戦争も軍隊もない社会を
広島・長崎・沖縄・アジア諸国の犠牲を無にせず、現実をかえる闘いを
三〇万人の原爆犠牲者
二九万五九五六人、この数は広島市と長崎市で原爆で亡くなった方の数です(広島二四万六七二六人、長崎一〇万五三四八人、昨年の調査結果)。約三〇万人の方が亡くなられているわけですが、この数を上回る約三四万人の人々が戦後五〇年を過ぎた今も、十分な国家補償がないままに被爆のための身体的、精神的苦痛に苦しみ続けています。
広島・長崎の犠牲者の数を見るまでもなく、大量殺戮兵器である核兵器のもつ破壊力は人類を破滅に導くものであることは誰の目にも明らかです。
WHOの警告
「北半球を中心とした全面核戦争で合計約一万メガトン規模(高性能火薬換算)の核兵器が使われた場合、一一億五千万人が即死し、一一億人が負傷する。小型の戦術核などによる『限定核戦争』が戦われた場合でも、広島原爆の約一千発である一五メガトン相当の核使用で、九百万人の民間人と六十万人の兵士が死傷する」と世界保健機構(WHO)国際専門委員会は一九八三年に警告しています。
限定戦争でも広島・長崎の数十倍、全面戦争であれば数千倍の犠牲が生じる計算です。
この警告をもとにWHOは九三年に国際司法裁判所(ICJ)に健康や環境に与える悪影響という点から「核兵器使用がWHO憲章などの国際法上の義務違反になる」として勧告的意見を求めました。
国際司法裁判所の判決
しかし七月九日のICJは「WHOの憲章からみて勧告的意見を求める権限はない」と門前払いをしています。
一方、国連総会の勧告要請に対して、核兵器は一般的には違法としながらも「国家の存亡にかかわるような極端な状況で自衛のための核兵器による威嚇や使用が合法か違法かについて、決定的な結論は出せない」としています。
かつて日本が行ったように、戦争では自衛と称しての侵略が数限りなくあったこと、核保有国が自衛のために自国内で核兵器を使用することはまずありえません(必ず他国)から、ICJの判決のいいかげんさが分かります。この判決は核保有国の論理、核の威力で支配しようとする帝国主義の論理がまかり通ったものであるといえます。
二三万の沖縄戦犠牲者
広島・長崎の原爆の犠牲者が三〇万人なら原爆投下前の沖縄戦では二三万人の人が犠牲になっています。広島・長崎では被爆のため今なお後遺症に苦しんでいる人が三四万人いますが沖縄では基地の重圧に一二〇万の県民が苦しんでいます。
昨年九月四日の米兵による少女暴行事件は長年の沖縄県民の怒を爆発させました。少女暴行事件は軍隊の本質(=軍隊は訓練され、組織された殺人者の集団で,法律も無ければ、倫理もなくやりたい放題)を明らかにするとともに、五〇年間放置された基地問題を浮き彫りにさせました。
県民の圧倒的な支持の下に行われている太田知事の代理署名拒否の闘いは基地の廃止か存続か、日米安保条約の解消か存続かの問題ともなっています。沖縄に限らず犠牲の上に成り立つのが良いのかを考えれば答はおのずと明らかであると思います。。
県民の力か最高裁判決か
今年の四月以来「象のオリ」と呼ばれる米軍の楚辺通信所の知花昌一さんの土地は日本政府が不法占拠したままになっています。一方、首相が知事を訴えた代理署名訴訟の最高裁判決は八月二八日に言い渡されることが七月二五日決定されました。
九月八日に基地問題についての県民の意向を問う住民投票が実施されることが決まっていますが、五月三〇日に審理を大法廷にうつしてからわずか三ヶ月弱という異例の早さからしても、住民投票前に政府寄りの判決を出そうという意図がありありです(住民投票後では判決は批判の矢面になる)。三権分立といっても政府におもねる機関でしかありません。
戦後五〇年は闘いの出発点
戦後五〇年を過ぎていますが犠牲になった人はいつまでたっても犠牲になったままです。従軍慰安婦の人をみるとその思いを一層強くします。
昭和天皇をはじめとする多くの戦争犯罪人、財閥解体でも生き残った資本は甘い汁を吸い続けてきました。薬害エイズや住専問題において批判の矢面にされた腐敗官僚と腐敗した資本の大部分、彼らは今なおその地位にとどまり甘い汁を吸い続けています。大きく騒がれた大蔵省解体論も言われなくなり大蔵官僚はほくそえんでいます。
戦後五〇年は犠牲になっている人々、忘れ去られようとしている人々の問題を一つ一つ正面から取り上げ日本の現実を変える闘いにする年だと思います。共に闘いましょう。
(伊藤俊康)
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全逓全国大会への抗議行動
「新昇格制度」を受け入れる本部を厳しく批判
去る7月10〜12日にかけて、山梨県甲府市において、第50回全逓全国大会が行われました。今大会は、「新昇格制度」「ニューユニオン構想」「交渉ルールの見直し」「郵便番号7桁」等々、重要な問題が目白押しでした。
この重要な大会にぜひアピールに行こうと思い、行動を起こしました。
差別・分断・競争をあおる「新昇格制度」認める全逓本部
まず、「新昇格制度」についてですが、これは「結果の平等」から「機会の平等」にする制度だと全逓本部は言っています。つまり競争して限られた賃金を皆で取り合いせよというものです。
新制度は、現行の賃金制度の6級を8級に増やし、管理者が私達を5段階査定し、点数の高い人から限られた定数の範囲内で上位級に昇格するというものです。そのため、管理者に逆らう人、病弱者、手の遅い人等は、他の人より昇格が遅くなるかまたは昇格できません。
挑戦目標というのがあり、これは年に1回職員が業務に関する個人目標を出しますが、その内容が気に入らないと管理者が判断すれば、書き直しをさせられます。書き直しを拒めばそれだけで減点ですし、出さなければ0点です(15点満点)。
このようなひどい制度をなぜ郵政省が認めるのかというと、@現在の年功給だと高齢化する職員のため賃金総額が上がるため、これを抑えるため。A管理者が査定するため、労働者は当局に逆らえない。 B労働者同士の競争が激化する。ということではないでしょうか。
本部は、昇格にあたって恣意的な運用がないように管理者教育を徹底するよう省に求め、認めさせたと言っていますが、あくまでも査定するのは管理者であり、どうとでもなります。新たに苦情処理制度ができ、昇格が差別的だと思えば職員はここに申告できるわけですが、しかし現在他の人の賃金がなかなかわからないため、どう差別的なのか立証するのは不可能に近いと思います。
郵政に労働条件を売り渡す本部
その他、「ニューユニオン構想」については、全郵政(旧同盟)との合併を視野に入れています。これは全逓労働運動の一層の右傾化を加速するでしょう。
「交渉ルールの見直し」については、交渉を闘争戦術に使っている職場支部があるとして、これを郵政施策をいかにスムーズに入れるか労使で話し合う場に変えようというのです。
「郵便番号7桁」についても、施策実施に伴う11000人の減員に反対しないという態度です。
現場の力で「新昇格制度」賛成から反対へ変更した支部も
私達は、この全国大会の最重要問題として「新昇格制度」反対署名を全国のさまざまなグループと協力して取り組みました。
その署名を集約する集会が全国大会の前日に行われ、約40名の参加がありました。そこで全国各地からの報告があり、明らかになったことは、全逓の関東地本・九州地本が各職場支部に対し、署名に取り組まないようにという指導をしていることです。他の地域も同様の指導をしていたことが十分考えられます。本部は、本当にひどいことをしたと思いますが、これは本部自身が「新昇格制度」反対運動に危機意識を持っていたことの表われだと思います。
それから、特筆すべきことは東京中部支部では、当初執行部は支部委員会で「新昇格制度」に賛成を提案しましたが、それに対する委員の発言18名全員が「新昇格制度」に反対したため、執行部も「新昇格制度」に反対するようになったことです。現場の力の勝利だと思います。
そして私も、関西氏名札裁判の原告の一人として、わが原告団も署名を集めていること、全国大会代議員選に3名で立候補したこと、職場の有志で「新昇格制度」反対の学習会を開催したこと等を報告しました。
「新昇格制度」反対署名3960名分を中執に手渡した
大会当日は、あいにくの雨にもかかわらず、約120名もの労働者が中央執行委員や代議員や傍聴者に「新昇格制度」反対等をアピールしに来ました。私もビラを用意しました。
ビラは、多くのグループ名がありました。そこで特筆すべきは、奈良西部支部青年部の若い労働者が何人かで来ていたことです。参加している多くの人が中年(失礼)の中、実に新鮮でした。
そして、大会アピール参加者数名が、「新昇格制度」反対署名3960名分を中執の久慈氏に多くの労働者が見守るなか手渡しました。私達は、まさか受け取るとは思っていなかったのですが、予想外でした。
それから、全国各地からの力強い報告があり、最後にシュプレヒコールをして大会へのアピールを終えました。
非常に低調な大会議論
さて、肝心の大会議論は、非常に低調でヤジも飛ばずに静かだったと言います。「新昇格制度」に明確に反対したのは、京都地区だけだったようです。
そして、議案に対する一票投票は、反対62、賛成331、無効1というひどいものでした。いつもは反対100ぐらいは行くのですが、この重要な大会で反対がこれだけとは正直がっかりしました。賛成した代議員の責任は、極めて重大です。断固糾弾します。
しかし、これにめげることなく、全国で闘う多くの労働者とともに労働運動の再生をめざし奮闘します。
(大阪・河野守)
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7・17郵政「氏名札」裁判判決
敗訴だが、さらに闘いは続く!
