基地のための土地強制取り上げを許すな!
特別立法の制定をめざす政府  反基地の声に強権で対抗


特別立法の制定めざす政府

 政府は、秋の臨時国会に向けて、土地収用法や米軍用地収用特別措置法の改正など、私有地を軍用地としてよりスムースに強制収用するための立法措置の準備をおし進めています。
 昨年の米兵による少女暴行事件を契機に爆発した沖縄県民の基地と日米軍事同盟に対する怒りの渦は、基地強制使用に対する太田知事の代理署名拒否、そして楚辺通信所(ゾウの檻)の一部用地の緊急使用を不許可とした沖縄県土地収用委員会の裁決を生み出しました。楚辺通信所内の一部用地はすでに4月1日をもって使用期限が切れていましたが、収用委員会の不許可裁決によって国による不法占拠が決定的となったのです。しかも、政府が使用を認定している楚辺通信所以外の12施設3001人の私有地についても、このままだとこれら施設の使用期限が切れる来年5月には国による不法占拠という事態に発展するのは必至です。

強制使用権限を国に集中

 こうした事態に危機意識を持った政府が打ち出そうとしているのが、特別立法です。
 現在は土地収用法にもとづく米軍用地収用特別措置法によって私有地を基地として使用していますが、こうしたやり方だと、沖縄の闘いが示すように場合によっては自治体や県の収用委員会の意思や判断に国家の軍事や軍事同盟政策が左右されてしまいかねません。そこで政府は、現在は県知事や市町村長がやっている「土地調書への署名代行」や「裁決申請書の公告・縦覧」の事務を国に移したり、あるいは県の収用委員会の権限を制限することやこれを廃止すること、要するに国の意思や国の都合を強権に訴えてでも押しつけ貫徹するやり方を再び要求しはじめたのです。

特別立法の制定許すな

 今回の特別立法制定の動きは、政府の側の並々ならぬ決意をよく現しています。政府にとっては米軍基地や日米軍事同盟、安保再定義による共同軍事行動やその範囲のアジア・太平洋規模への拡大、日本の政治・軍事大国としての登場、要するにアジアと世界にはりめぐらせた大企業の利権や権益の維持や拡大が何よりも大事なのであり、その裏で相次ぐ暴行事件や騒音や環境破壊や経済的発展の疎外等々に苦しむ人々のことなど歯牙にもかけてはいないのです。
 日米共同宣言の中で政府が鳴り物入りで宣伝した普天間基地の返還も、実際には岩国や沖縄の嘉手納への分散移転でしかなく、嘉手納でも岩国でも基地の更なる拡張強化がはかられようとしています。政府の言う整理・縮小案は、結局は単なる基地転がし、とりわけ沖縄の中での犠牲の移転以上ではなかったのです。
 来年5月には13施設3000人の土地の国による不法占拠という事態が予想される中、秋の臨時国会に向けて特別立法問題が大きな焦点になっていくことは必至です。軍事基地のための土地強制使用を狙う特別立法に反対しましょう。アジアと世界の労働者、そして沖縄の労働者と連帯し、日米軍事同盟の強化、日本の軍事大国化と断固として闘いぬきましょう。
 (阿部治正)

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続 トリプルマーカーテストについて
危険な優生思想をあおる テストの即刻中止を!


2百億円市場狙う検査・病院資本


 前号の五面で「差別と選別のトリプルマーカーテスト」の表題での掲載をしました。しかし前号ではこのテストに対して私たちはどういった態度をとればよいかについては十分に述べていなかったのでまとめてみたいと思います。
 結論から先に言えばこの四月から日本でも実施され始めたトリプルマーカーテストは即刻中止すべきだと思います。厚生省は検査会社に強力な行政指導で中止をさせるべきです。又遺伝学、産科、小児科の学会や関連の団体も中止の声明を出すべきです。
 何故ならダウン症に的をしぼった検査であり、陽性であれば中絶を半ば前提にしたテストであるからです。ダウン症の子を持つ親も指摘しているように「ダウン症の子を将来差別し、排除することにつながる」ことは明かです。 胎児と言えども一個の生命です。この生命がダウン症ということで抹殺=中絶されることは差別と選別以外の何者でもありません。
 トリプルマーカーテストが広がることは危険な優生思想の蔓延ともなります。かつてヒットラーのナチズムがユダヤ人に対してゲルマン人の優位性を唱えユダヤ人を排除し虐殺したことを思い起こすとファシズムの温床にもなりかねない危険をトリプルマーカーテストは持っていると思います。しかしながら二百億円とも言われる巨大な市場に対して検査会社は病院資本と結びついてこのテストを広めようとしています。
 人の生命自体多様性を持っており、この多様性が社会の発展や文化の発展にも大きな役割をはたしてきたと私は思います。そしてどの人も無限ともいえる可能性を持っています。生命の持つ多様性と無限の可能性を考えれば、ある症状があるからと言って排除することはできないし、そうした権利を誰ももちあわせてはいません。
 十数年前に筑波市で開かれた科学万博で、一本のトマトの苗が水耕栽培で樹木の様になり、何百個のトマトがなったのを見て非常に驚いたことがありましたが、生命の持つ多様性と無限性はトマトにおいても見られます。
トリプルマーカーテストの即刻中止という意見に対して「検査するしない、検査結果に対して中絶するしないの判断は個人の自由にまかせるべきだ」との反論も予想されますが、私はトリプルマーカーテストだけでなく中絶を半ば前提とした羊水検査などの妊婦の出生前検査も即刻中止すべきだと思います。障害が予想される子に対し出生後どういった治療をしたらいいかを前もって検討するための出生前診断であれば中止の必要はないのですが、今の検査体制は中絶を半ば強要するものであり、妊婦夫婦に不安を与えるだけのものとしかなっていません。


 減数手術


 医学、生命科学の進歩は平均寿命の延長に見られるように一方で亡くなりかける生命を救ってきましたが、一方ではトリプルマーカーテストに見られるように生命の抹殺=中絶を広めてきました。これは資本が胎児を抹殺する資本主義の負の側面の典型です。
不妊治療において排卵誘発剤がよく使われることは知られていますがその結果多胎妊娠という副作用を招いています。「厚生省研班の調査では、一九八四年から九三年までの十年間で、三つ子は約四百人から倍以上に、四つ子は十六人からざっと五倍にそれぞれ増えた。原因のほとんどは排卵誘発剤と体外授精だ。排卵される卵子はふつう一個だが、排卵誘発剤を使うと、多くの卵子を排卵することがある。体外授精では妊娠率を上げるために複数の授精卵を子宮に戻すことがよくある」(四月二四日、朝日新聞夕刊「ルポ・生殖医療」)
多胎妊娠の場合みんな産むと母体の危険が避けられなく、未熟児の可能性が高いことから何人かを母体内で死亡させる「減数手術」が実施されているといいます。一つの生命を得るために何個かの生命を犠牲にする矛盾はは一目瞭然ですが、母体の危険を侵してまでの多胎妊娠の背景には子を産むことへの圧力があることは明かです。
「減数手術」どの程度の割合で行われているかは明かでありませんが、排卵誘発剤や体外授精といった不妊治療法も中止すべきだと私は思います。


授精卵での選別


 体外授精の場合授精卵による遺伝診断も可能になっています。検査をして遺伝病を持っていたら授精卵を子宮に戻さないという方法です。「デュシャンヌ型ジストロフィーなど重い遺伝病が診断の対象。性を決めるYとXの染色体のうち母親のX染色体に異常があると、生まれてくる男の赤ちゃんの二人に一人の割合で発病するという。
 顕微鏡をのぞきながら、授精卵が四つか八つに分裂したタイミングで、細胞膜に細いガラス管に穴を二つあける。一方に培養液を入れると、片方から分割した細胞が一つか二つ飛び出してくる。これを調べて、女になる授精卵なら子宮に戻す方法だ」(四月二三日、朝日新聞夕刊「ルポ・生殖医療」)
 この方法に対して「障害者の生存権を奪う」との批判が市民団体から出ていますが鹿児島大学の医学部の倫理委員会では近く承認される方向だそうです。当初は血友病も含めていたが治療法があるので対象から外したという経緯があります。
胎児でなく授精卵の段階でも差別、選別が可能となっています。そして治療方法がないということで排除されていくわけです。治療がないからといって排除してはいつまでたっても治療の確立は望めません。
 問題は医療の方法でなく、障害者への差別、選別としてなされているか否か、危険な優生思想に基づいていないかということです。そうであれば断固反対せざるをえません。
(伊藤俊康)

