- 戦争も搾取もない社会をめざそう
天皇、731部隊、慰安婦、沖縄等々、戦争責任、戦後責任は残されたままだ
――腐敗した官僚や資本と闘おう!
天皇の戦争責任
八月十五日が近ずくと戦争の悲惨さをテーマにした記録映画や戦争体験者へのインタビュー等の報道がマスコミから毎年流されます。こうした報道に対して一定の意義は認めるにしても何かしっくりこないものがあります。何故なら戦争の悲惨さだけでは戦争の重要な部分を語ったことにはならないからです。
マスコミが取り上げない戦争の重要な部分の一つに昭和天皇の戦争責任があります。これには歴史学者達も口をつぐんだままです。天皇の名で行われた戦争であるにもかかわらず戦勝国が敗戦国を裁く極東裁判では天皇は戦犯による死刑を免れたばかりか、象徴天皇になることによって天皇家=皇族は地位と財産を憲法でもって保証されるに至ったのです。
天皇の戦争責任を曖昧にしたことが結局は日本の戦争責任を曖昧にする結果となっています。毎度おなじみの閣僚の問題発言(日本はアジアのために戦争したのであり、アジアを侵略したのではない等)とそれに対する韓国、中国の反発、日本の謝罪と閣僚の更迭、更には今だ解決しない従軍慰安婦等アジアの人々に対する謝罪と補償の問題は戦争責任を曖昧にし続けた結果であるといえます。
七三一部隊とネズミ
天皇が赦免されたのはGHQ(占領軍総司令部)の占領政策によるものですが、天皇と同様に赦免されたのが七三一部隊です。七三一部隊は三千人といわれる中国人の捕虜を細菌兵器の研究のためと称して人体実験を行い殺害しています。GHQは細菌兵器のデーターと引換に彼らを赦免していますがその中の一人は薬害エイズを引き起こしたミドリ十字の会長におさまっていました。戦後五〇を経過していますが戦争責任についてはまだまだ闇の部分が多く、曖昧にされたままです。
七三一部隊はネズミにペストを感染させ、そのネズミの血を吸わせたノミを細菌兵器のために増殖していました。ペストに感染させるネズミは埼玉県の庄和町の農家で飼育され、はるばる中国まで送られていたことが最近明らかになりました。
明らかにしたのは埼玉県立庄和高校地歴部の部員五名で八月一日の朝日新聞は「庄和高校のある埼玉県東部は、古くから実験用ネズミの産地だった。部員たちは郷土の戦後史を調べるうちに、文献などから、七三一部隊で使われた白ネズミを地元の農家が飼育していたらしいことを知った」と紹介しています。千件を越える聞き取り調査や名乗りもしない葉書での脅迫にも屈しず調査したとのことですが、戦争責任が曖昧にされる中で十代の人たちの事実の積み重ねにより歴史を紐解こうとする姿勢をみるとほっとする思いがします。
通用しない大儀名分
戦後五〇年、半世紀の間取り残された問題は戦争責任の問題や従軍慰安婦の人々への謝罪と補償の問題だけではありません。沖縄の基地問題も又取り残された問題です。
基地の縮小、廃止ではなく機能を維持したままでの本土への移転が提案されていますが受け入れ側の自治体は全て反対しています。多くの人が犠牲になり、泣き寝入りするような施策は国の政策ではありません。
昨年九月四日の米兵による少女暴行事件を契機とした県民の基地撤去運動とそれに続く太田知事の代理署名拒否の闘いは犠牲の上にしか成り立たない国の政策の矛盾を鋭く浮き彫りにしました。九月八日に基地問題についての沖縄県民の意思を問う住民投票が実施されますが、新潟県巻町での住民投票で原発反対の意思が大差で示されたように、国の政策という大儀名分は通用しない時代にきたといえます。
大きな声を!
国の政策とは腐敗した官僚と官僚と結びつき甘い汁を吸い続けようとする腐敗資本によって作られていくものだということを私たちは薬害エイズや住専問題で十二分に知っています。ですから国の政策という大儀名分には何の説得力もありません。腐敗官僚、腐敗資本を解体していかなければ一部の人の利益のために多くの人々が犠牲になることがいつまでも続きます。犠牲になってきた人が大きな声を上げるとき日本の現実が変わるときだといえます。
(伊藤俊康)
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失業や生活苦による自殺が急増
――労働者を死に追いやるリストラ
背景に不況とリストラ
最近のテレビで、さる高名な民間エコノミストが次のように言っていました。「昔の恐慌ではたくさんの自殺者が出た。ニューヨークの証券街ではビルからの投身自殺が名物になった。しかし今はそんな話は聞かない。リストラだ失業だと言ってもたいしたことはないのだよ」。
しかしこれが現実を見ない議論、現実を意図的に覆い隠そうとするイデオロギー的な主張でしかないことは、私たち労働者には明らかです。彼が言うのとは全く正反対に、実際には激しいリストラ攻撃に合い、解雇や生活破壊などに苦しめられ、自ら死を選ばざるを得なくさせられている労働者は増え続けているのです。
7月30日に警察庁が明らかにしたデータを見ますと、失業や倒産、生活苦などを理由にした自殺者は昨年一年間で2千793人を数え、前年に比べ375人(15・5%)も増加しています。中でも50、60代の増加が著しく、60歳以上が498人で前年より4割増、91年と比べると2・3倍、50代は988人で前年より13・8%贈、91年の1・9倍です。ちなみに、昨年一年間の自殺者の総数は2万2千445人ですから、失業や倒産や生活苦による自殺者が一割以上を占めていることになります。
データはまた、「経済・生活問題」を理由とする自殺は84年に1千11人のピークをつけた後は徐々に減少、しかしバブルの崩壊と深刻な不況への突入の時期に重なる91年を境に再び増勢に転じ、昨年またピーク時と同水準に達したことも明らかにしています。
鉄道自殺多発でダイヤも組めず
ちょうど昨年の10月頃、首都圏で鉄道自殺が相次ぎました。手元にある新聞の切り抜きは次のように書いています。
「JR東日本によると、今年四月以降の半年間に中央線で電車にはねられて死亡した人は二十五人。このうち十七人が自殺と見られている。昨年度の同時期の自殺者四人の四・三倍にもなる。今月に入ってからも中央線の死亡事故は続発しており、…十二日には夕方から夜にかけ、わずか三時間半のうちに、立て続けに三件発生した」