提訴から5年、近郵と対峙し、一歩も引くことなく、原告団は拡大し続けてきました。4月1日の定期昇給において、1号俸カットを受ける労働者は原告団以外にも多く、私たち67名の原告団はそうした力に支えられてきたといえます。
7月17日10時15分、大阪地裁第5民事部中路義彦裁判長は、傍聴席の私たちにほとんど聞こえないような声でぼそぼそと判決を言い渡すと、逃げるように退廷しました。引き続き次の裁判があり、関係者も控えてるにもかかわらず、です。私たちに対する判決の言い渡しは、彼にとってもよほど嫌な仕事だったんだろう。しかし、彼の行為は法的拘束力を以て私たちをも拘束するわけで、糾弾せずにはおれません。
「人格権」は認めたけれど
私たちが訴えていたのは、各局局長に対しては「勤務中氏名札を着用する旨の職務上の命令を発してはならず、かつ、氏名札の不着用を理由として、注意、訓告をしてはならない」というものです。そして、国に対しては定期昇給1号俸カット分の支払いと、50万円の慰謝料を請求するものです。判決内容はどうだったか、以下簡単に見てみましょう。 判決主文は
一 原告らの被告国を除くその余の被告らに対する本件各訴えをいずれも却下する。
二 原告らの被告国に対する請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は原告らの負担とする。
要するに、各局局長に対する差し止め請求は「却下」=門前払いで、国に対する訴えは検討してみたが理由がないので認められない、ということです。
「却下」の理由としては、「各郵便局等における注意、訓告の実態は必ずしも等しいものではなく、今後どの程度の頻度で注意や訓告が行なわれるかを確実に予想することは困難」とし、定期昇給がカットされたら「損害賠償請求訴訟等による事後的な救済が比較的容易」なので、訴えは「不適法であり、却下を免れない」と述べています。しかし、私はほぼ毎月訓告処分を受け、毎年定期昇給1号俸カットされています。カット分は裁判で取り返せばいい、なんて言われても納得できるものではありません。
次に名札の着用強制について、裁判所がどういう判断を行なったか見てみます。まず氏名について「これを個人の側から見れば、氏名が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であるとの面を有することもまた否定できない。そして、人がその意志に反して氏名を公表されたような場合には、精神的平穏が害されるなどの弊害が生じることは容易に推測できることに鑑みれば、人は、自らの氏名を公表するかどうかを決定する法律上の利益を有するというべきであり、これを氏名権と称するかどうかはともかくとして、なんら正当な理由もなく、氏名の表示を強制された場合には、人格権の侵害として、その個人に対する不法行為が成立する余地があることは否定できない」としています。
ずいぶん長い引用になりましたが、判決のなかで唯一ここだけがまともな部分です。といっても、本当におずおずと「人格権」を認めることによって、判決文全体の不当性を隠そうとしているようです。というのも、そのすぐ後で正当な理由さえあれば名札の強制も不法行為にはならないと言い、さらに近郵の主張を追認することによって、いったん認めた「人格権」を葬り去ってしまっています。
近郵の強権的労務管理追認を許さない!
ずさんな近郵の主張を追認してしまった判決には、いくつもほころびがあります。例えば、処分に恣意的なばらつきがある点について「各郵便局の局情や他の改善を要する事項との兼ね合い、取り扱い上の過誤によるもの」と取り繕っています。直接利用者と接する機会のない内勤者にも一律に着用強制した点についても、「内勤、外勤を問わず、程度の差はあれ、職員が利用者や部外者と接する機会があること、氏名札の着用による精神的な負担も、ごく僅少というべきであること等に鑑みるとき、被告局長らが内勤者のうちの直接利用者と接する機会の少ない者を含めた全職員に対して氏名札着用の職務命令を発したことも、合理的裁量の範囲内にある」と実に苦しい。
原告団は判決後会議を開き、ただちに控訴して高裁でも引き続き闘い抜くことを確認しました。私たちは、名札が強権的労務管理の手段であり、当局への服従を強いる踏絵である事実を法廷でも明らかにしてきましたが、裁判所は「独自の見解に基づくものであって、これを認めるに足る的確な証拠はない」と全否定し、さらに全逓は積極的に反対していないなんてくだらないことまで言っています。所詮裁判官に現在の郵政職場の実態など理解できっこないし、反動著しい裁判所にいい判決を期待できるものでもありません。それでも私たちは裁判所をも闘いの場として利用し、それを職場での抵抗と結びつけ引き続き奮闘したい。
(折口晴夫)
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病膏肓に入る――情報公開に背を向ける青島都知事
青島幸男氏は、その反権力、反骨精神において、長らく庶民の人気を博してきた。ところがこの彼の栄光は、昨年4月9日夜に判明した都知事選の結果を振り出しに、あっという間に色褪せ、掌中から転げ落ちて
しまった。
あの日、彼は無党派市民の星として頂点を極め、都官僚が巣くう伏魔殿の大掃除に取りかかるはずだった。世界都市博覧会の中止をもたもたしつつも決断し、幾分なりともその期待に応えたが、そのあとは圧倒的な官僚の力に屈してしまった。そして、今また青島氏は情報公開裁判において、最も俗物的政治家としての1ページを印した。
「世田谷行革110番」の後藤雄一氏は東京都の官官接待文書の非開示決定に対し、昨年3月決定取り消し裁判を東京地裁に提起した。6月20日、地裁は出席者も含め全面開示を命じた判決を出し、これを不服とした青島知事が控訴したというものだ。焦点になっているのは、総務、港湾など5局の総務課が1994年4月から12月までに会議費で開いた接待の会計処理文書だが、「開示すれば出席者が識別され誤解や混乱が生じる」、「実態が明らかになれば自分たちの責任問題になりかねない」とは何たる厚顔。
94年度に5局で約1億1000万円を377回の接待に使用し、都全体では約1600回で4億円を超える税金を飲み食いしてしまったというのだから、只事ではない。判決を受け入れるとなれば、約21億2000万円の裏金を約1800人の幹部で返還した北海道、8億7000万円全額の返還に追い込まれた秋田県に続き、東京都も泥沼を這うことになる。
後藤氏が「都は裁判を引き延ばそうとしているだけ。知事の公約『開かれた都政』は一体何だったのか」というように、青島氏の責任は重い。しかしこうした事態は、単に青島氏の資質の問題ではい。自治体とは所詮国家行政の一機関であり、首長はそのトップに立つ行政官に過ぎない。
もちろん沖縄のようにその枠を食い破ることも不可能ではない。また、原発等を争点に首長選挙を闘うことも可能だし、闘い続ける限り問題はないが、行政の全てにわたって闘うことは実際上不可能に近い。かくして青島氏が平凡なブルジョア行政官に変身しのは、必然であったといわなければならない。結局、青島氏の理性など赤子の手をひねるように、官僚にあしらわれてしまったのだ。
必要だったのは、沸き上がるような怒り、闘いだという平凡ではあるが固い真実を、「私にやめろというのなら次の選挙で私を落とせばよい。民主主義とはそういうものだ」という言葉とともに、青島氏は私たちに思い知らせた。
(晴)
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「規制緩和」をどう考えるか
資本主義を越える新しい社会を構想する契機としていこう
1、規制緩和論の席巻
財界やマスコミなどによる「規制緩和」の大合唱が続いています。企業活動への政府による様々な規制が経済の活力を削いでいる、新しい産業の発展の足を引っ張って雇用拡大にも悪影響をもたらしている、競争を阻害して多くの産業で高コストの体質をもたらし消費者の利益をも損なっている、海外からの厳しい批判の的となっている等々と政府規制を非難し、この規制の緩和や撤廃こそが今日の経済の停滞や困難を取り払い、新たな発展と飛躍をもたらしてくれるのだというのです。もちろんこの大合唱は日本国内だけでなく、ほとんどすべての先進資本主義諸国、そして程度の差はあれ多くの途上国や旧東側の諸国にも響きわたっています。
日本では80年代の半ばから「小さな政府」、「民間活力」重視が叫ばれ、国鉄、電電、専売が民営化されました。今ではこの流れはさらに大きく深くなり、流通部門はもちろん、情報・通信、エネルギー、金融や証券や保険、医療や福祉や教育、雇用や労働、消費者保護や安全や環境保全、そして独占禁止法が規定する持ち株会社の規制までが、規制緩和の俎上にのせられるにいたっています。
欧米では日本に先んじてすでに大がかりな規制緩和が進められており、航空機輸送や情報・通信部門などで国境を越えた合従連衡、大競争が繰り広げられ、それにともなって雇用や労働条件の問題を含め様々な問題を生み出しています。
2、規制緩和論登場の背景
では、規制緩和がかくも熱心に唱えられ、財界や政府の主流の大方針となるにいたったのは何故でしょうか。
ひとつには、90年代に入っていっそう明らかとなった日本資本主義の過剰生産、バブル景気によって極限まで推し進められ、そのゆえに決定的となった過剰生産を背景とする深刻な不況があります。財界は、この不況からの脱出の突破口のひとつとして、規制緩和による新たなビジネスチャンスの開拓や労働法制の改正や労働力流動化政策などを求めているのです。ビジネスチャンスの宝庫として財界がとりわけ期待しているのは、めざましい技術革新が進む情報・通信の分野などですが、高齢化社会の到来が喧伝される中で福祉や医療なども新たな投資分野として注目を集めています。また経営改善の手っ取り早い手段としてリストラ・人べらしが多用されているのは周知の通りです。
また、総額240兆円という赤字を抱えた国家財政の窮状も、財界が規制緩和を要求する背景のひとつです。すでに国鉄や電電や専売の民営化として実行に移されていますが、今日では更に大規模な形で、もうけがあがらず国家財政の負担となっている部門は整理し、将来性ある有望部門を切り離してそこに民間資本を呼び込んで市場の拡大と活性化をはかろうとする方策が打ち出されようとしています。財源不足に悩み、思うような景気刺激策もとれなくなった国家財政の現状を少しでも改善したいとの思いもあります。
もちろん背景にあるのは不況や財政赤字ばかりではありません。規制緩和の流れにいっそうの拍車をかけているのは、資本主義の下での新たな生産力の発展、コンピューターやデジタル技術やそれらを用いた新たな情報通信ネットワークの急激な発展です。「情報化」と呼びならわされているこの革命的ともいうべき生産力の発展は、新たな市場とそれをめぐる激しい競争を生み出そうとしており、財界や政府はその可能性をくみつくすためにこの分野を覆っていた規制が撤廃されなければならないと主張しているのです。
さらにこの情報・通信の分野をめぐる競争は、単に国内のみならず世界的な巨大資本が入り乱れてのメガ・コンペティション(大競争)の最大の舞台となっており、すでに諸資本間の生き残りをかけた国際的な合従連衡や激烈な競争戦が繰り広げられています。アメリカのAT&Tはヨーロッパや日本の市場を狙い、イギリスのブリティッシュ・テレコム(BT)やケーブル・アンド・ワイヤレス(C&W)やフランスのフランス・ステレコムなどは他のヨーロッパ諸国の大通信企業と結びついてこれに対抗し、日本のNTTをはじめとする巨大通信企業もその中にあって生き残りをかけて将来の方策を練っています。そしてこうした激しい競争に打ち勝ち、情報化時代の巨大企業を育てていくためには、規制が緩和されなければならないというのです。