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震災から1年半 孤独死やまず

 兵庫県社会保障推進協議会の調べによると、昨年3月から今年6月末までに、仮設住宅などで74名の被災者が孤独死した。さらに兵庫県警が発表した自殺者を含めると、震災の犠牲者は100名を超えるという。男性の死者が女性の2倍、しかも50〜60歳代が半数を超え、死因には肝疾患や心疾患が目立つ。
 こうした数字は何を物語るのか。震災によって多くのものを失い、ストレスとアルコール依存によって死を招く。家や職をなくし、単身となった男性に、酒を飲む以外に何が残されているのか。かくして自力で仮設を脱出できない被災者は、日々孤独死の危険に晒されなければならない。
 人が生きていく為には、衣・職・住が充足されなければならない。ところが震災はこれらを奪い、国家は何の補償も与えようとしない。この国の憲法には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という規定があるが、金満国家ニッポンがしたことは被災者を仮設に押し込め、緩慢な死を与えることだった。
 兵庫県は「仮設住宅に住む公営住宅入居資格者全員が98年度上期には恒久住宅へ移る」というプログラムを組み、家賃の軽減措置もようやく実現の運びとなった。しかしこれも要求に押されて重い腰を上げたという観を免れないし、どこまで当てにできるのかも不明だ。また、移転先が確保できるまで現在の仮設に住み続けることができるのかさえ明らかでない。例えば、りんくうタウン仮設住宅では、「夕方、対岸に神戸の夜景が見える。みんな、心の中で泣いて眺めている。遠く離れていてもここは神戸の一角であることを忘れないでほしい」。「せめて神戸市同様、入居期限の延長を」、という切実な声が上がっている。
 これが、震災から1年半もたった現地の、現在進行形の事態であることを忘れてはならない。「冬は寒く、夏は暑くて眠れない。70歳の私を自分の母親だと思って考えてみてください」という言葉に耳を閉ざしてはならない。
 (晴)

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あの歌この歌 
ライブハウスに行こう編 小林万里子オンステージの巻


 「椎原さん、今度は落語のライブに行きはったんですか?」
 「ドキッ、ど、どうしてそれを」
 「この間の支部の会議の時、『ぴあ』の演芸・落語欄の切り抜きを落として行きはったでしょ。7月9日の『快楽亭ブラック十番勝負』というのに○印をしてましたから」
 「グスン、実はそうなんです」
 「別に泣くことはないと思いますが、今度はプロレタリア落語でもやってたんですか?」
 「いえ、ブルースを聴きに」
 「ブルース? 快楽亭ブラック師匠はブルースも歌いはるんですか?」
 「いえ、小林万里子さんが」
 「誰ですか、その人? 落語家やったら〈桂〉とか〈笑福亭〉とかとちゃいますん?」 「エヘン、お話しいたしましょう」

   ◆ ◆ ◆

 小林万里子というブルース歌手がいます。「女の怨念、猫の怨念、万里子の怨念、どこへ行く…」、これはこの人のレコード(「小林万里子ファーストアルバム」)の帯に書かれていたコピーの一節。ずいぶん前に中古レコード屋でこのレコードを見つけたのですが、聴いてみると、帯と同様中身もとっても面白い。以来、ライブで聴けないものかと思っていたのですが、残念。この思いは果たされず、名前を見かけることはなく、ずんずん月日は流れて行きました。

 いやな男や 革命家面しやがって いっちょう前に反体制やて
 なんやら運動やってんねんて 家帰ったらヨメさん囲とうくせしゃがって
 エーカッコシーも ほどほどにせえよ
 「君ねえ 女性解放なんてねえ ササイな問題なんだ
 個人的な事なんだ ぼくちゃんはねえ もっと重要な問題と闘ってるんだ
 全人民的課題と闘ってるんだ ぼくちゃん
 せんたく物が たまってるんだ 押入れに…
 最近ママが来てくれないんだ 君いっぺん ぼくのアパートに来ない?」
 な〜んちゃって 何をほざいてるんや このガキャー
 ええかげんにせえよ おぼえとれよ

 これは「いやな男のブルース」という歌の一節。小林万里子恐るべし。満足に包丁も扱えない僕はタジタジになるのですが、でも、やっぱりライブで聴いてみたいのです。
 それが、先日、情報誌で落語・演芸の予定欄をパラパラ見ていると、あるではありませんか。「小林万里子」という名前が。「どっかで聴いた名前や、たしか…」。しばらくして思い出しました。「あの小林万里子や!」
 後の方も見たら、別の日には桂あやめという落語家とも共演するらしい(そうか最近は落語家との共演が多いんや)。あやうく見落とすところでした。

  「せんたくブギ」
 男ばっかり ええ目して 女は川でせんたくか
 ああせんたくか
 男ばっかり ええ目して 女は川でせんたくか
 女はしゃがんで せんたくか
 男ばっかり ええ目して 女は川でせんたくなんて
 いったい 誰が決めたんや
 せんたくやめて くりだそう 女もええ目しよやんか
 女もパーッと いこやんか

 解説では、このレコードで彼女は「なれ合いで男と暮らすことを拒否し(A面1曲目)、女を対象物としてしか見ない男に愛想をつかした彼女(A面2、4、5曲目)は、昔も今も変わらぬ<女はしゃがんでせんたく>という役割分担のパターンからの脱却を呼びかけ(「せんたくブギ」)、Woman needs woman、女よ連帯せよ! というテーゼに行き着く」と書いています。このレコードの録音は81年。それから15年たちますが、その後もこうしたメッセージ・ソングはあまり生まれていないのではないでしょうか? 小林万里子の歌の存在意義は失われていないと思います。
 「それにしても歌というものが、人をなごませ、楽しませるものだとすれば、これほど歌の概念からかけ離れた歌い手もいないんじゃないかと思う。夢もロマンもありはしないのだ。歌というより、悪態とアジテーションと叫びそのものだ。しかし、女の本当の現実を今まで誰も歌わなかった、という現実をこれほどストレートに突いた彼女を女である私は評価しなくてはならないだろう」(解説より)。

   ◆ ◆ ◆

 さて、7月9日。ついにこの小林万里子さんのライブに行くことができたのでした。歌でも有名な大阪の法善寺横丁、そのすぐ東にある上方ビル(いかにも落語のホールがありそうな名前)の4階、トリイホールという所でした。落語のライブって人気があるんですね。お客は80人ぐらい、ほぼ満席です。快楽亭ブラックさんの2本の落語の間が「小林万里子オンステージ」。レコードにも入っていた<夢もロマンもありはしない>「便所ブルース」や「中絶のブルース」といった歌もうたわれました。ブラックさんの歌や親しい落語家、桂文福さんを讃える歌なんてのも聴けて、僕は大満足。次は2時間たっぷりの小林万里子だけのライブを聴いてみたいと思いました。
 この人、実は10年以上歌っていなくて、最近ふたたび歌いだしたのだそうです。どうりで見かけなかったわけです。お話によれば、「便所ブルース」が放送禁止になり、関連してその前に発売し、ヒットしかけていた曲まで発売禁止、あげくは「ブルースはもう古い」とレコード会社からも追ん出されてしまったとのこと。でも、小林万里子は復活したのでした。この日、たしか「ずるいぞ嘉門達夫」という題名の歌でしたが、「コミック・ソングは私が先に歌うてたんや〜、ずるいぞ嘉門達夫〜」、「ブルースは私が先に歌うてたんや〜、ずるいぞ憂歌団〜」と歌っていた彼女。復活した小林万里子さん、頑張ってください。2年後には今度は嘉門達夫や憂歌団が「ずるいぞ小林万里子〜、わしらの方が人気あったんや〜」と歌ってるかもしれませんよ。一ファンとして、そんな日を夢見ています。  
(椎原一夫)