「首都圏の…この半年間の自殺者は、常磐線が六人、山手線五人、総武線四人…。…私鉄の京王線は八人。東京の営団地下鉄も十二人(八路線の合計)…」
同じ頃、テレビは、中央線の駅長たちが一堂に会して神社だかお寺だかにお参りをしている姿を映し出し、「鉄道自殺者が多くて運行が乱れ、ほとんどダイヤも組めない状態だ」との駅長たちのコメントを紹介していました。
数字は氷山の一角
しかし私たちは、こうした自殺者の数字は実態を正確に反映したものではないこと、実際には更に多くの人々が失業や生活の困難を苦に自ら死を選ばざるを得なくされていることを知っています。
この鉄道自殺多発とやはり同じ頃、筆者が掃除夫として勤めていた大手企業の本社ビルでも社員の自殺事件がありました。この企業もご多分に漏れず激しいリストラが吹き荒れている最中で、私が勤めていた1年ちかくの間に数十人が職場を去りました。リストラは、窓ガラスが割られたり壁に拳骨大の穴があけれらたりといった殺伐とした状態をビル内につくり出していましたが、人が窓枠を乗り越えようとした痕跡が2度ほど見つかった何日か後に、事件が起こったのでした。しかしビルの管理人の話によると、この自殺は「家庭問題の悩み」として処理されたということであり、私が勤めはじめる前に起きた未遂事件にいたっては他の社員には事件があったことすら知らされていないというのです。
こうしたやり方で闇に葬られ隠されてしまった労働者の自殺者は、本当はもっとたくさんいるに違いないのです。
労働者の闘いが求められている
失業や生活苦の中で多くの労働者が自ら死を選ばざるを得なくされていることは、労働組合指導部の階級協調主義や闘争の放棄にも大きな責任があります。何万人何十万人という労働者が資本からのいやがらせや激しい肩たたきや解雇の宣告にさらされているにもかかわらず、労組指導部は真剣な闘いを組織しようとはしてきませんでした。多くの労働者は、個人ではおよそ解決できない問題をにもかかわらず個人的に解決するしかない状況に追いやられているのです。
労組指導部に闘う意思がないなら労働者自身の自主的な闘いを開始するしかありません。人べらしや解雇の攻撃にさらされている労働者とその仲間は、まず自らの決意と努力で反撃を開始し、周囲の労働者にその闘いの意義と支援を訴えて活路を切り開いていく必要があります。自身や仲間にかけられた人べらしや解雇の攻撃を許さず、勇気を持って闘いを開始しよう。
(阿部治正)
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- 労災死が2年連続増
労働省が発表した九五年 度の労働災害による死亡者数は、二千三百四十八人でした。
これは、昨年度より四十七人も増えて二年連続増という悪い結果です。数字的には少ないとはいえ、交通事故の年間死亡者数が問題となる事はあっても、この労災死亡者の数が問題となりマスコミが騒いだということは知りません。なんと、労働者の命の軽いことか。
休業四日以上の死傷災害者は、十六万七千三百十六人で、昨年度より約八千七百人の減となっていますが、一度に三人以上の被災した重大災害は二百二十八件で三年連続の増加となっています。休業なしは含まれていないこと、労災隠しの存在を考えると労働省発表の数は実態と離れた数字ではないかと疑います。
昨年の二大事件、阪神・淡路大地震と地下鉄サリン事件関係の労働災害認定状況も参照してください。
(折田)
- 安保拡大、基地固定化を鮮明に
危険な中国「脅威」論
7月19日、96年度版の防衛白書が閣議で了承されました。
今回の防衛白書の特徴は、伝えられるところによると二つあるように思います。ひとつは、日米安保の再定義にともなう日米の軍事協力のいっそうの強化や自衛隊の戦争参加への道、沖縄をはじめとする米軍基地の再編強化の方向を擁護していること。もうひとつは、前者と密接不可分ですが、中国への警戒感を強調していることです。
アメリカの攻防次官補(当時)ジョセフ・ナイらが一昨年来提唱し、昨年2月の「東アジア・太平洋安全保障報告」によって打ち出された日米安保再定義路線は、日米安保の対象地域を極東からアジア太平洋、それどころかインド洋やペルシャ湾などにまで拡大、また日本からの財政支援の拡大等とともに日本の自衛隊を共同軍事行動に引きづり出そうというものでした。そしてこの安保強化路線の理由として持ち出されたのは、米ソの冷戦は終わったものの、中国の軍拡や路線の不透明さ、北朝鮮の核開発や核不拡散体制の危機、世界各地での民族主義の台頭や領土紛争の勃発等々、「アメリカの利益への脅威」は去っていないというものでした。
この安保再定義は日本政府の側からも積極的に迎えられ、新防衛計画大綱、物品役務相互提供K協定となし崩しに進められ、そして日米首脳会談によってはなばなしく打ち上げられ、現在は自衛隊の共同軍事行動への参加をはかろうとする防衛協力指針の見直し等々として推し進められています。もちろん沖縄をはじめとする米軍基地は、普天間基地返還をはじめとする整理・縮小が唱えられたものの、実際には単なる基地移転、それどころか基地強化にさえつながりかねないものとなっています。
今回の防衛白書の狙いは、この新安保路線を積極的に肯定し、アピールしていくことにおかれているのです。
◆ ◆ ◆
とりわけ私たちは、防衛協力指針の見直しの推進状況、沖縄など基地禍に苦しむ住民への挑戦的な姿勢、そしてあからさまに唱えられはじめた中国「脅威」論に注目し、警戒していく必要があります。
安保再定義の目玉のひとつである防衛協力指針見直し作業は、安保の対象範囲を「日本有事」から「日本周辺有事」へと拡大しました。さらにこの「日本周辺有事」において米軍と自衛隊とが共同の軍事行動を行えるものへと大きく転換しようともしています。この方向がこのまま推し進められるならば、例えば朝鮮半島での戦争の勃発などに際し、日本の自衛隊が参戦する事態もあり得ない話ではありません。というよりむしろ、この転換は、こうした事態における自衛隊の参戦を可能とするためにこそ強行されたのです。アメリカやイギリスやフランスなどが行ってきたように、支配層の権益が脅かされる事態が起これば直ちに軍隊を投入しうる(もちろん単独にではなく米軍と共同してですが)体制を、日本の支配層もまた本気でつくりあげようとしているのです。
