ぞ」とまで言いきっているのです。彼女の弟への想いがここまで言わせたのでしょう。かえって胸をうちます。彼女の立場が狭かろうが一貫してなかろうがいいじゃないかとさえ思います。帝国主義戦争をおしすすめ、その戦争に国民を駆り立てる者たちへの批判へとここで彼女が突き進んでいるかぎり、僕らがこの晶子の詩に大きな共感を覚えるのは当然だと思うのです。日本の反戦詩の最高作のひとつでしょう。
この与謝野晶子の詩には服部良一ほか色々な人が作曲していますが、今回は日本プロレタリア音楽同盟に属して活動した作曲家の吉田隆子という人の曲で歌うことになりました。作曲は一九四五年で、四年後の「晶子祭」で発表されたものだそうです(CDブック『戦争と流行歌』の解説による)。ライブの日が楽しみです。
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君がみ胸に抱かれて聞くは
夢の船歌恋の歌
水の蘇州の花散る春を
惜しむか柳がすすり泣く
決定した歌のもう一つは西条八十作詩、服部良一作曲の「蘇州夜曲」です。ご存じのように、この歌は「反戦歌」ではありません。それどころか中国大陸への夢をかきたてることにより、日本の中国侵略に国民を駆り立てる役割の一端を担ったといってもよい歌です。以前、旧『ワーカーズ』の時にこの歌を取り上げたことがあって、そのときに高橋治氏の「蘇州夜曲」についてのエッセイ(「いい気な歌の魔力」)を紹介しました。<侵略者日本の男の胸に抱かれてこんな想いにひたる中国娘がいたはずがないじゃないか、いい気な歌だ>というようなことを氏はそこで書いていました。
「戦中派生き残りとしては、実は好きなんだというだけで、相当良心に痛みを感じないではいられない歌である」(同)。
「しかし、ムードとしては、こんなことのひとつやふたつはあったら良いだをなと思わせるものを持っている。そこが、はやり歌の恐ろしさなのだろう。現実は現実、思いは思いとして、巧みにかき混ぜてしまう力を持っているのだ」(同)。
当時、こうした歌がたくさん作られています。そんな歌を集めたCDが出ていますが、その解説で、日本の中国侵略の進行に合わせるようにたくさんの歌が作られたと書かれています。
「日本が作った最初の植民地である満州国の設立が昭和七年で、そこから日本軍は次第に南下を続けるわけだが、『支那の夜』や『蘇州夜曲』が生まれた十三年はちょうど日中事変の翌年に当たる。(中略)服部富子の『満州娘』も同じ十三年、ディック・ミネの『上海ブルース』が十四年のヒット曲であるなど、日本において中国をイメージした曲がたくさん作られヒットした時代は、ちょうど日本軍の中国への侵略が本格化した時代と重なり合うことになる」(『アジアン・コネクション』解説)。
「蘇州夜曲」はきれいなメロディーで聴く者の胸を切なさでいっぱいにする、よくできた歌だと思います。でも、だからこそ(と言うべきでしょう)戦前・戦中とゴリゴリの戦意高揚歌がたくさん作られていますが、そんな歌の何十よりこの歌ひとつの方が実際にはよほど大きな役割を果たしたのだと思います。バカな軍部の連中などは「女々しい」などと言ってこのテの歌を目の敵にしたようですが。
須山さんの声でこの歌を聴くとき、高橋氏のいう「歌の魔力」というものを僕らはより明確に捉えることができるでしょう。まずその歌に酔い、次にこんなきれいな歌が帝国主義戦争の道具の役割を果たしたことに愕然とする、という具合にです。その時代を実感させると言うのでしょうか、「蘇州夜曲」を「反戦歌ライブ」で聴いてみる意義もそこにあると思います。
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ボリス・ヴィアンのシャンソン「脱走兵」と「原子爆弾のジャヴァ」、ドイツの幻の反戦シャンソン「赤いメロディー」、ジョン・レノンの「イマジン」、谷川俊太郎・武満徹の「死んだ男の残したものは」、そして「君死にたまふことなかれ」に「蘇州夜曲」と続きました。これまでもまだ七曲、予定の半分ほどです。他に「わたしが一番きれいだったとき」(茨木のり子さんの詩に曲を付けたもの)と「塹壕」(国際主義の精神にあふれたドイツのシャンソン)、そして、一九七三年の軍事クーデターで虐殺されたチリの歌手ビクトル・ハラの歌がほぼ確定です。旧共産党政権への抵抗の歌をうたったポーランドのアンナ・プリュクナルの歌などもうたわれるかも知れません。前にも書きましたが反戦歌だけで一五曲前後になる予定です。
「懐かしい歌から珍しい歌まで」とは配布している宣伝チラシのキャッチ・フレーズですが、この文句どおり、多彩な内容のライブになることは間違いありません。『Workers』読者の方にはきっと満足していただけるものと思っています。皆さん、ぜひ来てくださいね。お待ちしています。
(椎原一夫)
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