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ビルマの人権侵害Q     ジャーナリスト 菅原 秀

 六月十九日毎日新聞は一面トップで「週末にもスーチー逮捕か」との観測を報道した。この観測のソースはヤンゴンの外交団筋から出たものであるが、今のところ最初の情報源は確認されていない。ただし毎日報道は各国に波紋を投げかけ、ビルマへ軍事政権への牽制の動きが高まった。アメリカでは経済制裁法案の制定にはずみが尽きつつあり、マサチューセッツ州では経済制裁条例が成立した。
 日本でも、毎日の報道を受けて梶山静六氏が「もし逮捕ということがあれば、ODAの見直し程度では済まない」という積極的な発言をした。しかし軍事政権SLORCが六月七日に施行した新法は国民民主連盟NLDの非合法化、財産没収などを可能にしており、スーチー逮捕の可能性は十分にありうる。楽観はできない。

国際議員団報告その六

四ー三 日本

 日本はASEANの建設的関与政策を支持している。一九八八年以前の日本のビルマに対する援助は全世界の約八〇%にも達していた。従って、一九八八年にSLORCが権力を掌握して以来、日本からの援助カットによって軍事政権の経済状態は悪化した。一九九五年一月、日本はビルマへの海外投資保険を再開、さらに五月には輸出保険の引き受けを再開した。それ以来、日本の民間企業のビルマへの投資は増大している。アウンサンスーチーの解放後、日本は政府開発援助(ODA)の一部を再開した。
 バンコクでの日本大使館との会談では、担当者は派遣団に対してアウンサンスーチーは解放されたものの、ビルマの改革が進んでいないのでODAの全面再開をさまたげていると語った。 在ビルマ日本大使館はSLORCおよびNLDの双方との対話を行っており、双方が控え目な態度で国の民主主義発展のために協力することが大事だと強調した。日本は両者の対決が国の発展に否定的側面をもたらすことを心配している。 日本はビルマの安定と民主化が東南アジアの発展に不可欠であると信じている。 日本の外務大臣の声明は、国民会議ではさまざまな意見を採用することが重要であると強調している。日本はASEANのビルマに対する建設的関与政策は、SLORCの国際経験の醸成につながるとして歓迎している。SLORCだけを批判するのは建設的でなないとしている。
 担当者は、ビルマへの日本企業の投資の奨励はしていない。他の五カ国のほうが日本以上にビルマに投資している。日本企業はむしろ、ビルマの長期的経済政策の欠如、技術者不足、短期的な投資が多いことなどにより、この国への投資に対しては慎重である。と言明した。
 派遣団はビルマの日本大使がSLORCとNLDの対話を進めて民主化を促進する方策をとることを歓迎する。
 派遣団はSLORCが民主化に向けての次のステップを踏み出さない限り、日本のODAを拡大しないことを歓迎する。
 派遣団は日本の担当者が、SLORCによる民主化への政治改革が行われない限り、日本企業の投資を奨励しないと言明したことを歓迎する。しかしながら派遣団は昨年以来、ビルマへの日本企業の投資が増大していることを憂慮する。

四ー四 ヨーロッパ連合

 一九九四年、ヨーロッパ連合(EU)はビルマに対する政策を孤立化政策から批判的対話に変化させた。しかしながらEUはSLORCとの会談の設定に成功していない。一九九五年五月、ドイツの外務政務次官ヘルムット・シャファーはビルマを訪問した。ドイツ外務省によればこの訪問は失望に値するものだった。 一九九六年、ドイツ開発大臣のカール・ディエター・シュプランゲルはアウンサンスーチーとの面談が許可されなかったので、ビルマ訪問をキャンセルした。 一九九五年一二月、EUはビルマで強制労働が行われている実態の調査を始めた。もし強制労働の証拠が見付かれば、ビルマはEUの特別貿易優先リストからはずされることとなる。
 バンコク駐在のEUの担当者は、一九九一年、EU委員会がビルマへの軍事物資販売を停止し、国際社会が同一歩調をとるよう警告したことを説明した。
 派遣団はEUがビルマで強制労働の可能性の実態調査を行うことを歓迎する。 派遣団はEUがSLORCに対する圧力を強め、民政移管を推進することを要請する。

四ー五 アメリカ

 アメリカはSLORCに対して、人権状況、民主化、アヘン絶滅計画、を改善しない限り孤立化政策を採り続けることとしている。ビルマに対して経済制裁をしようという議会の試みは今のところうまくいっておらず、議会多数の支持とクリントン政権の支持を取り付けていない。さらにアメリカは、今のところSLORCに対して麻薬王クンサーをアメリカに引き渡させることに失敗している。
 タイ在留のアメリカ大使館担当者は、アメリカのビルマに対する態度は、ベトナムや中国への政策と違って不安定であると他国から非難されているが、実態は一貫していると語った。ベトナムと中国は民主主義システムが採用されたことがないが、ビルマでは十四年間に渡って民主主義が施行されたことがあり、ビルマにとって民主主義は真新しいことではないとも語った。 バンコク在留のアメリカ大使館担当者は、アメリカがSLORCと交渉できる方法には限界があると語った。巨大な資金投資をしている唯一のアメリカ企業はUNOCAL(石油会社)である。大部分の企業が経済制裁を望んでいない以上、アメリカ政府が一方的にそれを行うことは困難である。

四ー六 オーストリラリア

 オーストラリアはSLORCに民主改革をさせるために、ベンチマーク政策を提唱している。ベンチマークは十の項目からなり、アウンサンスーチーの解放、国内の人権状況の改善、ビルマの政治および憲法の進展のためのSLORCとアウンサンスーチーとの真剣な対話の開始、などが含まれている。オーストラリアの元外務大臣のギャレット・エバンス氏は一九九五年十一月、アウンサンスーチーとの面会が不可能なことを知って、ビルマ訪問をキャンセルした。オーストラリアはアウンサンスーチーの解放を歓迎しているものの、SLORCが基本的な政策と人権状況の改善をすることについては疑念を抱いている。今のところ、オーストラリアの十のベンチマークに対してSLORCが達成したのは、アウンサンスーチーの解放だけである。オーストラリアはベンチマークだけが絶対的条件とは見ていない。ベンチマークはビルマ政府が承認されるために必要な前提条件であり、単なる希望的条件ではなく、その進展を見守るビルマ人民にも、多くの国際社会にも納得がゆく形で、名実ともに達成されたと確認される必要があるとしている。
 オーストラリア政府は、国際社会はビルマとの正常な関係を再開する前に、事態をよく見極め、待つべきであるとするアウンサンスーチーの考えに同意している。オーストラリアはASEANとビルマの関係は重要であると認識しているものの、ビルマ政府が基本的な政治・人権の改善を行なわない限り、その関係は強化されるべきではないと確信している。
 オーストラリアは亡命中のビルマ反政府グループの結束についても疑問を抱いている。反政府グループは固有の政治信条と異なった民族的バックグラウンドを持っているがゆえに、より広い妥協と協力の道を歩まず、互いに競争しているとしている。
       (つづく)

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ソ連の教訓−マルクス理論をより高めるために
アメリカ経済学者によるソ連国家資本主義論の最新論文
スティーブン レズニック,リチャード ウォルフ/共著 叶秋男/訳