また白書は、沖縄の人々の基地撤去の声に対して、強制使用手続きが「迅速に行われ、速やかに裁決がなされる事が期待される」などと対決姿勢を見せています。基地禍に苦しむ人々の気持ちを一顧だにしないばかりか、むしろこれらの人々に向かって国家の意思の強固さを思い知らしめようと言わんばかりに、安保の意義や基地の意義を強調し、自治体や住民に基地を受け入れよと言い放っているのです。
もちろん軍事力が決定的な力を発揮するこのブルジョア的世界を前提にするならば、軍隊や基地の大きな縮小や廃絶を期待することは幻想です。この点では、冷戦体制が崩壊したのだから日米安保も基地も必要ないはずとの主張は、白書のブルジョア的現実主義に打ち破られています。
私たちは、反基地・反戦の運動をより根本的な闘い、日本と世界のブルジョア的体制の変革をめざす闘いと結びつけ、そこに向かって発展させていくために全力をあげなければなりません。
白書が中国の危険性を唱えるのも、一面ではこのブルジョア的現実主義の現れということはできるでしょう。日米の支配層は「中国を脅威とはとらえていない」「封じ込めではなく世界秩序の中に順応させていくことをめざしている」とも言います。しかし今後経済大国、軍事大国としていっそうの成長を遂げると予想される中国が、日米の支配層にとって大きなライバルであり脅威であることは明らかであり、彼らはこの事実を確認せざるを得ないのです。
もちろん白書の中国「脅威」論は支配層の宣伝の側面も強く持っており、むしろ直接にはそれが狙いであることは言うまでもありません。彼らはかつての米ソ冷戦時代に「ソ連の脅威」を叫びこれを「悪魔の帝国」とさえ呼んだように、強力な外敵がどうしても必要なのです。もちろん自らの軍備強化路線を合理化し、それに国民を巻き込んでいくためにです。
沖縄やアジア諸国の労働者と連帯して、反基地・反戦の闘い、軍事的おどしや戦争がものをいうブルジョア的世界の変革をめざす闘いを発展させていきましょう。
(阿部治正)
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- 宮城食糧費公開訴訟が勝利
情報公開を労働者の闘いのテコに
上げ潮の情報公開訴訟
去る7月29日、仙台地裁において「宮城食糧費公開訴訟」判決がありました。これは、宮城県財政課の食糧費支出に関する公文書の開示請求において、懇談会の出席者名や開催目的などを非開示とされた「仙台市民オンブズマン」が、情報公開条令違反として訴えていたものです。判決は「オンブズマンの主張が百パーセント認められた判決だ。オンブズマンの税金の使われ方に対する取り組みや世論の力に答えるものだ」(仙台市民オンブズマンの斎藤拓生弁護士)と言うように、情報公開の流れをさらに押し進めるものです。
判決内容を簡単に紹介すると「公務員については、役職や氏名は、公務の遂行者を特定し、責任の所在を明示するために表示されるにすぎず、プライバシーが問題になる余地はない。情報公開制度との関係では、県民としては、県政への理解を深めるため、担当者や相手の情報もできるだけ具体的に開示される必要がある」と明解です。
本紙前号では青島都知事を追いつめる「世田谷行革110番」の活動を紹介しましたが、市民オンブズマン運動等による情報公開の闘いは、大きな成果を勝ち取りつつあります。もちろん、行政が隠している情報を公開させること自体は目的とはなりえません。しかし、この闘いが官僚に打撃を与えているのは確かです。必要なことは、この闘いに正当な評価を与え、成果をいかしていくことです。
幕の内3000円
蛇足ながら、私が西宮市公文書公開条例を利用した経験についても、簡単に紹介します。公開されたのは昨年度の「監査事務局の食糧費支出負担行為伺書」ですが、部分公開ということで、支出先を示す住所、氏名、電話番号(ほとんどが市内の寿司屋さんや弁当屋さん)が塗りつぶされています。支出事由は監査委員の賄費、要するに弁当代のようです。単価は1200〜2000円というものですが、1件だけ3000円の幕の内というのがあります。結構いい値段です。
この件で私は平日の昼間に二度も行政資料室に足を運び、560円の支出(コピー1枚20円)をしました。最も監査事務局の方はわざわざ「公文書公開可否決定通知書」を2人で我が家に持ってきて、公開当日は3人も立ち会ったのだから、私よりしんどかったようです。しかしこれはずいぶん過剰反応です。情報公開を要求されたのは初めてだったのかもしれません。
今回実際にやってみて、大した情報を得ることはできませんでしたが、結構面白い取り組みだと思いました。本格的にやるとなると出費もかさみそうだし、墨塗りをやめさせるには裁判まで必要になるので厳しいかなと思いますが、少しずつでもやれば大当たりがあるかもしれません。読者の皆さんもぜひ一度経験してみてください。
(晴)
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- どこへ行く,北朝鮮
食糧不足、亡命、の魚民市場拡大と外貨導入
不安定な政治体制
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、いぜんとして国家主席が空白の状態が続いています。権力の世襲が決まっている金正日書記の就任が注目されていますが、金日成主席の死去から2年たっても見送られました。現代国家において、国家のトップがこれほど長時間空白状態にあることはないでしょう。
この最大の原因は低迷する経済状態にあり、人間が生きていく最低限の食べることができず、餓死者が出ていると言います。これが父親のようなカリスマ性もなく政治基盤の弱い金正日が権力の座に就けない理由です。
それではどうするか、もう体裁など気にしている余裕はありません。これまでの「宿敵」との関係改善交渉、国際社会への食料援助要請、「経済特区」の設置による経済改革の模索、一方で軍部を権力に取り込もうと画策(金正日の動向を伝える情報の多くが軍隊の訪問)するのに時間を費やしているようです。