3、労働者や「弱者」への影響
深刻な停滞に悩み、また新たな生産力の発展の要求に十分には応えきれなくなった今日の資本主義を、その困難から救い再生させる特効薬として「規制緩和」が唱えられているわけですが、ではその実際はどうでしょうか。規制緩和先進国のアメリカの航空・運輸産業の例などを見ていきましょう。ここでは『規制緩和という悪夢』(内橋克人とグループ2001、文芸春秋社)を参考にさせていただきます。
まずアメリカの航空産業です。この産業は1978年の航空自由法によって価格や路線の完全自由化がはかられました。法律の成立にあたっては、人々の不安を打ち消そうとするように、自由化が行われても消費者の利益は損なわれることは決してない、それどころかかえって運賃は下がり、航空産業の伸張によって小さな都市や村にも航空サービスが行き渡るようになる等々そのメリットが強調されました。
しかし実際には、この法律が施行されるや否やただちに正反対のことが起こりはじめました。航空会社は利益の出ないローカル路線から次々と撤退して最初の一年だけで70の都市が路線を失い、この流れはその後も止まず87年までに143の都市が交通手段を奪われてしまいました。
大都市間を結ぶドル箱路線でも大きな異変、もちろん当初の予想とはいささか異なった異変が起きました。航空自由法のうたい文句は、新規参入による企業間競争の促進、運賃の値下げ、市場の拡大などによって航空産業全体が活性化されるということだったはずでした。しかし実際に現出した事態は、当初の予想を超える激烈な競争戦の展開、新規参入企業の相次ぐ倒産と撤退、少数企業への寡占化の進展、運賃の値下げならぬ値上げ、そして労働者への激しい攻撃――労働条件の切り下げと解雇の嵐――だったのです。
例えば寡占化の進展は、次のように極めてドラスティックなものでした。1978年に68・8%だった大手5社の市場占有率が92年までに79・7%に増え、大手10社で見ると78年に88・9%だったものが92年1月には99・7%に上昇しているのです。
また運賃は、規制緩和直後に26%と大きく下がったものの時を経るにつれて下降率は小幅になり、87年にはついに上昇に転じます。しかも当日運賃についてみると、逆に規制緩和後に急激な上昇を見せています。航空運賃の低下率はむしろ規制緩和以前の方が大きかったことも明らかとなっており、ここでも規制緩和論者の主張は大きく破綻しています。
どうしても見ておかなければならないのが労働者に及ぼした影響ですが、これは惨憺たるものでした。競争で劣勢に立った航空企業の労働者は10数%から20%にもおよぶ賃金切り下げを押しつけられ、そのうえに激しい労働強化を強いられ、挙げ句の果ては倒産、失業の憂き目にあわせられたのです。こうして航空産業からはじき出された労働者の少なくない部分が、この時期に同じ運命に追いやられたアメリカの何十万何百万の労働者と同じように、もとの条件を満たす職場を見つけだすことは出来ず小売業や飲食業や掃除婦やベビーシッターといった不安定で低賃金の仕事に就くことしかできなかったのです。倒産企業での自殺者も多発しました。もちろん競争に勝った企業の労働者とて安泰ではありません。賃上げもままならず、労働はいっそう厳しくなり、そして自分たちもまたいつ敗退したライバル企業の労働者と同じ運命に追いやられるかも知れない不安におびえています。
航空産業で起きたのと同じ事が、ただしもっと激しくきわだった形でトラック運輸でも起きました。この分野でも1980年に運輸自由法が定められて路線、参入条件、最低賃金などでの規制が撤廃されました。そしてその直後から倒産件数が急増しはじめ、自由化以前の倒産件数は毎年約200件くらいだったものが自由化後の91年には2300件にも達するようになりました。その結果ここでも寡占化が進行し、上位10社の市場占有率でみると77年には27・7%だったものが90年には49・2%まで拡大したのです。
もちろん労働者に及ぼした影響が航空産業以上に甚大となるのは当然でした。トラック労働者の実質賃金は1978年から90年にかけて26・8%も切り下げられ、また待機時間や積み荷の時間がただ働きとなったり、勤務体系が悪化して安全にも重大な影響が出るようになったのです。
ここにあげた例は、今では日本でも同様に見られるます。航空産業の労働者の場合はコミューター航空の破綻や契約スチュワーデス問題などにそのはしりが現れています。トラック運送業では日本はアメリカに勝るとも劣らぬ過当競争と過酷な労働条件の下に投げ出され、労働者は地獄を見ています。日本で規制緩和が本格化するならば、こうした事態がより激しく、大規模に、そしてさらに多くの産業をとらえていくのは必至といってよいでしょう。
4、犠牲転化と闘い、そして新たな社会の構想を
では、以上に見たようなことから、規制緩和はすべてよくないことである、いっさいの規制緩和に反対すべきであるという結論が導き出されるのでしょうか。結論は、それ以外にないのでしょうか。決して、そうではありません。
何故なら、今日の諸規制の中には一部の業界やこれと結んだ官僚たちの寄生的な利益を温存するだけでどんな前向きの要素も持たぬものが多々あり、労働者はこれらが廃止されたからといってどんな不利益を被るわけでもないからです。また労働者は、生産力の発展や社会の進歩の要求の前に立ちはだかるような規制を容認するものではなく、むしろその徹底した批判者、最も首尾一貫した批判者たろうとするものです。何故なら生産力の豊かな発展は、労働者の解放、搾取も抑圧もない自由で平等な社会を実現するための不可欠の物質的条件だからです。
この点では、どの様な規制が労働者と社会全体に負担を強いるものとなっており断固撤廃されねばならないか、どの様な規制が労働者を守り労働者の闘いの武器となっておりしたがって撤廃させてはならないか等々を、ぜひとも具体的に検討していく必要があります。
例えば、労働市場の柔軟化と称して労働者の労働条件や団結への攻撃が試みられようとしていますが、こうした動きとは断固として闘っていく必要があります。
では、情報・通信の分野で取り組まれている規制緩和はどうでしょう。ここには生産力のいっそうの発展、社会の進歩の要求が反映されていることを否定することは出来ません。しかしここでの規制緩和も同時に、その実行の過程で大量の人べらし、労働条件の悪化、社会的「弱者」へのサービスの切り捨てなどをもたらしています。資本主義のもとでの生産力の発展は、社会の富をよりいっそう増大させるため、社会全体の利便性を高めるために行われるのではなく、あくまでも個々の企業のより大なる利潤、より大なる蓄積を目的とする行動が結果としてもたらすものに過ぎません。そうである以上当然、労働者への搾取のいっそうの強化、それに抵抗する労働者の闘いへの攻撃が不可避となるのです。
では、私たちはこの問題にどう対処すればよいのでしょうか。
私たちは、規制緩和がたとえ生産力の発展や社会的進歩の要求を反映している場合であっても、その過程で労働者に押しつけられる様々な犠牲には断固として反対します。生産力の発展そのものには反対しませんが、それが賃金や労働条件の切り下げ、人べらしや首切りをともなう限りこれとは徹底的に闘う必要があります。
しかし情報・通信分野などで展開されている規制緩和や生産力発展の動きをみるとき、私たちは単に「生産力発展には反対しないがその犠牲の押しつけとは闘う」と言って終わらせるだけでは不十分であるような気がします。何故なら今日の情報・通信などの発展への要求は、18・19世紀の資本主義的発展とは異なり、この発展によってのみ人類の悲願である搾取や抑圧のない社会、自由で平等な社会=社会主義社会のための物質的条件が生み出され、この発展の一時代を超えなければそうした社会が展望できないというようなものではないからです。今日私たちの前にあるのは、いっそうの資本主義的発展かさもなくば資本主義的停滞かといった二者択一の道ではなく、それらとは別の新しい可能性が存在するのです。
今日の資本主義は社会主義のための物質的条件、豊かな生産力や生産や社会を人間が意識的に統御していくための諸手段や諸知識をすでに生み出しています。トヨタ生産方式にしろ、それを電子化し通信ネットワークのもとに再編したCALSにしろ、資本主義のもとでは労働者への徹底した搾取強化の手段ともなっているシステムですが、同時に国内外の諸企業、諸オフィスや諸工場を結んだ寸分の狂いもなくかつ柔軟性も合わせ持った計画的生産のシステムを構築しています。もしこの生産システムが、協同する労働者たち――生産や社会について豊富な理論的実践的知識を持ち、共同の討議を通して合意を形成していく能力を身につけ、官僚や上級といったものを必要としなくなった労働者たち――によってコントロールされるなら、またこうしたいくつものシステムが相互にリンクしその輪が広がっていくならば、そこに見いだされるのはすでに社会主義そのものではないでしょうか。私たちがより積極的に選ぶべきはこの方向であり、そしてこの道はすでに現実的の条件を持っているのではないでしょうか。
社会主義の実現のためにはその物質的条件が不可欠であり、現在の情報・通信の発展もそれをいっそう豊かなものにしていく過程に違いありません。しかしいま規制緩和や情報化をめぐって巻き起こっている生産や社会のあり方に対する関心や議論もまた新しい社会をめざす闘いの契機であり、そのようなものとしてより意識的に発展させ、深めていく必要があります。とりわけ規制緩和、情報化の中で労働や生活の激変に見舞われ、しばしば過酷な犠牲を押しつけれている労働者の中で、そうした議論や共同が組織されることが望まれます。
規制緩和と情報化の激流を、逆に労働者の新たな未来、搾取も抑圧もない新しい社会を展望する好機へと転化するために力を合わせて闘いましょう。
(阿部治正)
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老人福祉の現場からK
老人病院 パート2
老人病院は当初措置基準が緩和されている特例許可老人病院と基準に満たない特例許可外病院に大別されていた。特例許可病院の病院数及び病床数の増加は著しく平成6年現在病院総数の約15%を占めている。それに対し特例許可外病院は老人診療報酬の設定により、許可外に認可されると請求できる医療費がぐんと安くなり、入院患者1人につき約1カ月5〜6万円の収入低下につながるため少数しかない。老人病院は医療費適正化により独自の診療報酬が設けられことから許可、許可外に関わらず良心的な医療やリハビリケアを行うほど経営難を招き、赤字病院が続発している。そのため病院の自衛策としてたらい回し等が行われてきたのである。このような劣悪な環境が報じられる中、新しい老人診療報酬制度が始められ、見直しが1993年に進められた。これにより国の基準を満たす特例許可病院のみとなり、特例許可外病院は廃止となった。特例許可病院は医師・看護婦数は一般病院の標準よりは少なくしてもよいかわりに、高齢者の慢性疾患患者の特性に合わせて看護・介護職員の強化を義務づけられた。一般診療に比べると老人診療報酬は低く設定されているが、「特例許可病院入院医療管理料」の新設により、入院患者1人あたりの定額が支払われることになり、治療より介護に重点を置く傾向が強化されている。
これらを生み出している最も根本的な問題は診療報酬を一般病院のそれと別枠化して設けられて事にある。そもそも増大する医療費削減の具体策として慢性疾患の老人患者を老人病院に集中させて隔離し、入院期間の短縮化と治療抑制に拍車をかけ、一般健康保険と比較すると極めて低い点数に設定されているのである。一貫して医療費の適正化、医療抑制が図られており、その弊害として診療報酬の穴埋め的政策として従来のおむつ代、お世話料等の保険外負担の費用を一挙に値上げするなど老人、その家族へしわ寄せがいっている病院もあるのが実態である。