資本主義とマルクス主義
 マルクス主義は長らく、資本主義の弁証法的「対立物」であった。一つの理論体系として、マルクス主義は、一方で資本主義のアンチテーゼとして非難されながら、資本主義によって絶えず生成され、かつ再生産されてきた。資本主義の変容はマルクス主義に大いに影響を及ぼしてきたし、また逆にマルクス主義が資本主義の変容に影響を及ぼしてきた。同じ弁証法が、マルクス主義を自称する一連の社会運動にもあてはまる。複雑多様なマルクス主義理論の中には、実際の歴史上の様々な種類の資本主義の多様性や諸矛盾に対応した理論がある。資本主義の危機はマルクス主義の危機をひきおこすばかりでなく、それを反映してきた。そうした相互依存が、これから議論するように、今日再び起こっていることである。
 資本主義の矛盾は、繰り返し反資本主義的高揚を引き起こしてきた。こうした反応はこれまでのところ押さえこまれてきたけれども、その抑圧自体が反資本主義者にとって教訓として役だってきた。そうした諸矛盾に対するますます体系だった洞察と革命的対応が徐々に進展してきた。ヨーロッパでは、一八四八年の革命、パリ・コンミューン、ドイツ社会民主主義の台頭、それに一九○五年および一九一七年のロシア革命が、反資本主義的高揚、抑圧、そして学習の主要な契機であった。同様な契機は他のどの国でも発生した。マルクス主義──あるいは、むしろ諸マルクス主義──はこのプロセスから出現しただけでなく、反資本主義的革命家たちが、抑圧、敗北、および敗北主義を厳密に批判検討することで次の攻撃に転化できることを認識していた。
 批判は、既存の資本主義のダイナミズム、多様性、そして欠陥をより深く理解しようとするだけのものではなかった。最良の場合、それはまた、様々な反資本主義理論、戦略および戦術が果たして資本主義に取って替わるのに失敗したのか、失敗したとすればいかにして、かつなぜなのかに関して真剣な研究をともなう革命的自己批判を含んでいた。それはまた、二者択一的で相争う革命的諸潮流のうちいずれが、適切な修正や調整を加えて、将来の戦略および戦術となるか選択することを意味した。
 それゆえに、マルクスが最初に専念した仕事は、なぜ一八四八年の革命的希望がくじかれたのかを解明することであり、また後にはなぜパリ・コンミューンが敗北したのかを解明することであった。同様に、レーニンは、マルクスによるパリ・コンミューンの分析にもどって一九○五年の敗北を解明しようとした。グラムシは、挫折したトリノでのゼネストの教訓を学び取る必要を決して忘れなかった。毛沢東は一九二七年の教訓に、アルチュセールは一九六八年の教訓に繰り返し立ち返った。その上で、これらの著者の一人ひとりが自分たちの批判の中から、マルクス的伝統の内にある既存または新興の潮流のいずれが、革命的事業にとって不適当と証明されたものに取って替わる必要があるかについて結論を引き出した。
 一九一七年から一九九○年までのソ連は、近代史における最も長く持続した反資本主義的高揚を代表している。それがはなはだ惨めに敗北した現在、反資本主義者全般、特にマルクス主義者は、もう一度、敗北主義とは「別なもの」、つまり反資本主義的立場が闘争でもっと成功を収められる教訓を引き出せるような批判や自己批判に緊急に取り組む必要がある。
 学び取るべき一つの教訓は、資本主義をもはや一様のものとして分析してはならないということである。変化する社会条件に合わせてその形態を変容させる資本主義のダイナミックな能力ということが、マルクス主義的な了解、戦略および戦術において中心的位置を占めねばならない。
 それと関連する第二の教訓は、マルクス主義には、その中心的関心の一つである階級について根本的に異なる諸概念に基づいて打ち立てられた根本的に異なる諸戦略を包み込む伝統があることをマルクス主義理論家が認めなければならないということである。ロシアでの一九一七年の反資本主義的大高揚の敗北により、今やそれに替わるものをさまざまな階級概念および階級理論、そしてそれから出てくるさまざまな革命的戦略の中から識別し選択する必要に迫られているのである。

別種のマルクス的諸理論

 階級に関心のある研究者は絶えず、その階級構造は一体何なのかを明らかにしようとソ連の分析に挑んできた。ほとんどのマルクス主義者も非マルクス主義者も、ソ連はもはや資本主義でも(あるいはまだ)共産主義でもなく、それゆえ中間のものであり、「社会主義的」としていろいろ定義されると答えてきた。こうした多数意見に異議をとなえる者たちは、資本主義か共産主義かどちらかのレッテルの方が適切であり、さもなくばいかなるレッテルも当てはまらないと論じてきた。
 しかしながら、われわれが見いだすことのできたソヴェト的階級構造についての分析のいずれも、われわれがここで用いるほかならぬマルクス的階級概念および理論に立脚し議論していない。すなわち、ソヴェト的階級を研究し結論を出す場合に、いずれもソ連における剰余労働の生産・領有・分配様式に焦点を合わせていなかった。むしろマルクス主義者も非マルクス主義者もともに、別種のまったく異なる階級概念──剰余労働よりも権力に中心を据えた概念──を利用したため、別種の理論立てをおこない、はなはだ異なる結論に達したのであった。
 もし階級が権力の問題──誰が誰に対して権力を行使するのか──として定義されるとなると、その意味では一九一七年以後のソ連は当然階級構造を根本的に変化させたということになる。権力は徹底的に再配分され、再編成された。その種の権力が通常「財産」と呼んだ資源や生産物やの利用機会を管理する権限は、かつての権力行使者(個人)から奪い取られ、国家に移された。資源や生産物の分配権は、廃止された市場で取引をおこなう独立した民間業者から、国家計画官僚に移し替えられた。同時に、国家を運営する権限は、ツァーリ、地主およびロシア・ブルジョアジーの同盟者から、共産党に移った。工業および農業の生産現場での権限も、従来の権力行使者から、政治的に組織された新たな農民集団、工場委員会、労働組合、党集団などに再分配された。もし一九一七年以後に新たに確立された権力分配が新たな階級構造として理解されるとなれば、その場合には確かに達成された階級転換を呼ぶのに社会主義あるいは共産主義といった新たなレッテルがいるかもしれない。
 しかしながら、われわれは階級というものを権力の見地から定義しないし、われわれのマルクス主義理論はそうした伝統の中にあるような理論とは別物である。われわれの確信するところでは、マルクスは、権力と財産に中心を置く革命的分析──それは少なくとも古代ギリシャの時代から人気があった──は社会生活の次元、すなわち剰余労働の生産および分配の編成様式を把握しそこねると考えていた。この次元の軽視が革命的事業を衰退させてきたと思われる。それゆえにわれわれは、資本主義に対する将来の革命的高揚が成功しやすくなるように、マルクスの剰余労働の体系的分析への貢献を、ともに一層発展させたいと思う。
 階級概念について別の定義を用いる別種のマルクス的理論では、異なる結論に到達する。われわれのように、剰余労働の社会編成として理解される階級を中心にすえてマルクス的分析をおこなうと、一九一七年以降のソ連の産業が資本主義的階級構造を存続させてきたことが露わになる。いいかえれば、一九一七年以降、権力構造は激烈に変化したが、剰余労働の編成は変わらなかった。後に証明するように、私的資本主義的階級構造が国家資本主義に取って替わられたのである。
 資本主義的階級プロセスは、剰余労働の果実がその労働の実行者に帰属しない状況として厳密に定義される搾取を、必然的にともなう。すなわち、資本主義的階級構造においては、剰余労働をおこなう労働者たちは搾取されるのである。対照してマルクスは、共産主義的階級プロセスが、労働者が自分たちの剰余労働を集団的に生産し分配するがゆえに、搾取的でないことを強調した。
 われわれが用いるマルクス的理論は、搾取的階級構造対非搾取的階級構造としての資本主義と共産主義との違い、大いなる社会的重要性を有する違いをもって始まる。搾取は、労働者の自己の生産物からの疎外、自己の労働(それゆえに自己開発)からの疎外、他の労働者との連帯からの疎外、自然環境からの疎外、そしてそれゆえに共同体の一員としての自らの可能性からの疎外を助長する。資本主義的搾取は、剰余労働の果実の大きさと分配をめぐる犠牲の多い絶えざる競争と闘争を誘発することで、富および所得面での経済的不平等と経済的対立を助長する。最後に、われわれは、搾取、疎外、そして経済的不平等が現代の政治的文化的平等化事業の土台崩しを助長すると考える。剰余労働の生産者と領有者との間の資本主義的階級差異が、しばしば諸個人の非階級的差異と結びついた、反目しあう階層化された住民をつくり出す。経済、政治、文化、医療、および自然資源の入手機会は制度的に資本主義的領有者とそれらの恵まれた従者に片寄り、生産をおこなう労働者からは遠ざかり、資本主義的階級構造内に占めるべき場所のない人々からはさらに遠のくのである。
 ソ連内部での資本主義的階級構造の持続性は、こうした特性の多くが再生産される一因となった。われわれが正当にもソ連史上でのポジティヴな社会発展を指摘しうることは、ソ連で存続した資本主義的搾取とその結果についてのマルクス的批判を弱めるものではない。マルクスとマルクス主義者は、資本主義的階級構造を維持する不正と社会的犠牲に関心を集中しつつも、私的資本主義の内で達成されるあらゆる種類の社会的成果を認めてきた。この点で国家資本主義に関するわれわれの立場もまったく同様である。            (つづく)