話は少し逸れて、朝鮮の伝統で父母の服喪は2年だそうです。それゆえに、金正日書記の国家主席への就任が遅れても2年目が有力視されていました。それを1年延ばして、金正日書記は「先祖伝来の習慣の上に世界で初めて共産主義者の道徳義理感を創造」(金日成主席死去2周年の朝鮮労働党に贈る叙事詩)と言わなければならないところに北朝鮮の政治状況が反映されています。私たちからみて滑稽と思えても。
経済的な二つの動き
この苦しい状況を打開しょうとする変化が出てきています。一つは、食料品などを売る「露店」が出現したということです。これまでの「ヤミ市場」を別にして、私的な経済行為が認められるとなれば大きな変化と言えます。小さい新聞記事からは、小規模とはいえ自家製のクッキーや農産物などを、売上の十%を税金として国家に支払う形で営業しているようです。
7月に投資促進のため来日した金正宇対外経済協力推進委員長は、朝日新聞との会見で「露店」は農民市場の延長と答えています。その中で、「露店」と同じように共同農場でも生産目標の超過分を現物で受け取り自由に処分できる「分組管理制」を一部地域でモデル的に導入したとも語っています。
このような試みが、定着し拡大していくのか不透明です。単にこれまでの「ヤミ市場」を追認しただけにしても、膠着した経済の打開に当局が動きださなくてはどうしょうもないところまで追い詰められていると言えます。
もう一つは、以前から伝えられている「経済特区」についてです。中国とロシアに接する「羅津・先峰自由経済貿易地帯」に投資を促すため、7月東京、大阪、新潟、富山で説明会が行われました。また、月末には香港でも行われ、9月には現地で国際的な投資促進会議が行われる予定です。この説明会に来日した金正宇委員長は、金正日書記の側近であり北朝鮮当局は力を入れているようです。
しかし、国際会議には韓国の参加表明や日本からのツァー企画があるようですが香港や日本企業は慎重です。肝心のインフラ整備は始まったばかり、政治的な不安定、八百億円を超える対日債務問題の未解決、中国などより高い最低賃金、国際的な商業慣習への疑問などの否定面が多いからです。
低迷の打開なるか
韓国企業は、既に平壌などで稼働の工場もあり経済特区への投資も積極的と報じられていますが、他は慎重です。北朝鮮は、国内法規を整備して資本主義的な企業運営を認め国家は干渉しないなど、外資導入に最大限の歓迎を表明しています。経済特区の開設を中心に危機的経済の打開を図ろうとしているのですが。
この経済特区は政治的な面から見ても危惧があります。これまでの「鎖国」状態の中で、外部情報はクチコミで伝わっていると言われますが、当局は徹底した情報統制を行い、金日成讃美や労働党の既成情報しか流していません。そこに外国企業か進出すれば、情報の量と質は一変するでしょう、それまでの当局の情報の真偽が問われます。情報は、勤務する労働者は当然として、その周囲へ波及していくのは必然です。いくら当局が規制しても統制出来るものではありません。それに、製造した製品を国内でも販売出来ることになっており、当局が一方的な情報統制しても信頼性は無くなるだけでしょう。
北朝鮮当局は、この国内の危険性を考えながらも、経済打開のための外資導入をしなくてはならない苦しい立場にあります。その外資導入さえままならない状況ですが、昨年の水害(根本的には農業政策の失敗が大きい)に続き、今年も7月末に洪水が発生しています。詳しい状況は分かりませんが、朝鮮半島中部を襲った災害は韓国内でも多くの死傷者を出し、北朝鮮からと思われる死体や兵士が韓国側に流れ着いことを考えると大規模な災害と思われます。
昨年の災害による食料不足の解消もままならない中で、今回の災害は更に食料不足の深刻さを増すでしょう。洪水の発生前でさえ、韓国への亡命者が増えていました。これまでのエリート層から、美容師や労働者へと変化してきており、彼らは食料難と餓死者の発生、食料を巡る犯罪の多発を証言しています。
相対立する国家、それを取り巻くぞれの国家の利害関係、その中での輻輳する情報の真偽は判断しなくてはなりません。そのことを考えても現在の北朝鮮の経済は低迷、下降は止まっていません。食料難は、ますます厳しく労働者や農民、子供たち弱い立場の人達を襲い、犯罪の増加と当局の取締り(公開銃殺などの見せしめも)の強まりで社会的緊張、不安はたかまると思われます。
この結果がどうなるのかの予測は困難です。一部の週刊誌などでは、韓国や日本でも「難民対策」の準備がすでに行われているとも言われています。私は以前にも書いたように、今おこなうべきは緊急な食料や薬品の援助だと思います。軍隊や上層部に物資が渡る危険性から、慎重あるいは反対の声もあります。その危険性は承知しつつ、国際的な監視、赤十字社などを通すことなどで不正は少なくなります。支配階級がどう変わろうと、労働者人民の犠牲を見過ごしてはならないと考えるからです。
(折田)
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- ヘーゲル論 プレハーノフ 最終回
進化論との違い
読者の皆さん、ご記憶か。この連載の第一回で指摘し、そして「これは後で触れる」としたのであるが、弁証法の立場を進化論の立場と同じにみる考えがしばしば見受けられる。
確かに両者は共通点を多く持っている。が、同時に、その間には本質的な差異が存在するのである。
実際、進化論者自身、自己を革命論者と対立させている。すなわち、いつ、いかなる場合にも、自然においても歴史においても「飛躍」なんてものは起こらぬのだ、と。
一方、急進主義者は言う。「進化」なんて考えられるか、と。
これに対し弁証法は、すでに早くから、進化と革命との抽象的対立を乗り越えることを知っていた。すなわち弁証法は、飛躍というものが思想においても、自然においても、また歴史においても避けがたいものであることを知っている。とはいえそれは、刻一刻と不断に完了しつつある過程というものを認めまいとしているのではない。それはただ、「漸進的な変化」が必然的に一つの「飛躍」に導かれずにはいないという定めを明らかにしたのである。
乱用の排除?