1994年診療報酬の改定が行われ、介護を重視した老人介護看護体系の見直し、慢性疾患患者に適応した老人病院体系の確立、寝たきり老人かかりつけ医の24時間対応の評価等在宅医療の充実、痴呆性老人対策、老人の心身に適応した調剤の評価、診療報酬体系の簡素化を図る観点から甲乙点数表の一本化等が盛り込まれている。そして同年10月より老人付添看護解消計画加算の導入等による付添看護の解消、3:1の看護、介護体制を基本とする老人介護体系への移行がなされ、患者負担を伴う付添看護及び、患者家族への介護業務の転嫁を禁止し、1996年3月末までに廃止する事になった。また入院時食事療法を受けた場合の患者負担額として入院時食事療法に係わる標準負担額一般で1日600円、低所得者世帯で老齢福祉年金の受給権者で200円最低でも負担することとなるなど大きな転換がみられたが,果して現場の労働者にどのような影響を与えているのだろうか。
医療労働者の闘いを見ると「看護婦確保法」や「基本指針」が制定されても未だ「ニッパチ(複数夜勤・月8回以上)」すら守られていない職場が半数以上というような状況であったり,「療養型病床」への転換を機に,看護婦を削除し「介護職員(看護補助者)」へと切替えようとしているなど看護婦の合理化,人員削減が強化されてきている。療養型であっても看護婦は複数で夜勤に従事することは必要であり,安易な削減や介護職員への切替えを容認してはならない。慢性疾患患者といえども高齢者は急変することもあり,なんら医療的資格のない介護職員が対応している状況は決して良い環境とはいえない。訪問看護は始めたものの「外来の看護婦が手のすいた午後にいってもらう」と増員しない病院や「付添い看護を廃止した」が看護婦の増員もなく却って労働強化を招いている病院など医療現場では慢性的な人員不足による健康障害や退職に追い込まれるなど労働環境は劣悪なものとなっている。看護婦に限らず,今後高齢化社会の急速な進行に伴い,介護・看護労働者は絶対的に不足しており,マンパワーの確保が今後の重要な課題となる。そのためにも労働環境の改善は必要不可欠であり,看護・医療・介護労働者が団結して増員・夜勤の軽減等をめざして闘っていきましょう。
(T)
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ヘーゲル論I プレハーノフ著
前回見たように、唯物史観は弁証法の思想を前提とする。そして確かに弁証法自体はすでにヘーゲル以前においても知られていた。が、ヘーゲルは、彼の先達の誰ひとりとしてやれなかったようにそれを取り扱うことを知っていた。それは、ヘーゲルの掌中にあって、一切の存在のするものの認識の力強い手段となった。
弁証法
「弁証法的なものは」とヘーゲルは言った。「学的進展を内から動かす魂であり、それによってのみ、内在的な連関と必然性とが学問の内容に入るのである」。「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である」(『小論理学』第八一節)。
そして弁証法的立場を固守している限り、ヘーゲルは否みがたき一個の革命思想家であった。
すなわち、「よく見てみると、あらゆるものは、単に外部から制限されているのではなく、それ自身の本質によって自らを止揚し、自分自身によってその反対物へと移り行くものである」。「われわれは一切のものは最後の審判の日に到るものだという。ここにおいてわれわれは、反抗すべからざる普遍的な力としての弁証法の思想をもつ。この力の前には、どんなものも、たとえそれがいかに確実、強固だと思われているものでも、抵抗することはできないのである」(同)。
だから、弁証法的なものを的確に捕らえ、かつ認識することは最高の重要事だとヘーゲルが言ったのは、まったく至当だった。弁証法的方法──これこそは、ドイツ観念論哲学が、その後継者たる近代唯物論に残していった最大の学問的遺産だった。
殻からむき出す
とはいえ、観念論者の弁証法は、すぐさま、そのまま唯物論者によって使用されることはできなかった。それは何よりもまず、その神秘的な殻からむき出されねばならなかった。しかしこのことを、唯物論者たちはきわめて速やかにおこなった。
すなわち、ヘーゲルの本当の後継者、マルクスは、自分の弁証法はヘーゲルのそれの正反対をなすと言った。
「ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけである。これに反して、私にはあっては、観念的なものは、物質的なものが人間の頭の中で転換され翻訳されたものにほかならない」(『資本論』第二版後記)。
新しい歴史観
こうしてマルクスによって、唯物論は、一つの調和ある、かつ徹底した世界観へと到達した。
すなわち、われわれはすでに、前世紀(一八世紀)の唯物論者たちが歴史の領域ではすこぶる素朴な観念論にとどまっていたことを見たが、いまやマルクスが、観念論をこの最後の避難所から、つまり歴史の領域から追放した。ヘーゲルと同じく、マルクスもまた、人類の歴史のなかに一つの合法則的な、人間の恣意に依存しない過程を見た。ヘーゲルと同じく、彼はいっさいの現象をその成立と崩壊とにおいて見た。ヘーゲルと同じく、彼は、社会生活のいろいろな側面が単に交互作用のうちにあるとするだけでなく、そのすべての側面が由って起こる共同の源泉に到ろうと試みた。しかし唯物論者として彼は、むろんこの源泉をヘーゲルのように「精神」に求めようとはしなかった。それを彼は、経済的発展の中に見いだしたのである。もっとも、われわれがすでに見たように、それはヘーゲル自身が観念論の無力に行き詰まったとき常に逃げこまざるをえなかった場所なのだが。
自由と必然
ともあれ、人類はその歴史を意識せずにつくるということは、こうして観念論よりも近代唯物論の方がよく知りぬくところとなった。というのは、後者は、歴史の進行は人間の意志には依存しない物質的生産力の発展に規定されるとしたからである。
しかしここから、近代唯物論は人類史を自動機械と同じにみなすものだという俗論が生まれてきた。つまり、それは人類史をただ必然性によって運ばれるだけのものとみなす、と。
だが、自由と必然性との二律背反に関し観念論が発見した解決についてわれわれはすでに見た。近代唯物論は、この解決を歴史に適用した。すなわち、なるほど人類はその歴史を無意識につくった。そして、歴史的発展の原動力がまだ人類に知られていない間は、その限りにおいては、人類は無意識にこれをつくらざるをえなかった。が、いったんこの原動力が発見されるならば、その作用が探究されるならば、人類はこれを自己の掌中に握り、これを自己の目的に従わせることができる、と。そして上記のように、近代唯物論は生産力こそがこの原動力であることを発見した。こうして、近代の弁証法的唯物論は、史上初めて、人類のために自由と意識ある歴史的活動への道を切り開いたのである。
働く人々
ところで、この意識ある歴史的活動の担い手は、働く人々である。すでに見たとおり、ヘーゲルにとって働く人々は「賤民」だった。しかしマルクスにとっては、彼らこそ歴史を切り開く、未来を背負う存在だった。
ヘーゲルは感激をもってアテネ市民のことを語った。「アテネ人は共同体精神の輪のなかにありながら、個々人は活気に満ち、活動的で、個性ゆたかだった」。この市民の前で「アイスキュロスとソフォクレスの戯曲は演ぜられ」、この市民に向かって「ペリクレスの演説」はおこなわれ、この市民の中から「一群の天才が成長し」、彼らが「後のすべての世紀に対する古典的典型をなしたのである」云々(『歴史哲学』第二部「ギリシャ世界」)。
なるほど、この感激は当を得ている。だが、アテネの市民は、奴隷使役の人々であった。当代の生産者たる奴隷に向かって、ペリクレスの演説はおこなわれたのではなかったし、彼らのために、大詩人の労作が書かれたのではなかった。
これに対し、われわれの時代においては、科学は直接に生産者に、近代の働く人々に訴えている。この働く人々のために思想家たちは書き、彼らに向かってわれわれの時代の雄弁家たちはその演説をおこなう。いまや初めて、科学、思想と働く人々との緊密な結束が、──史上最も幸福な、新しい一時代の端緒を意味する結束が、ついに固められたのである。
(編集・小川 紀)
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ビルマの人権 ジャーナリスト 菅原秀
やっとビルマの民主化がマスコミに載るようになってきた。しかしスーチーと軍事政権が対立しているという図式でしかとらえられていない。ビルマの人民が日々軍事政権によって弾圧されているということを知らせる活動が急務だ。
今回でノルウエー主導の国際議員団報告を終了する。次回からは最近の動きについての詳細を報告しよう。
国際議員団報告
その七
国連開発計画(UNDP)
UNDP政策評議会は一九九三年、ビルマでのUNDPのプログラム変更を決定した。事業規模は縮小され、活動対象は最貧困層に限定された。プログラムの対象はプライマリー・ヘルス・ケア、環境、HIV/AIDS、教育、食品安全である。一九九六年と九七年のビルマに対するUNDP予算は約五千二百万USドルである。
SLORCはヘルス・ケア、教育および他の社会問題よりも、軍備の充実に重点を置いている。UNDPとの面談で、派遣団はラングーン駐在代表のダグラス・W・ガードナー氏に対し、UNDPの活動はSLORCの国内での地位を強化する可能性があるのではないかという質問をした。ガードナー氏は、援助はUNDPからのものであることを注意深く強調している。加えて人々からはどうして政府がUNDPのような援助をしてくれないのかという質問を受けているとも語った。
ビルマのUNDPは政府ともシビリアンとも協力しながら活動を展開している。
UNICEF
一九九五年五月、UNICEF評議会は一九九六年から二〇〇〇年までのビルマに対するプログラムを承認した。評議会は五年間の総予算として三千二百五〇万USドルを承認し、さらに二千三百五0万ドルを追加予算として使うことができるとした。
ビルマでの活動は、子どもの状況のモニター、子どもの権利の主張、各種サービスの拡大と維持、政策および計画の支援である。
ビルマのUNICEFの最大の挑戦はHIVビールスの拡大の阻止である。一九九四年末のビルマ国内のHIVポジティブ患者数は四〇万から五〇万にのぼっている。AIDSの脅威はもはや母親と子どもを含み、この国の総人口をおびやかしている。
ビルマは一九九三年に子どもの権利条約を批准した。社会的、経済的な理由により、ビルマの小学生たちは家庭の雑事を行なうことを余儀なくされている。時として、家族の生計を支えることにもある。もしビルマが他の国と同様の発展をするようになれば、経済調整と都市化の結果、貧困家庭はますます苦しくなるであろう。
UNICEFはビルマに拠点を置く海外のNGOとともに、多くのビルマ人ボランティアとともに働いている。UNICEFがNLDやアウンサンスーチーともっと協力したいと思っても、SLORCによって公式な接触は制限されている。
まとめと勧告
一九九五年の国連総会のビルマに関する決議は、SLORCはできるだけ早い時期に、少数民族の代表を含む、アウンサンスーチーその他の政治指導者たちと、本当の意味での和解およびビルマの民主化の完全かつ早急な回復に向けて、政治対話を実行すべきであるとしている。
この決議が国連総会を通過した以上、加盟国はビルマとの国交回復の前提条件として、決議の各条項をSLORCが満たしているかどうかを考慮しなければならない。