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北朝鮮の歴史D
独裁の成立,展開、そして崩壊


 改革以前

 一九四六年三月、ソ連は金日成の一派を動かし、北部朝鮮単独の土地改革に踏み切らせました。
 繰り返しますが、これが南北分断の既成事実化の決定的な第二歩(第一歩は前月の、事実上の単独政権、「北朝鮮臨時人民委員会」の樹立)となったことは明らかです。
 しかしそれを踏まえた上で、この改革だけ見れば、それは当時の北朝鮮社会の発展段階、およびその現実に照らし、合理的で進歩的なものだっと僕には思われます。
 といいますのは、まず、それ以前の朝鮮の農村はどういう状態に置かれていたか。
 第一に、あの悪名高き「土地調査事業」で多くの土地が日本人に奪われていました。こうして、例えば表1─2に見るように、「地主のうちでも、大地主は日本人で占められていた」(高昇孝(コ・スンヒョ)『現代朝鮮経済入門』、新泉社、一一頁)。そして、表1─3に見るように、「朝鮮の農民は、日本による農産物略奪政策と食糧および農産原料に対する日本の増大する需要を満たすため、農産物の飢餓輸出を余儀なくされていた」(同、一二頁)。
 第二に、「一般に農村における階級分化は、一方では資本主義的農業経営者を、他方では農業プロレタリアートを創出し、農業の資本主義的発展を促す。が、解放前の朝鮮では、封建的諸関係が温存され、旧い地主と小作が再生産されて、資本主義的農業の担い手である近代的な自営農民や農業ブルジョアジー、農業プロレタリアートの創出はもたらされなかった」(同、一三頁)。
 つまりこのように二つのことが制限となって、朝鮮では農業の資本主義的発展、近代的発展が押しとどめられていました。

 改革の内容

 これに対し、四六年三月の土地改革は、まさにこの二つの制限を取っ払うものでした。すなわち、「北朝鮮総耕地面積の五三%に当たる約一○○万町歩の土地が、日本人を含む地主から無償で没収され、そのうち九八万町歩が農家総数の七○%に当たる土地を持たない農民、土地の少ない農民に無償で分与された。また土地だけでなく、日本国と日本人、および朝鮮人地主の所有であった建物、役畜、農機具が没収され、貧農に分与された」(同、三○頁、表1─14)。
 こうして大量の自営農民がつくりだされました。かくして、農業の資本主義的発展、近代的発展の出発点が据えられました。
 そう、まさにこれは発展の出発点でした。すなわち、農民たちはこの日から自由な私的所有者、私的生産者となり、好きなものを好きなだけ、好きなようにつくり、売りさばくことができるようになりました。もちろんこれは自由な競争を意味し、したがってそれは彼らがこれから無慈悲なふるいに掛けられ、やがて成り上がる者と没落する者とに分けられることを意味していました。しかし商品生産を基礎に、競争を、したがってふるいの作用を人為的に阻止するなどできませんし、また他方、このふるいの作用の中で、それを通して農業生産力が発展し、近代的な労働者が生み出され、工業が発展し、社会全体の生産力が発展し、ひいては──幾つもの媒介項の連鎖の彼方に──新しい、より高度な社会が準備されていくのでした。
 それはそういう出発点でした。確かに、出発点以上のものではありませんでした。が、出発点にまで到っていなかったそれまでに比べると、明確な、大きな進歩であったと僕には思われます。

疑問

 ところで、ここで疑問が湧きます。北部単独の「ミニ・ソ連国家」「ミニ・ソ連社会」の創設に踏み切ったソ連は、なぜ土地の国有化、農業の集団化の道を選ばなかったのか。 それはたぶん、一つには、アメリカはじめ諸外国との関係があったと思われます。すでに見てきたように、この時点ではまだソ連も建前上は南北分断を是とはしておらず、南北の諸勢力、左右の諸勢力、第二次大戦の戦勝諸国などなどによる話し合いと妥協の中でとにもかくにも単一の民主主義国家を樹立するという旗を掲げていました。そこでとりあえずは、あまりに露骨な「ミニ・ソ連国家」「ミニ・ソ連社会」の道はさすがにはばかられたということでしょう。
 しかしもう一つ、より規定的だったのは、土地の国有化、農業の集団化といった道には農民の激しい抵抗が予想されたことだと思います。「農民の土地に対する願望はきわめて強かった」(同前、二七頁)。そして、ソ連にとってさしあたっての課題は、早急に、例え北だけでも、とにもかくにも自分の意のままになる政権を打ち立て、打ち固めることでしたから、とりあえずは農民との摩擦は避け、のみならず彼らを慰撫することの方が重要だと彼らは算盤をはじいたのでしょう。
 かくして、国有化、集団化という道ではなく土地分与という道が選ばれました。

 矛盾

 とはいえ、この土地改革は明らかな矛盾を孕(はら)んでいました。すなわち、それは上記のように、一方で農民に土地を分与し、こうして農民を私的所有者として確立しました。ところが、そうしながら他方で、この分与された土地の「売買、抵当、賃貸借をいっさい禁止する」としていたのでした。
 これは矛盾でした。売買や抵当、賃貸借等を伴わない私的所有などというのは、片面しかないメダル、動かない風といった類の、そもそもありえないものです。
 つまり、二つに一つです。私的所有を認めるか、ならば売買等を認めるしかありません。それともあくまで売買等を否認するか、ならば私的所有そのものを否認するしかありません。一時的、臨時的にはともかく、そうでなければどちらかしかありえないのです。
 そして実際、やがてすぐ僕らは、この土地改革が一時的な措置でしかなかったことを見ることになります。
 上で「さしあたっては」「とりあえずは」と書きましたが、この「さしあたっては」「とりあえずは」がミソなのでした。
 (小川 紀)

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ヘーゲル論H プレハーノフ著

 われわれはこれまでに、ヘーゲルの観念論が唯物論への道を指し示すことを見、そしてこの唯物論が一八世紀フランスの啓蒙論者たちの唯物論とは違うことを見た。すなわち、後者は歴史の領域では素朴な観念論で、「社会はこう在るべきだ」という思考によって人間は社会の在り方を自由に規定できるのだと考えた。これに対しヘーゲルは、社会は、歴史は人間の意志や願望からは独立した客観的な法則によって規定されていると考えたのだった。

 現実を追わなくなる

 だが近代の唯物論は、このヘーゲルをもさらに越えている。というのは、確かに未来は人間の恣意に依存せず、未来を「こう在るべきだ」から規定することができないというのはヘーゲルの言うとおりだが、しかし他方、人間が未来をまったく予想できないということはないのである。そうだ、「現に在る」ところのもの、および「死滅しつつある」ところのものから、「成るであろう」ところのものをわれわれ推定しうるのである。それを、われわれ近代唯物論は確認している。
 ところでこのように、いま一体、何が生成しつつあり、何が生成しつつないかということをわれわれは知りうるのであり、それを「現に在る」ところのもの、「死滅しつつある」ところのものから、つまり社会発展の現実の過程から知るのだが、ここから、非常に特徴的なことが出てくる。すなわち、近代唯物論の立場にたつ変革者、未来の開拓者は、何よりもまずこの現実の認識へと立ち向かうのである。
 ところがこれに対し、ヘーゲルの論敵となった人々、「こう在るべきだ」という人間の思考が自由に、社会の現実の過程、その発展の客観的過程を造り変えうるかのように誤信していた人々は、この発展の現実の過程を追跡することも、またこれを振り返りみることも必要でないと考えた。これは当然だろう。社会は「こう在るべきだ」という表象は、われわれの身辺を取り囲む現実在の探求に基づくものではなくて、ある社会組織についてたまたま妥当する概念に基づくものなのだから。

 乖離

 もちろん、もう一歩立ち入って考えてみると、実際にはこれらの概念といえどもその時々の現実在(特にその否定面)の表現であるには違いない。だから、これらの概念から出発するということと、身辺を取り囲む現実在から出発するということとは、実は、根底においては同一の現実在の命令に従うことに違いはないのである。
 しかしただ、概念から出発する場合、それはあたかも人がある対象を知りたいと願うとき、その対象を直接見ることによってではなく、鏡に写るその像を見ることによって知ろうとするようなものである。それでは誤謬は避けがたい。
 そしてこれらの人々が、「こう在るべきだ」という自分たちの表象も実は根底では自分たちを取り巻いている現実在から引き出されたものなのだということを想うことが少なければ少ないほど、また彼らが、この表象を付与されている自分たちは現実を自由に鋳(い)直すことができるのだと信じることが固ければ固いほど、彼らが努力するところのものと、彼らが実際に達成するところのものとの間の乖離(かいり)は、ますます大きくなった。例えば、近代のブルジョア制度は、フランスの啓蒙論者たちが夢見ていた理想の国と何とかけ離れていたことか。
 現実をただ侮蔑したところで、人間は決してこの現実の法則の作用からまぬがれはしない。それどころかかえって、人間は、この法則の作用を予想し、それに自分たちの目的を従わせるという可能性を取り逃がしたのである。