しかし、進化論者にしてみれば、現存する社会組織が他のものに取って代わられねばならないものであり、それは革命によってのみ実現されるなどということは、ただただ恐ろしい話である。
彼らは「社会救済主」として登場する。彼らは、現存制度そのものは本来立派なものなのだ、だからこの制度の中に忍びこんでくる権力の乱用を排除することだけをこころがければよいのだと説教を垂れる。
こんな文句を聞かされると、われわれは、宗教改革に関するヘーゲルの次のような指摘を想起する。
「宗教改革は、教会の堕落から生じた。ところで教会の堕落というと、それは偶然に起こったことだとか、それは単なる権力や支配の乱用だったと考える人がいるが、これは違う。一般に堕落というとき、乱用という言葉がよく使われる。これは、土台は良いものであり、事柄そのものには何の欠陥もないが、人の激情や欲望や恣意がその良いものを利己的に使用したのが悪く、したがってこういう偶然の要素さえ遠ざければそれでよい、ということである。つまり、悪はその事柄にとっては単なる外面的なものに過ぎぬと考えられるのである。しかし、事柄がたまたま乱用されるなどということがあるとそれば、それは個々の小さな場合に限られる。教会の在り方といった大規模で一般的な事柄については、その悪も、偶然的な悪とはまったく違った大規模で一般的な悪である。教会の堕落は教会自身から生み出された」(『歴史哲学』第四部「ゲルマン世界」)。
ヘーゲルへの怨嗟
だから今日、すでに寿命の尽きた社会制度を単なる乱用の排除とかによって救済しようなどと夢想する人々がヘーゲルにどんな共感も示さないというのは、ちっとも驚くに当たらない。彼らはヘーゲルがもつ潜在的な革命精神の前に戦慄を覚えるのだ。
なるほど、かつて多少とも革命的志向を抱いた人々が、ヘーゲルに反抗した時代があった。彼らは、当時のプロイセンの現実に対するヘーゲルの俗臭ある態度が気に食わなかったのである。彼らは、反動的な外皮に包まれたヘーゲル哲学の革命的核心を見いだすことができなかったのだ。
しかし、今日、ヘーゲルに対し怨嗟を抱く人々はどうか。彼らは逆だ。彼らは、まさにヘーゲル哲学の革命的本質を知っているか、またはそれを本能的に嗅ぎ出しているがゆえに、それを憎むのである。
ヘーゲル哲学の革命性
では、ヘーゲル哲学の革命性とはどんなものか。
ヘーゲルは、「理性的なものは現実的たりえない」といった昔ながらの通りいっぺんの考えを理性に対する冒涜だと見た。こうして、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という彼の有名な命題(『法の哲学』序文)を提起した。
周知のようにこれは多くの誤解を生んだのだが、しかし第一に、何よりもまず、この誤解はヘーゲルが「理性」と呼び「現実」と呼んだものについて人が曖昧な表象しかもっていなかったということに起因する。しかし第二に、いま仮にこれらの言葉をその曖昧な、通俗的な意味にとってみても、少なくともこの命題の前半、「理性的なものは現実的である」の革命的意義はまったく明らかではないだろうか。
これを歴史に適用してみたまえ。これは、理性的なものは決して彼岸的なものではない、それは必ず実現されるのだという信念以外のなにものでもない。だが、およそこうした希望に満ちた確信なしに、革命思想はどんな実践的意義も持ちえないだろう。
かつて善であったものが…
ヘーゲルによれば、歴史というのは、普遍精神の、すなわちまた理性の、時間というものの中における自己解釈であり自己実現である。
ではここからは、相前後する社会状態の歴史的交替はどのように説明されるか。それは、歴史的発展の過程では、かつて理性的であったものがあるときから理性的でなくなる、かつて善であったものがあるときから善でなくなる、ということによってである。
例えばカエサルは、国家権力をさん奪するに当たって、ローマの国法を侵した。これは見たところ大いなる不正義であった。一方、彼の敵は自ら法の保護者をもって任じた。これは見たところまったく正義にかなっていた。けれどもっとよく見れば、後者によって護られた法はすでに単なる「形式」であり、「生きた精神からも神からも見捨てられた」一形式に過ぎなくなっていた。カエサルは「共和制と対立したが、すでに共和制がまったく形骸化していた以上、本当は共和制の影と対立したに過ぎない」のである。とすれば、カエサルのおかした不正義というのは、単に形式の立場から見た不正義に過ぎなかったであろう。「歴史上の偉人とは、その目的や使命を、現存体制によって正当化されるような、安定した秩序ある事態の動きからのみ汲みとるのでなく、まだ内容が隠されていて目に見える形をとらないような源泉からも汲みとってくるような人のことである」。ゆえに、「世界史的個人といわれるような人物たちの行為は、世界史の流れという立場から、正当化される」のであって、単なる「合法か違反か、善か悪か」といった基準は「まちがった形式主義である」(以上、『歴史哲学』序論、および第三部「ローマ世界」)。
個人の没落と原理の現出
あるいはまた、その時代の人倫の敵であると宣告されたソクラテスの没落について、ヘーゲルは次のように述べた。
「ソクラテスは英雄である。というのは、彼は意識して、より高度な原理を認識し、そしてこれを公けにした。このより高度な原理は絶対の権利をもっていた。これが、世界史における英雄の立場である。新しい世界は、この立場を通して登場するのである。なるほどこの新しい原理は、従来のそれに矛盾しており、それを解体させてしまうように見える。ゆえに英雄は、暴力的に法を侵害するように見える。そこで彼らは個人的には没落の憂き目に遇う。が、個人は没落するが、原理は姿を変えて現われ、かくして結局、既存のものをくつがえす」(『哲学史』)。
ヘーゲルの遺産