派遣団は、アメリカ、EUおよびオーストラリアがその影響力を行使して、ASEAN諸国が、対話促進のパートナーとして、SLORCが人権状況を改善し、実質的な民主化促進を行なうよう、建設的関与政策を通じて圧力を加えるように働きかけることを勧告する。 派遣団は国際社会に対し、ビルマの内外の反政府グループに財政的支援だけでなく、政治的支援を与えることを勧告する。
派遣団は、国際社会がビルマへの武器禁輸を行なうことを要請する。
派遣団は国連事務総長に対し、その責務に鑑み、ビルマ国内の和解と民主主義の再開のためにSLORCとの対話を続行することを勧告する。
派遣団はUNICEFとUNDPは、ビルマに対しての今後のプログラムを刷新するにあたっては、NLDと相談することを勧告する。
派遣団はビルマに対する他国および援助機関からの開発プログラムを支援するとともに、確実に市民に届くことと、草の根レベルで行われるように注意すべきであることを勧告する。
派遣団は、SLORCの自信をくじき、アウンサンスーチーと反政府グループとの対話を受け入れるようになるために、国際社会がビルマへの投資を自制することを強く勧告する。
ビルマの政治的風土の鍵を握っているのは、SLORCと、NLD主導によるビルマ人民主化グループおよび少数民族である。SLORCは現在の政権を掌握しているが、NLDは一九九〇年の選挙で大多数を掌握しており、少数民族は人口の多数を占める。したがって、ビルマの将来に向けてこの三つのグループが対話のテーブルにのるべきであるのは言うをまたない。
国民会議が続行中であり、SLORCはこの三者が対話をすることを望んでいる。しかしながら、NLDは一九九五年十一月二八日、国民会議から撤退した。それ以来、NLDはこの会議は本当の対話は行われていないとしている。派遣団は、この会議では三者に自由に意見を述べる機会が与えられていないと主張するNLDと同一見解である。
一九八九年以来、SLORCは個々の少数民族各派との対話を続けて、十六の軍事組織のうち十五組織との停戦の合意を行なってきた。派遣団は、停戦合意は前向きのステップであると考えるものの、問題の根本の解決が表明されていないことから、合意の内容に疑問を持っている。
今のところ、関係グループすべてが受け入れることのできる真の対話の場は設けられていない。したがって派遣団はアウンサンスーチーが、前提条件なしのSLORCとの対話要請をしていること強く支持する。彼女は反政府グループすべてから代表としてSLORCと対話をする信任を受けている。
一九八八年以降、反政府グループは互いの努力の連携の方法に熟達してきた。一九九二年、ふたつの反政府勢力、つまり民主化勢力と少数民族勢力がNCUBの傘のもとに団結した。しかしながらSLORCは反政府全体との交渉を望んでいない。SLORCの戦略は個々の反政府グループと交渉することによって全体の団結を分断することである。派遣団はNCUBによる憲法の対案作成作業を強く支持する。つまり、傘下の各組織の協力強化につながるからである。
国連総会によるいくつかの勧告では、SLORCは軍政から民政に移管しなければならないとしている。しかし、まったくそれが遵守されるサインは見られない。派遣団は今後の国際社会による努力はビルマの民主化プロセスの推進に向けられねばならないと確信する。派遣団は、日本とASEANがビルマに実質的な発展をもたらすと考える。派遣団は日本とASEAN諸国に対して、SLORCと取り引きをする際に、ビルマには政治改革が必要であることを強調するよう要請する。
派遣団はビルマの民主化進展のために、国際的政治指導者のネットワークを拡大する。さらに多くの政治指導者の参加を要請し、ビルマの民主化を進めるために活動している現存のグループとも協調関係を結んでゆくものとする。
(つづく)
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ソ連の教訓 −マルクス理論をより高めるために B
アメリカの経済学者による ソ連国家資本主義論の最新論文
スティーブン・レズニック、リチャード・ウォルフ/共著 叶秋男/訳
私的資本主義対国家資本主義
マルクスは、彼が叙述した特定の歴史的局面に妥当する資本主義論をつくり上げた。それゆえに『資本論』の書き出し文は次のようであった。
「資本主義的生産様式が支配する社会の富は『商品の巨大な集積』として現れ、個々の商品はそれの単位として現れる。それゆえに、われわれの研究は商品の分析をもって始まるのである」。
マルクスは、資本主義的生産様式が商品交換、すなわち市場で取引をおこなう個別的私的所有者、貨幣などがある限りで存在できるとは、いいかえれば常に商品交換をともなわねばならないとは論じていない。この点で彼は、そうした生産様式は常に国家資本主義と対照的な私的資本主義でなければならないとは決して主張しなかったといえる。それどころか彼は、資本主義的階級プロセスが存在できる別の可能性、別の社会状態を認めていた。例えば、『資本論』第二巻において、「政府が鉱山、鉄道などで生産的賃金労働者を雇用し、産業資本家の機能を遂行する限りでの国家資本」について叙述している。
資本主義は決して一様ではない。それは個人的競争企業として組織された産業形態でも、株式組織の独占的な法人形態でも存在したし、今日も存在している。それは規制のない個人労働市場とも、団体交渉とも、行政命令的最低賃金とも、労働供給の完全な国家配分や賃金の国家決定ともさまざまに併存してきた。資本主義的階級構造は形態上国民的でも国際的でもありうるし、世界経済との経済的、政治的および文化的関係の点で開放的でも閉鎖的でもありうる。それは民主的かつ議会的政治制度とも絶対君主あるいは独裁とも結びつきうる。資本制企業の労働者たちは、自分たち以外の大勢の管理者によってたえず指揮・監督される場合もあるし、自分たちの必要労働と剰余労働両方の総合的な自主管理に従事する場合もある。
そこでわれわれが提起する問題は、われわれは国家形態の資本主義という理論立てが可能か、そしてそれは一九一七年以後のソ連に当てはまるか、ということである。剰余を領有する企業の位置と、その中での個人の国家に対する結びつきという二つの明確な特質が、資本主義的階級構造の私的形態と国家形態とをはっきり分ける。私的資本主義では、国家と特別な結びつきをもたない個人が国家の外に存在する企業を設立する。国家資本主義では、国家と特別な結びつきをもつ個人が国家機構の内部で不可欠な位置を占める企業において労働者を搾取する。これら二つの特質のこうした現れは、確かに特殊社会的な資本主義的搾取形態を変えるが、搾取そのものはそれによってなくならない。
国家資本主義は、国家機構の内部にいる人間が国家機関の中で労働者を搾取することを意味する。国家資本主義もまた多様性がある。例えば、集権的国家の政府でも、分権的国家の政府でも、産業資本制国営企業を設立できる。これらの企業は政府によって任命もしくは選定された──剰余労働を領有する資本家たちの──理事会をもつかもしれない。それらは原材料、生産手段および労働力を私的所有者からそれぞれの市場で購入する場合もあるし、市場を使わない計画的配分によってそれらを国家から獲得する場合もある。国家資本主義企業は生産したものを商品として販売し、そうすることで剰余価値を実現かつ分配し、企業の存続を維持する場合もあるし、生産物がそれらに付けられた管理価格で行政的に分配される場合もある。国家資本主義企業は、私的資本制優位の制度内部で存在することもある。その場合、少数派の国家資本主義企業はあらゆる市場で私営企業と競争しなければならないであろう。他方、私的資本主義企業が周辺化したり、まったく非合法化されたりして、ほとんどあるいはすべての生産が国営企業を通しておこなわれるようになる場合もある。
(一)産業の投入物と産出物の両方の分配において行政的(指令的)配分が市場に取って替わり、しかも(二)集団(国家)が産業の生産手段の私的所有に取って替わるような特殊な国家資本主義を考えてみよう。これがどうして国家「資本主義」のままであるかを説明することは、ソ連経済の別種の概念化、つまり階級の剰余労働概念よりも権力に焦点を合わせた概念化の中心をなす指令対市場と共同所有対私的所有の二分法が決定的な重要性をもつがゆえに特に必要である。
これら別種の概念化において階級構造が資本主義的と呼ばれるのは、(一)あらゆる資源や生産物が私的に所有され市場で取引され、(二)労働者が生産的資産を持たないがゆえに自らの労働力を売らねばならず、(三)生産手段を所有する資本家は、彼らが自らを資本家として再生産して行くのに必要な剰余価値を確保するのに労働力を買わねばならないからである。それゆえその立論では、もし労働者が国家を掌握し、その国家が資本家の財産を収用し、かつあらゆる資源や生産物の国家計画的配分のため市場を廃止したならば、資本主義は消滅することになる。
これと対照的に、われわれが用いるマルクス理論は、財産や市場にではなく、むしろ剰余労働の特定の生産・領有・分配形態に焦点を合わせる。われわれは、財産の共同化や市場の廃止それ自体では、剰余労働の資本主義的な生産・領有・分配形態を廃絶しないと考える。問題にすべきは、共同財産や資源や生産物の市場を使わない国家配分が、剰余労働とその果実の編成と分配にどのように影響を及ぼすかである。もし国営企業がこの点で私営企業と同様に運営されるならば、国家資本主義が私的資本主義に取って替わったのである。資本主義はその形態を変えたにすぎず、くつがえされてはいない。共産主義的階級プロセスが、革命的高揚の中で国家を掌握した政府と反資本主義者の目標であったかもしれないが、それは確立されてはいない。その目標は、国家資本主義企業にさまざまな公共目的のために剰余を充てさせ、労働者にいろいろな管理権限を付与する動機づけとなるかもしれない。それゆえに中間的な過渡的階級構造──社会主義──が存在すると主張する者もいるだろうが、国家資本主義的階級構造こそが実際に存在するのである。
資本主義的搾取は多様な形態をもつ。それは私営企業、私有生産手段、そして産業投入物および産出物の市場交換として現れる。他にも、それは国営企業、生産手段の共同所有、そして管理された価格、利潤率、および投入物と産出物の配分として編成可能である。実のところ、上述の二者択一的部分をいろいろ組み合わせることが可能であり、実際多くの組み合わせが存在してきた。
もちろん、資本主義的搾取は、私営企業か国営企業か、私有か国有か、そして市場か行政的指令かによって量的にも質的にも相違しよう。われわれの議論ではそうした相違が問題にならないというのではない。それらは重要なものである。資本主義経済に生きるすべての市民にとってあらゆる次元の生活の質は、ある程度上述した可能性のいずれかから出現する特殊な資本主義的階級構造にかかっている。
われわれの主眼点はむしろ、さまざまな資本主義的階級構造の間の相違を、資本主義的階級構造と共産主義的階級構造の間の相違と取り違えてはならないというところにある。そうした混同を回避するのに必要なことは、私営企業と国営企業、私有と共同所有、そして市場的交換と非市場的交換の相違を、剰余労働の生産および分配の資本主義的編成と共産主義的編成の間の二分法と切り離して分析することである。その分析には、剰余労働の見地から階級を定義する独特なマルクス的理論を必要とする。なぜならソ連に関するそうした分析はこれまでおこなわれた試しがなく、それがもたらす見解が公表されたり論争されたこともなかったからである。
(つづく)
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読書室 情報をこじ開ける闘いの記録!