 自由と必然性

 つまり、啓蒙論者の立場を採っているのでは、いまだもって自由と必然性との抽象的対立を超越するものとはいえないのだ。
 しかしでは、彼らと違って歴史に必然性が支配していると認めれば、この対立を越えることになるだろうか。いや、むしろそれを認めれば、もうそこには人間の自由な行動は入る余地はないように見える。
 これに答えを与えたのは、ドイツ観念論だった。すわなち、すでにシェリングは、事物の正しい判断においては、自由は必然性として、必然性は自由として現われるということを示した。
 そしてヘーゲルがさらに、自由と必然性との間の二律背反を決定的に解いたのだった。彼は示した。われわれが自然の法則、ならびに社会的・歴史的運動の法則を知り、そうしてわれわれをしてそれに順応させる限り、まさにその限りにおいてのみ、われわれは自由なのだ、と。
 これは、哲学の領域においてだけでなく社会科学の上において、巨大な収穫だった。とはいえ、その利益を真に収穫したのは、近代唯物論だったけれど。

 弁証法

 さて、以上のようにわれわれは、観念論者ヘーゲルを通した、歴史学の領域における観念論から唯物論への歩みを追ってきたのであるが、ところで唯物史観は他方で弁証法の思想を前提とする。
 そしてこれも、われわれはヘーゲルの功績に負っている。確かに弁証法自体はすでにヘーゲル以前においても知られていたのであるが、しかしヘーゲルは、彼の先達の誰ひとりとしてやれなかったようにそれを取り扱うことを知っていたのである。それは、ヘーゲルの掌中にあって、一切の存在するものの認識の力強い手段となった。
 次にここを見ていこう。
(編集・小川 紀)

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色鉛筆
郵政短時間職員の募集


 ある日、仕事帰りに「郵政短時間職員募集のポスターが貼ってあるの知ってる?」と同僚に聞かれました。郵政の今後の方向性として話は聞いていたけれど、まさか既に募集されていたとは、私もびっくりしました。
 私たちの職場は、本局からは離れた団地の一角にあります。そのため管理者は用事の無い限り、職場には顔を出しません。同僚と気楽にやっている、といえば聞こえはいいですが、要するに放ったらかしにされているのが実情です。 既に一日四時間契約で働いている私たちはどうなるのか? 局からは何の説明も無い状態では、当然の疑問として出てきます。こちらからの問い合わせで、団地配達は募集対象外であることが分かりました。ボーナスが年間一カ月分にも満たない私たちにとって、新採用の三カ月分は魅力ですが、私たちの前には大きな壁があるのです。
 今職場では、一〇三万の所得限度枠で自分の所得がどれくらいなのか、話題になっています。配偶者特別控除は、パートで働く女性を優遇しているかに見えるかもしれません。しかし、限度枠の壁が立ちはだかり、労働条件の改善さえもためらうという可笑しなことになります。パートの地位を低めているのは配偶者特別控除なのですが、その控除を設ける必要のある社会にこそ原因があるのでしょう。
 ところで、なぜ今、短時間職員なのか説明を見てみましょう。「労働力の安定的確保と効率的な配置を図り、高齢者や女性の就業機会の拡大を図るため」と社会の貢献のために実施するかのようです。しかし、労働の時間帯を見れば、午前六時〜午前一〇時、午後五時〜午後九時、という時間帯が多数を占めています。高齢者、女性のどれほどがこの時間帯に仕事が出来るのか、無理な要求ではないのかと思います。実際のところは、効率良く働かせて経費節減なのでしょう。
 一日四時間、四週八休制ならば私たちとほとんど同じ労働時間です。これを機会に、私たちのボーナスアップも実現できるかもしれません。ちょっと頑張ってみましょか、夏のボーナス支給(たったの18000円)はもう終わりましたが。 
(恵)

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老人福祉の現場からJ 
老人病院 パート1


 ひと頃『ルポ老人病棟 大熊一夫著(朝日新聞社)』等老人病院の劣悪な現状を告発するレポートが相次いで出されたが、皆さんは老人病院をご存知だろうか。
 老人病院とは六五歳以上の老人性疾患者が60%以上収容されている病院のことである。老人保健法制定以前は一部の悪徳病院で「老人は金のなる木・等身大の金貨である。」と言われたほど、生命が病院の利潤追求のための経済活動に組み込まれ、患者の生命自体が商品化してしまっていた。老人の医療費無料化の陰で営利に勤しむ医師たちが氾濫していたのである。
 例えば「いかせる(あの世へ送る)3ヶ月メニュー」というのがあり、最も経済上効率の良い期間である3ヶ月の間に老人に点滴漬けをする一方で何種類もの投薬を行う。薬が病気に効くかどうかではなく、薬価が高く、しかも大量に安く仕入れれる物でなければならない。これで老人患者1人につき1ヶ月200万円近い保健請求ができたのである。又オムツの使用の乱用、点滴漬けにより寝たきり老人を早期につくりだした。職員不足により抵抗する老人への抑制や睡眠薬の乱用等が日常的に繰り返され、生きる屍化の老人が大量につくられていった。
これら老人病院が増加した背景には、我が国の厚生事業が戦後一貫して病院偏重の路線を歩み、各種福祉施設の増設を立ち遅らせた。施設の費用は病院の5分の1程度で施設収容の方が安上がりではあったが、福祉は医療に比べて乗数効果が少ないと見たのである。病院産業、医療品産業、医療機器産業が高度経済成長に大きく寄与した事は間違いない。
 1965年から登場した老人病院は1972年の老人医療費無料化政策以降急増し、医者・看護婦を減らして、点滴、検査漬けの医療によって利益を上げる経営方法が横行していった。しかも低成長経済の下で医療費の増大は財政を圧迫し、その抑制を図る目的で制定された老人保健法が悪徳病院への規制を目標にしたかに見えたが、実は医療機関再編成への第一歩だったのである。「病人でない者が病院に居座り高い医療費を食う現象はないが何でも改めねばならない。余剰病床を廃しし、しかるべき施設へ転換することが緊急課題である。」とする政府のシンクタンクからの発表を受け、中間施設の保険財源の導入、診療報酬による利益誘導での医療機関の再編成が一方でなされたにすぎなかったのである。
高度経済期における矛盾は家族機能を変化させ、家族機能を脆弱化させたに関わらず、不十分な施設対策のしわ寄せが全て家族へ掛かり、家庭崩壊につながる大きな社会問題を生み出している。病院は施設より手続きが複雑でなく、世間体も良い等心理的に病院志向を強めている。
 社会的受け皿が不十分な状態で選択幅も少なく、行き場のない老人が増加しているため在院期間が延長し、家庭、施設の代替として病院が充てられているのが実態である。
 老人保健法のねらいである医療費適正化に伴い、老人病院独自の診療報酬が設けられた事から社会的入院数が多い病院は経営難を招き、赤字病院が一方では続出し、病院側は自営手段から病院からの追い出しや同種の病院間でのたらい回し等が多発している。老人個人や家族の状況・意志を無視した責任転嫁の悪循環が繰り返されている。
以上老人保健法制定後の状況を見てきたが、パート2ではこれらの状況を生み出している重要な要因である診療報酬と最近の現状を見ていきたい
 (T)

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抵抗の画家 須山計一  Cクールベ(1819から1877)