以上はすべて、まったく明らかであろう。
が、ヘーゲルはさらに、この「英雄」が、「個々人」とは限らず、世界史の新しい原理の担い手として登場する「国民」についてもいえると指摘した。
「世界精神の現在の発展段階の担い手であるというこの国民を向こうにまわしては、他の国民は、その精神とともに、もはや世界史において物の数に入らない」(『法の哲学』第三四七節)。
しかし現代においては、世界史の新しい原理の担い手として登場するのは、個々の国民ではなく、すべての文明国のなかにある存在、すなわち働く人々である。そしてヘーゲルにならってわれわれは言いうるだろう、「この人々を向こうにまわしては、他の人々は、その精神とともにその存在も、もはや物の数に入らない」と。
ともあれ、大いなる歴史的目標に向かうひたすらなる努力──これこそ観念論哲学の、ヘーゲル哲学の政治的な遺産である。
了
(編集・小川 紀)
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ソ連の教訓 −マルクス理論をより高めるために
アメリカの経済学者による ソ連国家資本主義論の最新の論文
国家資本主義的階級構造は、繰り返し私的資本主義的階級構造に取って替わったり、替わられたりしてきた。例えば、私的資本主義が前資本主義的階級構造から発展するための最初の資本主義形態であった地域では、それらの社会的背景と資本主義的経済矛盾の相互作用がついには「危機」段階に達し、多かれ少なかれ国家資本主義への転換を引き起こす。いいかえれば、私的資本主義企業(の一部、多数、あるいはほとんど)が国家資本主義企業に取り替えられる。それらの社会的背景と国家資本主義の経済矛盾の相互作用が社会的危機といえるほどの大きさに達するもっと後の段階では、多かれ少なかれ私的資本主義への後戻りが起こったりなどする。
ごたぶんにもれず、各形態にはその擁護者がいる。彼らは、自ら選好する形態が、認識された社会危機から社会を抜け出させ、別形の「最大多数のための最大利益」を創造すると主張する。そうした擁護論者の継承者たちの間の論争が、膨大な経済文献の蓄積をもたらしてきた。その議論は、民間市場対国家計画、国有対私有、競争対協同、国家規制対「自由」企業などの長所と欠陥をめぐっておこなわれる。これらの二分法はたいてい、社会主義あるいは共産主義と資本主義との間の論争と解釈されている。経済学を越えて、これと同じ論争が民主主義対官僚制、国家対市民、自発性対怠惰、そして自由対隷属の大論議へと一般化され集大成されてきた。そしてまたしても、多くの人間が、多様な資本主義の間のこれらの変動を、社会主義あるいは共産主義と資本主義との間の大論争と解釈してきた。
いくつかの簡単な歴史例で、こうした変動を説明しよう。合衆国における一九二九〜三九年の不況は、ルーズベルト政権を全国産業復興法(NIRA)の可決へと追いやった。政府は民間産業のカルテルおよびそのための法を提唱し、制定し、そして施行したが、それが極めて広範囲かつ強力な規制計画となったので、それは私的資本主義崩壊の防御手段としてまぎれもない国家資本主義に近づいた。レーガン・ブッシュ時代に頂点に達したことだが、合衆国における第二次大戦後の経済発展は私的資本主義への長い退却であり、NIRAが明示的暗示的に表わしたあらゆるものからの撤退であった。今日クリントン時代になってわれわれがまたもや耳にするのは、経済もしくは国家を再生あるいは救済するために、規制緩和された資本主義からもっと国家規制的な資本主義に引きもどす呼びかけである。そしてまたしても、かなり多数の評論家たちが、こうした変動を社会主義対資本主義の見地から歓迎したり、非難したりしている。
他の国々でも、私営−国営−私営の変動を例示できる。イギリスでは、一九世紀的資本主義は、大不況、ケインズ、そして戦後労働党政権による国有化に直面して姿を消した。サッチャー政権は民営化への揺りもどし傾向を代表している。ミッテランの党は、近年政権掌握期間中に、二○世紀フランスでかつて起こったのと同種の変動をきわめて短期間になし遂げた。ドイツは、ヒトラーの統治下で、私的資本主義形態から国家資本主義形態への相当激烈な移行を果たしたが、第二次大戦後アデナウアーとエアハルトが西ドイツを元にもどした。一八六八年以後、国家資本主義企業は日本の急速な経済発展を導いた。その後、先導役は私的資本主義企業に手渡されたが、常に国家と密に協力しておこなわれている。第三世界のほとんどの国でも、国家資本主義的産業と国家に指導された私的資本主義が、第二次大戦後の三○年間を先導した。その成果に対する不満は、この二○年間にわたる私的資本主義への広範な移行を生み出した。最後に、ソ連では、後でいくぶん詳述するように、二○世紀には一九一七年以後私的資本主義から国家資本主義への広範囲な転換を、そして次にゴルバチョフとエリツィンの下で逆転運動を目の当たりにした。これらの例も、変動の両極はたいてい社会主義あるいは共産主義対資本主義と見なされた。
私的資本主義に対する批判の中で、時には極端な右翼的立場が支配権を獲得した。それは、私的資本主義の個人主義や民主主義、私的資本主義が生み出す社会的な分裂と反目、そして私的資本主義がそれ以前に存在したと考えられる宗教的あるいは国民的純粋性を喪失したことに代えて、組織立った階層制社会の再建をめざした。さまざまなファシズムは、国民的な統一と優位を回復する不可欠な段階として、私的資本主義企業と国家資本主義企業とを合併させる傾向があった。ファシズムは決してこの段階を踏まずにすませることはなかった。