「ザ・お役人天国−−官官接待仕掛人が行く!」
フットワーク出版社 後藤雄一(「世田谷行革110番」代表)
後藤氏は京王線桜上水駅のすぐ近くでパン屋さんを営んでいます。その彼が役所の無駄遣いのニュースに腹を立て、情報公開の闘いに立ち上がったのは1984年の夏でした。宿泊研修という名の宴会付きの慰安旅行、カラ残業・カラ出張に会議費による“汚食“と、ぞろぞろと税金無駄遣いの実態が出てきます。それと同時に、情報公開に対する役所の嫌がらせの数々も暴露されており、腹を立てつつ笑ってしまうー役所の対応はそれほど子供じみているー本です。
監査委員はおいしいポスト
まず世田谷区長から紹介すると、区長みずからカラ出張のお手本を示した例として、出張中の1980年10月10日区総合運動場での体育祭に出席し、なんと挨拶までしていたのです。これは出張旅費の返還で一件落着となったようですが、裏金づくりのためのカラ出張だったようで、ほとんど横領に近いと後藤氏は指摘しています。
さらに区長室の会議費の情報公開を求めると、なぜか出張命令簿が行方不明。それがまたどういうわけか開示期限の前日に見つかり、会議費が公開される当日世田谷区が謝罪会見をするという落ちまでついて、まるで薬害エイズの郡司ファイルと同じです。ことの真相は「なんと広報課が、多額の接待費を捻出するために、架空の記者懇談会をでっち上げていたというものだ。ダシに使われた新聞社は、朝日、読売、毎日、などの新聞各社。区が、それらの新聞社に対して謝罪するという、まさに異例の記者会見だった」。
さらに後藤氏によると、監査委員が不正を隠す防波堤になっているというのだから、税金を払う側はたまったものではありません。
「世田谷区の場合、区長が議会の同意を得て、知識経験を有するもの2名、議員2名を監査委員に任命」します。実態は任期4年の職員OBと、議員は毎年入れ替わるというもので、いわば身内とうまみ(議員報酬に月168000円の監査委員報酬がプラスされる)目当ての議員ではどうしようもありません。
それでは次に、情報公開はどういうふうに実現できるのかを見てみましょう。1990年5月14日、「世田谷区議会事務局の会議費の支出命令書」の情報公開を請求する。6月12日、「非公開決定」の通知が届く。理由は「公開することにより議会運営に支障をきたす」というもの。8月15日、「情報非公開決定処分取り消し」を東京地裁に提訴。91年3月28日、支払い金額が公開される。「行革110番」は 「支出先も公開せよ」と裁判の続行を要求する。4月23日、支払い先が公表され、議会運営懇談会の支出命令書が全面公開された。6月25日、公開された資料をもとに、監査請求をする。8月16日、監査請求が棄却される。9月10日、東京地裁に提訴。92年7月7日、議長裁量の範囲内であるとして、「行革110番」敗訴。
ガラス細工の都政
この後藤氏と「ガラス張りの都政」を公約した青島知事との対決はどうか。総務局だけで年間1億2800万円にものぼるタクシー券の使用を例にとると、クーポン券が渡しきりとなり、私用で使っても金券ショップで換金してもいっさいばれないというずさんな実態です。
タクシー券は残業で遅くなったときに使用するものですが、自宅が都庁から600メートルしか離れていないのに、毎月20冊ずつ使用している者もいるというから驚きです。一方で「精算のときのタクシー代請求書には料金、乗車経路、会社名、運転手、車両番号、利用年月日、時間まで記入。領収書を添付しないと受理されません。ひとりで乗車したときは支給額2650円で打ち切りです。同じ病院の事務職員は精算なしでクーポン券を使用しているのに…」というひどい実態もあります。
本書には付章として「ひとりでもできる行政監視のテクニックー情報公開請求から裁判まで」があり、今後情報公開制度を武器にお役所に挑戦してみようと思う人には格好の入門書です。しかし、一つ難点を上げれば、後藤氏の闘いは一つ間違えばかつての国労に対するヤミ・カラ攻撃に似たものになる、という点です。一口に公務員といっても、特権官僚から現業労働者までその労働条件は大きな違いがあり、同一に扱うことはできません。こうした点を考慮しながら、あなたもお役所ウオッチングをしてみてはいかがですか。
(晴)
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抵抗の画家 須山計一D ミレー(1814〜1875)
ジャン・フランソワ・ミレーの名は日本には明治・大正時代に伝えられ、白樺派の文学運動などを通じて、その作品紹介や評伝などが出た。世界的に有名な「落穂ひろい」「夕べの祈り(アンジェラス)」は日本でも複製として町に売り出され、田舎の小学校や教会等の壁にも飾られた。かくてミレーの名は、西欧画家のなかでいちばん親しい名前の一つとなった。
●額に汗する人々
彼の最大の代表作「落穂ひろい」は、収穫する小麦の農場の中で、ネッカチーフをした三人の農婦がしゃがんだり立ったりして落穂をひろっている作品で、黄土色を主調として、わずかに緑や赤のネッカチーフなどを浮かしている。額に汗する人々の黙々とした苦痛の生活を描いたものであるが、また「労働は神聖である」といったキリスト教的教義も含まれている。パリ、ルーヴル美術館の一九世紀画の代表作の一つである。
「アンジェラス」は「晩鐘」ともいわれ、やはり労働の神聖と、勤労への感謝という気分にあふれた作品である。二人の若い農民夫婦が一日の労働を終わって、夕べを告げるアンジェラスの鐘に黙祷をささげている図で、典型的なキリスト教的テーマのものである。画面は単純で、色も茶褐色や黒ずんだ赤だけである。残照の空と、地平線がくっきりしていて、二人の頭部を浮かびあがらせている。
ミレーの初期の代表作の一つ「箕をふるう男」は、一八四八年の二月革命でサロンが民主化され、自由出品制(アンデパンダン)になったとき出されたもので、共和政府はこの力作に対して多額の賞金を与えた。それまでのミレーは裸体画を描いて、やっと糊口を過ごしたりしていたが、四八年の共和革命に勇気づけられて、勤労人民をテーマとした画を描いたのである。
●バルビゾン派
そしてこの方向は彼の生涯を農民画家として決定し、一八四九年以来、パリ近郊の寒村バルビゾンに永住することになった。ここには、テオドール・ルソーらも住みついてえがき、コロー、ドーミエもときどきやって来た。美術史上で彼らは「バルビゾン派」と呼ばれている。農民画のミレーと、風景画のルソーはその中心であった。
バルビゾンでミレーの描いた「羊飼い」や「薪を割る男」や「水を飲む女」などは、いずれも勤労農民の日常をいきいきと把えている。しかしカトリックによる根深いフランスの農民性は、自然や社会に対する反逆でなく、むしろそれらに対し柔順に適応していくといったタイプをつくっていた。ミレーもまた、その立場に共感を寄せ、感傷性をもって農民生活を表現している。その点は、さらに社会主義的で行動派のクールベなどと違う点であった。前回見たようにクールベはプルードンに心酔していたが、ミレーはプルードンに批判的であった。すなわちミレーに言わしむれば、プルードンは芸術をデモクラティックな先導者の見地から見ているが、芸術に対する本質的な認識をもっていないように思われたのである。
●どん底生活
ジャン・フランソワ・ミレーは、一八一四年、ノルマンディの小寒村に生まれた。家は善良で貧しい農家で、宗教を大変重んずる家柄であった。兄弟は八人で、ミレーは二番目だった。
四、五才頃から画に特別の才能を示した。一八才ごろまでは村にいて、モデルや先生なしでデッサンなど描いた。やがて近くの町へ出て、画の先生についたが、先生は彼の画才を認め、市会にそのパリ遊学を推薦し、こうして一八三七年、彼は初めてパリの土を踏んだ。
しかし、彼はこの喧騒の都会を嫌って、何度も帰省しようとした。彼をパリに引き止めたのは、ルーヴル美術館で古典芸術に接し、そこから無限の教訓を汲みとる喜びのおかげであった。
一八四一年に最初の妻と恋愛結婚したが、四年後に彼女は亡くなった。やがて第二の妻タテリンヌを迎え、一生をともにする。
一八四○年のサロンに初入選したが、三○年代のミレーは貧困のうえ、子だくさんのどん底生活だった。彼は涙をのんで産婆の看板の聖母子像や、売るためのエロティックな裸体画などを描いた。しかし、先述したように一八四八年の革命政府の成立で、何がしかの金にありついたのである。しかし革命はさらに混乱し、彼は動乱のパリを離れる決心をした。
一八四九年から、彼が息をひきとった七五年までの二七年間を、彼はバルビゾンに暮らし、幽玄な森や地平線、土くさい農夫たち、羊飼いや羊群の中に暮らした。彼はふたたび農夫に立ちかえった。生活は依然として苦難がつづいた。しかし「種まく人」はじめ不屈の創作活動が、その中で展開されていった。
●パリ・コンミューン
この間、彼の晩年に一八七一年のパリ・コンミューンが勃発し、前回見たように臨時政府の美術委員長にクールベがなった。ミレーもその委員の一人に推されたが、彼は一般の破壊的な社会主義といっしょになることを拒んだ。このときナポレオンの記念塔が倒されて、クールベはその責任を負わされることになったが、ミレーは、そういう渦中の人になるのを好まなかった。そしてこれはミレーの「社会主義」の限界でもあろう。
彼はこのとき、バルビゾンがドイツ軍に侵入されるかもしれぬというので、シェルブールに疎開した。そこで、コンミューン政府の美術家連盟の幹部に推薦されたことを新聞のニュースで知り、すぐに取り消しの抗議文を出した。
「本月二三日、日曜発行の貴紙に、小生がパリ芸術家連盟と呼ぶ芸術団体の一員となりしよしを掲げていますが、自分はこの名誉を謝絶します。もし貴紙にこの手紙を掲載され、そして自分の最上の感謝と伝言を許容くださらば有り難く思います」。
●老い
ミレーは晩年になると、その作品がアメリカなどにも売れて、新しい注文も受けるといった状態であった。
「春」は、ミレーの最後の傑作で、そこには象徴的といってもいい美しい自然が、大きな舞台装置のように展開されている。林檎の花が咲きほころび、大きい虹も出ている。しかし、樹の下の小さい点景人物を除いては、働く農民の姿がすっかり見えない。やはりミレーは老い、コンミューンにも驚愕する画家となり、やがて肺患をえて、一八七五年一月二○日、バルビゾンのアトリエで、その生涯を終わった。
(次回は帝政ロシアの人民派画家レーピン)
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「密室の人権侵害」シンポジウムに参加して
――拘禁施設における外国人の処遇を考える