 二大騎手

 一九世紀フランスの画家ギュスターブ・クールベの名は、反官展の闘士として、リアリズムの炬火のかかげ手として、またパリ・コンミューンの革命家として著名である。また彼の力作「オルナンの埋葬」(一八五○年)、「画室」(一八五五年)は、一九世紀リアリズムの記念塔となっている。一九世紀フランスの革命思想家プルードンとの親交や、ドーミエ、ミレー、ボードレーヌなどとの交友、それから、パリ・コンミューンに際してのヴァンドームの円柱破壊事件で、その発案者として裁判にかけられ、スイスに亡命中亡くなるなど、彼の生涯をとりまくドラマは多彩で数奇であった。
 しかし、クールベの真の偉大さは、彼が民衆の立場にたって、美術の大道であるリアリズムの旗を高々と掲げ、官展派との闘争の中で、実際に作品行動を敢行したことである。その点、ドラクロアと並んで、一九世紀の二大騎手といってよいであろう。
 クールベの二大傑作の一つ「オルナンの埋葬」は、彼の故郷である、フランス東南部のスイスに近いオルナン村の、埋葬の情景をあつかった大作で、そこに村の各階層の農民やカトリックの司祭や遺族などの各種のタイプがリアルに写され、沈痛な色調の中に、ローカルな風俗をたくみに表現している。
 「画室」の方は、大きなアトリエのまん中に、風景を描いている彼自身を配し、それを見入る子どもと、クールベの背後に立つ裸婦をとりまいて、右側には友人、勤労者、芸術愛好家たちが並び、左側には無名で貧しい当時のフランスの大衆が描かれている。この画は、巨大な壁の空間をバックに、人間群像を構成した作品だが、一種のモニュメントとして成功している。

 勤労テーマ

 クールベの初期の傑作の一つは「石割り人夫」(一八五一年)で、これは老人の石割り人夫と少年との労働がテーマで、全体をグレーの調子でえがき、その中から茶褐色のチョッキの色など浮かしている。ちなみにこの作品は、一八四九年一一月、サン・ドニ城からの帰り道にクールベがこの二人の労働の場面を見て感動して描かれたものだが、こういう作品のおちいりやすい感傷性がみじんもなく、堂々としている。
 次の勤労のモチーフでは「麦ふるい」(一八五三−五四年)がある。まん中の女がふるいで麦をふるっていて、左方にいま一人の農婦が粒をえり分けており、右方には少年が麦ふるいの蓋(ふた)を開けている図で、勤労のリズムが、緊張感をもって表現されている。一八五三年の暮れに、彼はオルナンでこの作品の下絵を描き、やがて完成した。この絵はこれまでのクールベ調の暗鬱なものと違って、明るさの満ちた作品である。この作品は「石割り人夫」と並んで、クールベの勤労テーマ作品を代表するもので、ミレーの「落ち穂ひろい」「箕をふるう男」などに匹敵するものである。

 素朴な唯物論者

 クールベは最初にちょっとふれたように、当時の革命的思想家プルードンと親交を結んでいた。それもあってか、クールベは素朴な唯物論者、無神論者であった。「眼に見えもしない天使を描くわけにはいかない」「俺の画が醜い? 醜いものを俺に美しくできるか」「俺はあるがままの自然を、あるがままに描くだけだ」。これらの有名なクールベの言葉は、彼の素朴で主観的な唯物論と創作方法を物語っている。
 フィンケルシュタインもその著『美術はどう生活を表現するか』で言っているように、「クールベが実際におこなったことは、同時代の官学派美術の持ついっさいの側面をとらえてそれを逆立ちさせることであった。何よりも、当時の官学派美術は古めかしい道徳的アレゴリーを愛用することで、高度の道徳性と社会性の擁護者をよそおっていた。そこでクールベは彼自身の芸術に本当の道徳性と社会的な内容とを与えた」。
 クールベは、官学派の美神や妖精的裸婦像に対して、現実的で肉の匂いの強い裸婦を対置した。同じ立場から、平凡な海や、崖のある山村などの風景を描いたが、その日常性の中には深い自然の発見と人間生活とのつながりを探った。「荒海」(一八七○年)、「エトルタの岬」などは、いずれも彼の自然派風景画家としての立場を物語っている。

 入場料一フラン

 ギュスターブ・クールベは、一八一九年六月一○日、フランシュ・コンテの小さい村、オルナンの富裕な農家に生まれた。オルナンの小さなゼミナールから、やがてブザンソンの大学の哲学科に席を置いたが、あまり勉強せず、もっぱら絵を描いていたといわれる。一八三九年に画家を志してパリへ行き、研究所へ通うかたわら、ルーヴル美術館へ行って先人の作品を模写し、その技術を探究した。やがて一八四四年のサロンに「黒犬を連れたクールベ」が初入選した。つづいて「ギターを弾く男」(一八四五年)が入選、一八四九年にはクールベの名を有名にした「オルナンの食事」が入選している。
 一八五○−五一年のサロンに「石割り人夫」「オルナンの埋葬」をはじめとした八点が入選したが、後者はごうごうとした賛否の論を巻き起こした。つづいて「村の娘たち」(一八五一年)のような傑作がサロンから拒絶された。「埋葬」につづくクールベの傑作「画室」は、「埋葬」とともに一八五五年の万国博に出品を拒否され、腹を立てた彼は、モンテーニュ通りに小屋を立てて、看板に「レアリズム、ギュスターブ・クールベ、作品四○点の展覧会、入場料一フラン」と書いて、挑戦して、評判になった。

パリ・コンミューン

 一八七一年、普仏戦争の敗北によって、パリに自治政府パリ・コンミューンができたとき、クールベはプルードン主義者として積極的に参加して、コンミューンの美術行政の中の絵画部長になり、パリ博物館を平常にもどすことや、諸画廊を大衆に公開したり、展覧会を再開する仕事をまかされた。しかしクールベが実際におこなった重要な仕事は、籠城戦にさらされながら、美術品の破壊を避けるために、リュクサンブール美術館の所蔵品の保護疎開に当たったことだった。
 七一年四月一七日、コンミューン下の美術家連盟委員の選挙がおこなわれ、クールベ、コロー、ドーミエ、ミレー、マネーなどが選ばれた。
 ところで、クールベが主犯としておとしいれられたヴァンドーム円柱破壊事件が起きた。これは美術家連盟の委員会に、ヴァンドームの円柱を解体して、その上にあるナポレオンの彫像をはずして、造幣局に持ち運ぶという認可申請が出て、結局これを認めることになり、四月一二日、コンミューンもこの円柱破壊を命じ、五月一六日、二万の群衆の見ているなかでこの大円柱は引き倒された。やがてコンミューン敗北の後、クールベはこの円柱引き倒しの罪名で起訴され、未決刑務所に放り込まれた。ついで九月、公判があり、判決の結果、六ケ月の禁固と五○○フランの罰金が言い渡された。彼は監獄へ送られた。何度も請願の後、そこで自画像や静物を描いたりすることが許され、幾点かの獄中作が生まれた。受刑中彼は病気になり、翌年一月手術をおこなった。三月、クールベはやっと釈放された。

 亡命

 しかしヴァンドーム問題が再燃して、クールベの再逮捕さえ噂にのぼったりしたので、彼はスイスへの亡命を決意し、七月決行した。彼はレマン湖のほとりにあるささやかな漁夫の家を買い取り、住んだ。そして亡命生活中スイスの自然を描くのに打ち込んだ。
 一八七七年五月、破壊した国家財産の弁償金を年賦で支払うことでフランスへ帰れるということになり、クールベは喜んだが、心身ともにすでに疲れ果てていて、その年の一二月三一日、彼は眠るように、多難な生涯を閉じた。
    (次回はミレー)

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地声人歌

スペインの動乱──
ほんのちょっぴりで片付けて
オリンピックの号外、毎日続く。
            高井 郁夫

 一九三七年刊の歌集より。自由主義者からコミュニスト、アナキストまで含めた人民戦線政府に対し、ファシストが転覆を企て、スペインで内乱が勃発したのが三六年七月一七日。その半月後、八月一日、ベルリンでオリンピックが開幕しました。その時の日本のマスコミの様子が伝わってきます。いい加減な、と呆れ怒るだけでなく、いま僕らは、いい加減でない自分たちのメディアを自分たちで創り、育てよう!

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読書室「公安調査庁の暴走」  富岡祐 著  現代書館 定価1200円
破防法の団体適用の危険性に警鐘


 6月28日、公安調査庁は「これまでの6回の期日で、時間、回数とも十分な弁明の機会を与えたと考えている。これで弁明の手続きを終結する」とし、オウム真理教に対する破壊活動防止法の弁明手続きを一方的に打ち切りました。そして、7月中にも公安審査委員会に団体規制を請求する構えです。
 これまで個人に対しては8件が適用されていますが、それさえ1971年に中核派元書記長の沖縄返還協定批准に対する反対演説に適用されたのを最後に、すでに25年が経過しています。こうした言わば「死に法」ともいうべき破防法を、オウムに団体適用するということはどういうことなのか。公安調査庁の内幕を鋭く暴露した本書を紹介しつつ、こうした疑問に対する回答を探ってみたい。

これで10年は大丈夫!