政治的スペクトラムのもう一方の端には、私的資本主義に対する左翼的批判、特にマルクス文献によって啓発された人々が存在した。彼らの目標はしばしば私的資本主義の国家資本主義への転換をはるかに越え、政治的民主主義の完全な経済的民主主義への拡張にも向かった。彼らの目標は資本主義の根本からの破壊であった。それが意味したことは、富と権力の厳正な共同かつ平等な分配(特に必要に応じた生産物の分配)と搾取のない生産機構(すなわち、われわれが共産主義的階級構造と称してきたもの)のさまざまな組み合わせであった。例えば、レーニンは、国家資本主義をよくても資本主義から社会主義への移行に向けた暫定的な必要段階であり、その後その資本主義的階級構造のみならず国家も廃絶されねばならず、またそうなるものと考えていた。ところが左翼の人々は、その段階を必ず踏まねばならぬ段階と考える一方、多数の人が、その段階自体を、資本主義を打ち破った社会主義あるいは共産主義とさえ呼んで自らを慰めた。
国家資本主義と私的資本主義の支持者たちとの論争は、衰えることなく続いている。国家資本主義の一部、あるいはすべてを「社会主義」あるいは「共産主義」とさえ呼ぶことを強く主張する傾向も──マルクス主義者も非マルクス主義者も──また続いている。われわれの目標は、こうした論争のあり方を変え、少なくとも反資本主義的闘争の歴史がいまだ共産主義の持続的実験をなし遂げていないという命題を理解させ、できればその命題を受け入れさせることである。さもないと、こうした状況は国家資本主義と私的資本主義の間の変動を生み出しつづける。われわれは、マルクスに従って、そうした共産主義実験を始めるには、諸要件のうちで多様な資本主義的階級構造形態と共産主義的代替物を体系だって区別できるマルクス的理論が前提になると考える。それにはまた、画期的なソヴェト時代に対するマルクス的理論に基づく批判、つまりソヴェトの成功、失敗および敗北から学びとり、次の高揚の際の武器に変えることのできる批判が前提となる。以下では、そうした批判の概要を述べることにする。
(つづく)
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再び、スリランカのLSSPとNSSPについて
高島義一さんの批判に応えて
『世界革命』紙上に掲載された吉田さんの投稿への私の反論に対し、『かけはし』(1447号)でJRCLの高島義一さんが批判を行っています。批判への全面的な反論は後日を期すとして、とりあえず高島さんの文書の最初の項目「なぜ変則的な紙上論争になったのか」の部分とその他いくつかの点について応えたいと思います。
問題を個人攻撃にすり替えるべきではない
高島さんは、『世界革命』に載った吉田さんの投稿は実は最初は『Workers』に送られたもの、ところがなぜか『Workers』はそれを掲載しなかったため『世界革命』に送られてきた、そして『世界革命』紙上で公になったがために阿部は事実誤認の部分を自己批判せざるを得なくなった、要するに阿部は自分への批判の『Workers』への掲載を拒絶し隠そうとしたのであり、問題が暴露されてはじめてしおらしく自己批判らしきものを行ったのだ、この点は軽視できない重大問題だ等々と主張したいのだと思います。
しかし、高島さんは、あまりに軽率ではないでしょうか。吉田さんという人が、『世界革命』に送ったのと同じ原稿を実はその前に『Workers』に送っていたのだということを、高島さんは間違いのない真実だと前提にして議論をしているのですが、これはあまりにお人好し、あるいは早とちりというものではないでしょうか。
ご存じでない可能性もあるので説明させていただきますが、Workersは、当面は特定の指導部も編集部も持たないで活動していくこと、個々の会員の自主性、主体性に依拠して組織活動を行っていくことを確認し、2年近くやってきました。当然に『Workers』紙にも編集権を持った特定の機関や個人は存在せず、発行に至るまでの作業は会員全員の意見表明や討論やその上での合意や調整を通して行っています。
したがって、『Workers』は、送られてきた投稿の中で掲載に異議が出そうと思われるものはすべての会員に回送して意見を表明してもらっています。会員に回送する必要のなかったもの、回送の結果「問題なし」の結論が出たものはすべて掲載されているということでもあります。しかし、高島さんが言う吉田さんの投稿なるものはありませんでした。
吉田という名ではありませんが、Sという名でよく投稿してきた方がありました。首都圏からの投稿者で私たちがよく知らない人と言えばSさん位しかいないこととその他いくつかの事情から、Sさんと吉田さんは同一人物であることも推測できます。
吉田さんでなくこのSさんが寄せた共産党批判の投稿については、他の会員からクレームがつきました。Sさんの文章があまりに「問題の本質からはずれている。レッテル張り的な議論ばかりで、積極的な異議があるとは思えない。こういう議論の仕方はやめにしようということもあって社労党を離れたのに、こういうものを載せて良いのか」というものでした。その結果、Sさんの投稿は不掲載となりました。
以上のようなことは事実としてありましたが、吉田さんにからせよSさんからにせよ、私たちが『世界革命』紙上で読んだような投稿は『Workers』には送られてきませんでした。もしお疑いであれば、Workersの他のメンバーをつかまえて聞いて見ればよいと思います。我がWorkersの人々は、他の組織の人からは余計な心配を誘うくらいに、組織を防衛しようとか他の会員をかばおうとかいった発想とは無縁ですから、ありのままを聞くことが出来るでしょう。
高島さんの文章をよく読んでみると、次のようになっています。「……阿部治正さんの主張を批判するこの投書を、まず『Workers』に送ったということです。しかし掲載されなかったため、あらためて本紙に送ってきたものです。」