去る7月14日入管問題調査会主催による「密室の人権侵害」のシンポジウムが開かれ、首都圏以外からも100名以上参加が見られた。実際に入管施設内での暴行事件や拘禁施設で外国人処遇の弁護を依頼、又引き受けている弁護士の方々から事件の経過や問題点について報告がなされたあと、監獄人権センターの海渡弁護士、大阪RINKの丹羽弁護士、行政法専門の中村教授や刑事法専門の佐々木教授による拘禁施設内で何故外国人の人権が守れないのかについて白熱したパネルディスカッション行われた。そして廃止された横浜入管収容所の廃墟に潜入した貴重なビデオが上映された。公開されにくい入管施設での表面化されにくい人権侵害を生み出すその劣悪な環境が、壁にびっしり書き込まれた何カ国もの外国語や、24時間戒具を付けられたまま放置されたり、懲罰房的使用される等密室の人権侵害の温床というべきスペシャルルームと呼ばれるわずか3畳ほどの隔離室、週1から2回のわずか5分ほどしあできない入浴や異文化を無視した粗末な食事、寿司づめ状態での収容などビデオを通して写し出されていた。
入管施設内での具体的な暴行事件として報告した弁護士によると、全件収容主義をとっているため本来ならパスポート所持の確認しなければならないのに、チェックもなしに強制摘発がまかりとおっている。1994年東京入国管理局第二庁舎で中国人女性が取り調べの過程で警備官より殴る蹴るの暴行を受けた事件で、目撃者も多数おり事件が発覚した。地裁に国家賠償請求を出すも、しかし入管側はその女性を強制送還してしまい、事件の責任をその警備員個人の責任に押しつけしまった。その後その警備官は自殺し、最終的に100万円の支払いで和解となった。入管体制は厚いベールで閉ざされており、暴行や人権侵害があっても見えないし、通訳を活用する体制が不備なため訴える術を知らない等問題が表面化しずらい体制となっている。又戒具の使用基準が不明確で、拘禁施設においても看守の裁量権が拡大していく一方で、日本語の強制、面会できる回数・人数・時間は所長の裁量権のため拘置所によって異なっているのが実態である。
パネルディスカッションでは海渡弁護士より何故被拘禁者である外国人に人権侵害が集中するのかといえば1つは処遇への不服等権利主張したことが発端となるケースが多い。又コミュニケーションが難しいため規則違反につながる。又看守の人種差別意識によるものや、受刑者の場合ひどい人権侵害をされたとき頼るべき家族なりがいないためなす術もなく明るみに出にくく、通信も検閲があるため時間がかかってしまう。日弁連に届くまで3週間かかったケースもある。そして外国人の場合2分の1の刑期で仮釈放されることがあるため、人権侵害を訴える訴訟を起こせば倍の刑期となるのを恐れてしまうという精神的葛藤があるという。日本と外国との違いを痛感するのは外部からの拘禁施設等に対する制度として監視機関がないことである。英国では弁護士による刑務所査察官、名士による訪問者委員会、不服申立てが警務官抜きでできる刑務所オンブズマン等があり、外部から運営や処遇のあり方を監視する制度ができているという。
丹羽弁護士からそもそも差別制度としている入管体制は、日本の血統主義を正当化するため外国人特に在日、アジア人への差別意識は助長されており、徹底した排除がなされている。その基点となるのは国籍法であり、差別意識と国際政治的状況に裏付けされてる労働者の統制管理が強化されている。
最近の法務省の動きについては劣悪な処遇がマスコミ報道されるなかで、法務省は入管施設は処遇の場であることを自覚することを提議し、処遇環境の安定を図る“適正”をキーワードとした。保安=規律秩序の維持を重視し、その担い手である職員の処遇技術の向上を強調している。保安課職員が廃止され強制処遇官となり施設内の教育・管理の推進を役目としている。これは恣意的運用が増えたり裁量権の拡大する恐れが多分に出てくる。規律秩序を守ることが自己目的化していることに多いに問題がある。又支援活動をしている上で問題なのはその外国人が受刑者である場合支援活動が広がらないことである。外国人犯罪の増加や不良外国人の存在を警察はアピールしているが、犯罪データが本当に正しいかどうか、地域環境の悪化のの証拠を集めていき検証していくことが今後の任務となる。処遇より摘発に追われることで終始している現状であるとの教授より話があった。
今回参加して拘禁者の問題と入管施設における外国人の問題とどちらも問題が表面化されにくことなど根っこの部分は同じであることがわかった。違いを認めることの意識・行動をどうつくっていくかが今後の重要な課題であり、人権侵害がまかりとおっている入管体制に今後とも関心を寄せ、主催である入管問題調査会の活動を支援していきたい。
(T)
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メディアは女性差別を温存している!
私たちの住む西宮市に、ようやく女性センター設立の計画が持ち上がっています。そこで、設立に向けての事前の学習会が、ある女性グループによって開催されました。なかなか面白い情報があったので、皆さんに少し紹介します。
4時間8分…この数字は一体なんでしょう。なんと、1日平均して個人が見ているテレビの時間なのです。世帯別にすると、個人の約2倍もの時間テレビ清けになってしまっているのです。
「日常の中の性差別を撃つ!」という勇ましいテーマですが、メディアの問題を身近に考えさせられました。例えば、私たちが何気なく見ているテレビですが、ニュース番組さえも構成されたものであること。そして、企業の広告費がメディアを大きく支えていること。その広告費ですが、1994年で5兆1682億円、これは国内総生産の約1%にあたるそうです。1日平均45分間のコマーシャルを見せられてしまっている私たち。具体的に、20本のコマーシャルを参加者で検証してみました。
まずは、性別役割分業の「男は仕事・女は家庭」はもちろん、仕事の配置も男は管理職、女は事務員で補助的な存在。性的な面では、女性に水着・裸に近い格好をさせ「女は見られる存在・男は見る存在」が当然とする。そして、子供への強制では「男の子は腕白・女の子は主婦予備軍」。
この学習会には兵庫県立女性センターで嘱託の身分で働くOさんが、報告者として来てくれました。彼女は北京女性会議にも参加し、採択された行動綱領を実行に移し行動を始めています。メディアこそが、ジェンダー(社会的、文化的に作られた性役割)を温存しているのです。私たちは、かなり意識して、テレビに取りこまれないようにしなければなりません。テレビは最小限に留めておくのが健康にも人間形成にも良いようです。
(兵庫 折口恵子)
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移住(外国人)労働者問題全国フォーラムに参加してC
――「受け入れ」と「閉め出し」の狭間で 前進する全国の闘い
移住労働者の多くは、在留期限が切れると同時に、様々な無権利状態に陥る。その最も深刻な問題が、怪我をしたり病気になった時に、健康保険に入っていないため、高い医療費を払えず、治療が出来ない状態である。しかし、こうした医療問題についても、ここ数年、全国各地で様々な闘いが行われた結果、いくつかの制度改善を勝ち取るに至っている。
フォーラム第2日目の「医療問題を考える」分科会では、「在留資格がなく健康保険の無い人」の問題を中心に議論が行われ、これまでの闘いの成果と今後の課題について、熱心な論議が行われた。
1、厚生省「在留資格がなくても社会保険に入れる」と姿勢転換
分科会では、最初に、神奈川で移住労働者の医療問題に取り組んでいる横浜・港町診療所のH氏と、横浜市職員のO氏から、医療をめぐる「制度」の動向と最近の神奈川での取り組みについて、報告が行われた。
それによると、制度面としては、ずっと以前は医療費を払えない人について、自治体は「生活保護」を適用していたが、91年にその運用基準が移住労働者に対して厳しくなり、その結果患者たらい回しや医療機関の未収金問題が発生した。
この対応にせまられた自治体当局は、人道上の対策として、「行旅病人法」という明治時代にできた「行き倒れ救済」の法律を適用し、緊急入院の医療費を自治体が負担するとか、群馬県等のように「未払い医療費の補填事業」による医療機関の救済が行われた。
こうして、在留資格の切れた移住労働者の医療が社会問題になる中で、95年5月、厚生省の「外国人労働者の医療に関する懇談会」は「常用労働者(2ヵ月以上雇用され、通常の4分の3以上の労働時間)については、在留資格が無くても加入させてよいのではないか。」との新たな見解を打ち出した。
また、昨年7月「結核予防法」と「精神保健福祉法」が改正されたことが有利にはたらき、健康保険のない患者の、結核や精神疾患に関わる医療費負担の一部が軽減されることになった。
さらに、以前から「出産」(入院助産)については、児童福祉法の適用で公費負担が行われてきたが、95年の答申で厚生省は、「養育医療」(未熟児の医療)や「育成医療」(先天性障害児の障害を除去する医療で、口唇口蓋裂の治療や、先天性心疾患の手術等がある)、「更生医療」(18才以上の障害者の医療、特に最近は人工透析との関係で重視されている)についても、「公費負担の適用は自治体の判断でできる」との見解を明確に示した。こうした厚生省の姿勢転換は、全国の支援団体の闘いの成果である。
2、神奈川県・横浜市で交渉
この厚生省見解を受けて、神奈川県と横浜市では、さっそく交渉を行った。
その中で自治体当局に対して、生活保護、国民健康保険の移住労働者への適用については、厚生省に引き続き働きかけるよう要求し、行旅病人法の適用についても、柔軟に対応するよう要求した。また入院助産、養育医療、育成医療、更生医療については「国の考え方にそってやる。」との回答を引き出した。
このように、神奈川県や横浜市では前進がはかられたが、取り組みの無い自治体では、何ら改善が行われていないなど、自治体間で格差があるので、全国各地で対自治体交渉に取り組む必要がある。
3、支援の広がりと今後の課題
支援の体制については、
当初は支援団体のサポートから始まり、MSW(メディカル・ソーシャル・ワーカー)が活躍するようになり、さらに神奈川や東京等で医療機関の側から互助会(移住労働者の自主的な医療面での共済組織)が生まれた。通訳体制をどうするかという問題もある。というのは、単に語学的な面に留まらず、医療や福祉の制度の知識を要求されるからである。またHIVの問題では、日本国内と本国との格差があり、本国に帰っても薬が無い中で、日本でどこまで治療するのか、本国でゆるやかに死を迎えるのか、といった深刻な問題がある。さらに移住労働者が定住化するにしたがって、フィリピン・コミュニティー等の自助組織や、結核検診等の「健康作り」が今後の課題となってきている。
4、厳しい状況に抗して闘う各地の仲間
参加者の討論では、各地でそれぞれ困難な課題に直面している状況が報告された。
川崎市でラテンアメリカ人の支援運動をしているという人は、「ブラジル人労働者に精神科にかかる人が増えてきたが、精神科医との間で言語や習慣の違いが障害になっている。」と訴えた。