 宮岡氏は本書の末尾において、「断固として言うが、オウムへの破防法適用など“クズ官庁“の生き残り策以外の意味は全くない」と断言しています。その根拠としては、公安調査庁調査官の「オウムだったらいけるよ。世論の反発も少ないし、追い風にだってなるんじゃないかな。マスコミの皆さんだって、オウムに適用するんなら騒がないでしょ。初適用のチャンスだよね。庁内も盛り上がっているよ」、「これで、ウチの会社も十年は大丈夫だよ」といった言葉を上げています。破防法の発動が、一官庁の生き残り策のためにのみ行なわれるとするのは一面的に過ぎるのではないかと思いますが、とりあえず宮岡氏のこの結論に至る過程を追っていきましょう。
 日本の公安・情報官庁としては公安調査庁以外に、警察庁警備局を筆頭とする公安警察、内閣情報調査室、自衛隊の陸幕調査二部、外務省などがあります。公安調査庁は警察に次ぐ規模を誇っているとはいえ、警察署や交番などを通じた網の目のような情報網を持たず、捜査権や逮捕権といった強権(直接的・合法的暴力)もありません。それでも現場段階では公安警察とはライバル関係にあり、直接的なトラブル(例えばスパイの奪い合い)もあるようです。警察側が「得体の知れないいい加減な奴」と罵れば、調査官は「力を背景に偉そうにしているだけ」とやり返すということで、何やらうら寂しい限りです。

破防法請求官庁から情報機関へ

 公安調査庁設置法第3条には「公安調査庁は、公共の安全の確保に寄与することを目的とし、破壊活動防止法の規定による破壊的団体の規制に関する調査及び処分の請求等に関する国の行政事務を一体的に遂行する責任を負う行政機関とする」とあります。簡単にいうと、公安調査庁とは破防法の適用のために法務省の外局として設置された官庁です。
 1952年、日本は占領体制から解放されましたが、「団体等規制令」(公職追放やレットパージで活躍した占領化の治安法規)にかわる新たな治安立法の必要に迫られていました。破防法は戦前の「治安維持法」、占領下の「団規令」の流れを汲み、共産党を主要な調査対象としてきました。しかし、それも「共産党の宮本議長の散歩には公安がつきまとい、毎日の散歩の歩数を数えていたという話を聞いたことがありますよ。『今日は歩数が少ないから体調が悪いのか』と分析しているとか…」というのが本当だとすれば、いささかマンガチックではあります。
 1800人の人員に180億円近い予算を費やし、やっていることといえば盗撮、盗聴、尾行にスパイの養成とほとんど犯罪行為です。最近はリストラ対象一番手の官庁としての危機感を深め、生き残り策として「これまでの左翼勢力を主要な調査対象とした調査・情報収集活動だけでなく、他の様々な団体や事象に関しても幅広く情報を収集できる情報機関的機能を強化」(業務・機構改革の趣旨と改革の骨子ーいわゆる公安調査庁機構改革極秘文書)する方向へ移行しようとしています。

治安強化を許さない闘いを

 以上のような情勢のなかで、オウムへの破防法の適用が急浮上しました。公安調査庁の狙いはすでに明らかですが、このクズ官庁の暴走によって利益を得るのは誰か。公安調査庁の情報はこれまでも「九段情報」として、一部の政治家に利用されてきました。今後調査対象が「各党派系、無党派系の各種大衆運動団体」に及ぶようになれば、その威力は更に拡大するでしょう。
 また、破防法が「抜かずの宝刀」ではなくなることは、公安調査庁の生き残りとあわせて、社会全体が治安的色彩の強化へと進むことは間違いありません。オウムの解体は勿論重要な課題ですが、そのことと破防法の団体適用を混同するなら、公安調査庁の暴走をたやすく許してしまうでしょう。今必要なことは、オウムとともに公安調査庁を、破防法を葬ることではないでしょうか。     
 (折口晴夫)

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フォークなんて古い? 中川五郎
3、テーマと自分


 ピート・シーガーが心の底から戦闘的に歌いあげる「We shall Overcome(勝利を我等に)」。僕自身の短いフォークソングの歴史は、この曲との出会いによって始まりました。
 それまで、カントリー&ウエスタン音楽、なかでもブルーグラス音楽が好きで、そればかり聞いていた僕でしたが、それはただそれらの素朴な響きが好きだから、といった聞き方でした。歌われている言葉にも関心はありましたが、それよりもむしろギターやバンジョーの音、コーラスの響きなどにひかれて聞いていました。
 しかし、一九六四年、僕が中学三年生のときピート・シーガーの「We shallOvercome」に出会ってからは、それまでとまったく違った態度で、歌を聞くようになりました。
 つまり響きやハーモニーを聞くのではなくて、何が歌われているか──言葉の後ろにあるもの──そんな聞き方をするようになりました。

 勝利を我等に 勝利を我等に
 勝利を我等に いつの日にか
 心の奥深く わたしは信ずる
 いつの日にか 勝利は我等のものになると

 我等は腕組み合おう 我等は腕組み合おう
 我等は腕組んで歩む いつの日にか
 心の奥深く わたしは信ずる
 いつの日にか 勝利は我等のものになると

 最も大切な一節は、アラバマのモントゴメリーで書かれたものです。彼らは何も恐れていないといっていました。若い人たちは誰にでも教えていました。年老いてくると妥協の手をおぼえ、安易な道をとり、人と折れ合うことばかり気にして、過去の自分を捨ててしまいたがるのだと教えていました。

 若い人たちは、私たちすべてにもそう教えてくれました。
 われらは恐れていない
 われらは恐れていない
 われらは恐れていない 今日
 心の奥深く わたしは信ずる
 いつの日にか 勝利は我等のものになると

 ピート・シーガーの「We shall Overcome」によって、フォークソングに触れた僕は、それから貪欲にピート・シーガーをはじめとしてアメリカのフォーク・シンガーの歌をレコードでラジオで聞いてゆき、ただ聞いているだけでは物足りなくて、アメリカの歌を訳したり、自分で曲をつくってみたりし始めました。
 一九六五年。高校一年の頃から自分で歌をつくり始めたけれど、最初の作品はやはり、視点が定まっていず、とらえ方も甘かった。それにアメリカン・フォークソングの模倣が多く、あるテーマについて曲をつくっていても、そのテーマを十分消化できず、テーマ自体と、そのテーマについての歌をつくった自分との関係、また自分の立場というものもしっかりしていなかった。
 例えば、僕が高校一年生のときの作品で、「あの閃光が忘れられようか」というのがある。これはヒロシマの原爆について書いたものだが、責任追及というものができなかったと思う。
 その日は晴れていた
 まぶしい朝日が輝いていた
 雲一つない青い空
 遠く広い青い空
 そのとき音が聞こえてきた
 白い飛行機がとんできた
 雲一つない青い空
 突然眼をやくような
 青白い光がひらめいて
 大地をゆらす轟(とどろ)きが
 すべてのものが壊れてゆく
 あの光が忘れられようか
 あの光が忘れられようか
 ぼくの父を母を兄弟を
 奪った光が忘れられようか

 そのあと眼をおおいたく
 なるような姿があらわれた
 煙と炎の黒い空
 きのこ雲の黒い空
 痛い熱いと泣き叫ぶ
 やけどだらけの子供たち
 天に手をあげ死んでいる
 黒くこげた屍(しかばね)
 水を求めてさまよう
 皮膚のはがれた人の群れ
 髪の毛は逆立って
 苦痛のうめきはたえない
 あの光が忘れられようか
 あの光が忘れられようか
 ぼくの父を母を兄弟を
 奪った光が忘れられようか

 ぼくらの街はなくなった
 ぼくらの空もなくなった
 じっと見上げる黒い空
 じっと見上げる黒い空
 あの光が忘れられようか
 あの光が忘れられようか
 ぼくの父を母を兄弟を
 奪った光が忘れられようか
 ぼくらの街の空をすべてを
 奪った光が忘れられようか

 また同じ頃の作品で「乙女の顔」というのがある。これは部落差別によって死に追いやられた福本まり子さんの遺著『悲濤』を読んでつくったものだが、次に見るように、これもやっぱり「あの閃光が忘れられようか」と同じく、肝心なところを逃げていたようだ。        
       (つづく)

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