●兵庫県の教会に働いている人は、「ペルー人の子供がひきつけを起こし、聖マリア病院を紹介したが、その病院は自費診療の医療費が高く、そのためペルー人も病院にかかることを断らざるをえないなど、困っている。」と、厳しい体験談を語った。・横浜市の寄せ場等で、移住労働者の医療に取り組んでいる人からは、「どうしようもなくなってから受診する人が多い。子供が生まれた後の保障をどうするか問題。」と深刻な実情が述べられた。
●東京都で移住労働者の相談活動に取り組んでいる人からは、「在留資格の切れた中国人の子供の口唇口蓋裂の治療で東京都と交渉したが、ビザと健康保険がないとだめと言われた。」と、都の冷たい対応を告発した。
これらの報告から、移住労働者の直面する医療の問題が、いかに深刻かがわかる。
5、自治体交渉とネットワーク作りが課題
以上の分科会論議を総括して、今後の課題についてまとめがあった。
第1に、95年の厚生省見解(●社会保険は在留資格の有無を問わず加入できる。●結核・精神医療は法改正後も保険の無い人への公費負担を行う。●未熟児や障害児への公費による医療は自治体の判断に任せる)を確実に実行させることが必要である。
第2に、そのためには、自治体間で対応の仕方にバラツキがあるので、各自治体への交渉を行うことが必要。
第3に、医療の問題は複雑な制度の知識を要求され、ひとつの支援団体では解決できないので、各県ごとにネットワークを作り、その中にはMSWや、保健婦、助産婦等の専門家、自治体職員、自治労等の労働団体や、労災関係者等を入れて、対応能力を確立する必要がある。
この分科会に参加して感じたことは、移住労働者問題全体から見れば、一面にすぎない医療ひとつとっても、ひとりでは(あるいは1グループでは)なしうる事は小さく、それだけに横のネットワーク作りが、いかに大切であるかということである。
(続く)
(外国人労働者問題を考える医療従事者の会・福岡 M)
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地声人歌
大き骨は先生ならむそのそばに
小さきあたまの骨あつまれり
正田 篠枝
一九四七年、占領軍政下の広島で秘密出版された歌集『さんげ』より。作者自身被爆した人で、それがもとで六五年に死にました。五四才でした。そのヒロシマにWorkersは、毎年八月六日、ビラまきに出かけます。平和祈念式典に参加する人々に、一層広範で一層根本的な闘いを呼びかけるため。読者の皆さんで「よしッ、今年は私も」という方、おられませんか。ぜひ一緒に行きましょう。ご連絡を。
(小川紀)
あの歌 この歌 『ジンターナショナル』 歌/大工哲弘
つい先日のこと、レコード屋でこのCDを見つけました。以前、本紙でソウルフラワー・モノノケサミットの『アジール・チンドン』というCDを紹介したことがありましたが、彼らが大きな影響を受け、あのCDを出すことにもつながったのが今回紹介の大工哲弘さんであり、彼の前作、『ウチナー・ジンタ』というCDアルバムだったそうです。で、そのレコード屋では「このCDを売らなきゃCD屋じゃないとモノノケサミットの中川さんに言われたので売ります」というようなコメントが棚に貼ってありました。
大工さんは沖縄の八重山民謡の歌手で、那覇市役所の職員でもあります。『オキナワン・ミュージック・ガイド』という解説本を開いてみると、「ロックン・ローラーのような民謡歌手。とにかくカッコよい人だ」「たとえば、ブルース・スプリングスティーンが、実はフィラデルフィアの役場の職員をやってるって感じ」と書いてありました。
その人のCDの最新作がこの『ジンターナショナル』。「ん? 『インターナショナル』と違うんか?」とお思いでしょ。でも、書きまちがいじゃありません、『ジンターナショナル』なんです。もっとも、お察しのとおり「インターナショナル」が曲目に入ってるんですが。ただし、ジンタつまりチンドン音楽をバックにして。「ジンタ」プラス「インターナショナル」、だから『ジンターナショナル』というわけなんです。この人に『アジール・チンドン』のモノノケサミットが影響を受けたというのもわかるでしょ。このCDでも最初と最後にあのサーカスの、あのチンドン音楽の定番の「美しき天然」が歌われて
います。
さて、「インターナショナル」は、今ではすっかり忘れられてしまった歌かもしれません。でも、人類が資本の支配や国家や民族といった枠を乗り越えることができない限り、この歌はそれらと闘う人々の中にその闘いとともに何度もよみがえってくるのだと思います。それも新しい形で。
「新しい形」と書いたのはわけがあります。昔、集会でよく「インターナショナル」を歌いましたけど、あのままでよみがえるというのはないんじゃないかと思うから。だって、重くて暗い。「インターナショナル」の原詞は1871年にフランスの労働者詩人ユジェーヌ・ポチエが作り、それに1888年、やはりフランスの木材労働者でアマチュア作曲家だったピエール・ドジェイテールが作曲したものですが、フランスで歌われたときからあんな歌い方をしてたんでしょうか? それに歌詞も古い。現在の日本語の歌詞も70年以上前に作られたものです。新しい歌詞が必要なのではないでしょうか。
実は、いつかWorkers主催のライブの中のひとコマに「『インターナショナル』考」といったコーナーを設けて誰か歌ってくれないか、なんてことを夢想しています。例えばシャンソン風、フォーク風と形式を変えて「インター」を歌う、それも原詞、現在の訳詞、新しく作った歌詞をつけてといったように。ホントに誰かやってくれる人はないでしょうか?
というようなことを考えていたので、このCDで大工さんが「インターナショナル」をジンタ仕立てで歌っているのを聴いて、すごくショックを受けました。現代によみがえった「インターナショナル」の歌。ぜひ、お聴きになってみてください。
このCD紹介としてはかなり一面的なものになってしまいました。CDのコピーには「過去としての未来の歌」とあって「待望のウチナー・ジンタ第2弾! 阪神大震災、沖縄米軍基地問題、新宿ホームレス強制排除、暗い世相に真っ向から挑む大工の陽性を見よ。いま時代をシャッフルする大工を聴け」と書かれています。やはりモノノケサミットが取り上げていた「復興節」も含め全15曲。その豊かな内容にふれてみてください。自主制作盤のCDを置いている店にはあると思います。お近くにない場合は、オフ・ノート(電話03・5660・6498)にお問い合わせください。
(椎原一夫)
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フォークなんて古い?B 中川五郎
ベトナム戦争の中で
一九六五年。高校(大阪府立寝屋川高校)一年の頃から自分で歌をつくり始めたけれど、最初の作品はやはり、視点が定まっていず、とらえ方も甘かった。それにアメリカン・フォークソングの模倣が多く、あるテーマについて曲をつくっていても、そのテーマを十分消化できず、テーマ自体と、そのテーマについての歌をつくった自分との関係、また自分の立場というものもしっかりしていなかった。
例えば、僕が高校一年生のときの作品で、「あの閃光が忘れられようか」というのがある。これはヒロシマの原爆について書いたものだが、責任追及というものができなかったと思う。
また同じ頃の作品で「乙女の顔」というのがある。これは部落差別によって死に追いやられた福本まり子さんの遺著『悲濤』を読んでつくったものだが、これもやっぱり前の「あの閃光が忘れられようか」と同じく、肝心なところを逃げていたようだ。
小川にそって乙女が歩いてる
目には涙をいっぱいためて
どんな悲しいことがあったのか
あれほど泣くのはどうしてだ
乙女の背には夕陽の影が
小川を渡って乙女が歩いてる
心には怒りをいっぱいためて
どんなつらいことがあったのか
あれほど暗いのはどうしてだ
乙女の背には冷たい風が
小川をこえて乙女が歩いてる
希望を絶たれたその姿
どんないやなことがあったのか
あれほど怒るのはどうしてだ
乙女の耳には差別の声が
湖向かって乙女が歩いてる
「わたしは結婚できないつらさ」
こんなことがまだ残っているのか
差別が今でもあるのか
乙女の顔には死の影が
また、自分で詞や曲をつくるのと同時に、アメリカのフォークソングの訳詞もはじめた。レコードについている歌詞がもっぱらのテキストだった。
また、アメリカに『ブロードサイド』という月刊音楽新聞があって、それに載った歌を集めた歌集を手に入れ、その中の曲をかたっぱしから訳し始めた。「バスのうしろにいなければ」「学校で何を習ったの」「プレイボーイ・プレイガール」「カッコはよくないけれど」「戦争の親玉」など現在、関西でよく歌われている歌が載っていて、レコードを聞きつつ、訳してひとり歌っていた。
そして一九六七年三月、ベトナム反戦講演会を聴きに行った僕は、偶然そこへゲストで来ていた高石友也の歌を聞くことができた。そのとき彼は「風に吹かれて」「学校で何を習ったの」「戦争の親玉」「死んだ女の子」等を歌い、僕はそれらの歌を聞いて感激するやら、びっくりするやらで、彼が歌い終わると早速話をしに行った。
僕は彼の歌を聞いているとき、体のふるえが止まらなかった。これは彼の素晴らしい歌によるのだが、自分がやりたかったことをやっている、自分が訳してひとり歌っていたものと同じ歌をうたっている。つまり「同じようなことをしているな!」という嬉しさと、少しの羨望の混じった感情も作用したようだ。
その日、僕は高石友也におどおどと話しかけ、フォークソングについて、反戦運動について話し、「僕も歌をつくって歌っている」と言うと、こんどYMCAで小さなフォークの会があるから、歌いにおいでと彼は言ってくれた。
講演会から二週間後、YMCAの会で、僕は「乙女の顔」と、『ブロードサイド』の中から訳したフィル・オクスの「メドガー・エバースのバラード」を歌い(メドガー・エバースはアメリカの人種差別撤廃運動で活躍したが、一九六三年六月一二日暗殺された。このメドガー・エバースが幼時に友だちがリンチで惨殺されるのを目撃して後、成人して人種問題の闘士となり、自分もまたテロリストの凶弾にたおれるまでを生き生きと綴り、「あまりにも無駄な死が、無駄なことばが、無駄な時が多すぎはしないか。もう二度と繰り返してはならない」と歌った歌)、それから高石友也に連れられていろんな会で歌った。大学のオリエンテーション、ラジオ番組の公開録音、大阪労音フォークソング愛好会、高石友也の第一回リサイタル、教会での反戦フォーク集会、高校のフォーク集会、ベ平連の集会等々で、この一九六七年の三月から七月頃によく歌っていた歌は、「乙女の顔」「メドガー・エバースのバラード」「もう戦争には行かない」「自由についてのうた」などだった。
その年の七月二九日、三○日、京都での第一回フォーク・キャンプに参加した。この頃は「いつのまにか」「前進」「受験生のブルース」「Aちゃんのバラッド」といった曲をよく歌った。
そして一○月、アメリカで「フォークの神様」とまでいわれているピート・シーガーの来日公演があり、それを聞きに行って、僕はあらためてある確信をもった。
(つづく)
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