しかし高島さん。「……ということです」という他人の言葉の紹介が、なぜ次のセンテンスで「……ものです」という断定になるのでしょうか。おそらく高島さんは吉田さんの発言に全幅の信頼を置いておられるか、あるいは吉田さんに責任はなく高島さんが勝手に彼の発言を早のみこみし過ぎたかのどちらかだと思いますが、こういう決め付けはまったくよくありません。吉田さんが高島さんに何を言おうがそれはそれで良いのですが、それをそのまま真にうけてか早とちりをしてか、阿部はデマや中傷をこととしている≠ニ言った責任は高島さんだけのものであることは肝に銘じておいてほしいと思います。
こうした高島さんの議論の仕方は、問題を原則的な論争に高めるのではなく、単なる個人攻撃に水準におとしめています。少なくとも私はこの議論の中で個人攻撃に訴えたことはありません。吉田さんに指摘されたように事実関係で誤りがあったのは確かですが(高島さんがこの点を何度でも言い立てたいなら何度でも同じ自己批判をいたしましょう)、しかしこうした個人攻撃のたぐいを議論に持ち込んだことはないつもりです。この点も自戒されるよう忠告させていただきます。
以上、高島さんが「この点がまず、大きな問題であると思います」と書いており、またこの点での非難がそれなりに阿部批判として「効果」を発揮している可能性もなきにしもあらずであり、後に続く文章にもこの点での「義憤」(見当違いの!)が尾を引いているようですので、あえて書かせていただきました。
NSSPの「自衛キャンペーン」について
次に、高島さんが擁護している第四インタースリランカ支部・NNSP(ナバ・サマサマジャ・パーティ)の問題を見てみます。
しかしその前に少しだけ、スリランカの各政治勢力についての説明をしておきましょう。スリランカには統一国民党とそれから分かれた自由党という二つのブルジョア・地主政党があり、政権交代を繰り返してきました。また「左翼」政党としては古くからトロツキー主義のLSSP(ランカ・サマサマジャ・パーティ)があり、またこのLSSPから分かれた共産党があります。このLSSPと共産党はしばしば自由党と一緒に連合政権をつくり、労働者人民の闘いを激しく弾圧したりしてきましたが、LSSPからはその方針を批判してNSSPが分かれました。
またタミール政党としては北部を中心とするスリランカ・タミールに基盤を持つタミール政党の統一による統一解放戦線(分離を主張)、スリランカ・タミールとは歴史や利害を異にするインド・タミールのセイロン労働者会議(分離は主張せずしばしば政府与党)があります。またこれらの穏健派に反発して70年代にいくつかのタミールゲリラが活動を開始しますが、そのうちの左翼的組織は民族排外主義のLTTE(タミール・タイガー)によって壊滅させられ、結局はLTTEが主導権を握りました。
さて、私がNSSPもまた89年前後のJVP弾圧に責任を負っていると主張したことに対し、高島さんは「JVPの内ゲバ主義的テロに反対して共同のキャンペーンを行い、組織をテロから防衛するために自衛することが、はたして『弾圧』なのでしょうか」と反論しています。
だが、この内ゲバ主義的テロから自衛するためのキャンペーン≠ニいうのは一体何でしょうか。これではまるでJVPの側が一方的に暴力的な攻撃を仕掛け、NSSPなどはそれに対してお上品な言論戦で応酬しただけであるかにも受けとめられます。高島さんはJVPの内ゲバ主義を云々しますが、しかし私たちの取材によればNSSP等が行ったことは「内ゲバ主義」などという言葉ではとても表現し得ないものです。その実態は、防衛のためのキャンペーンなどというものとはおよそかけ離れたものと言わざるを得ません。
確かに一方的な攻撃にとどまらず、JVPとNSSP等との間で双方からの応酬が行われたのは事実でしょう。具体的ないきさつについてはおそらく双方に双方に言い分があるのでしょう。これに対して私としては、同じ労働者党どうしはもちろんたとえプチブル党との間の対立であったとしても、暴力ではなく別の形での問題解決を追求する必要を強く主張したいと思います。
しかしこうした事実関係以前に、私たちが注目し関心を持たざるを得ない問題があります。高島さんは自衛のための「共同のキャンペーン」と言うのですが、ではNSSPはこのキャンペーンにおいていったいどういう勢力と「共同」したのでしょうか。NNSPが日和見主義であり反動化したと非難していたはずのLSSPや共産党、それだけではなくバンダラナイケの自由党やさらには世界でもまれな極反動政府・殺人者政府である統一国民党政府とさえ共同することを辞さなかったのです。
在日のスリランカ人の活動家たちは次のように証言しています。
NSSPの学生メンバーは、大学のキャンパス内を武器を持ってJVPメンバー探しのために徘徊していた。軍隊に捕らえられた大量の青年たちの中からJVPメンバーを特定する首実見の仕事を引き受けていた。NSSPの幹部の所持品の中にJVPメンバーのリストとUNP政府から与えられた軍隊や警察の中に出入りできるライセンスがあった。スリランカの各県におかれたキリング・ポイント(反政府活動家への拷問とレイプと大量虐殺が行われた施設)の中にはNSSPメンバーも含むPRRA(ピープルズ・レボリュショナリー・レッドアーミー)のオフィスがあり、激しい拷問や虐殺が行われた。大量虐殺の主な担い手は軍隊や警察というよりむしろPRRAであり、軍や警察は虐殺された死体を河に流したり路上に放置したりということが多かった等々……。
高島さんは彼らの証言をはたして覆すことが出来るでしょうか。
先に述べたように確かに暴力的な党派闘争は不毛であり、社会変革をめざす闘い全体そして結局は社会主義運動に大きな打撃を与えることとなります。しかし不幸にしてそうした事態が起り、そしてその闘争の性格を考えなければならないとき、両者の政治的立場、階級的立場に目をやる必要があります。
この点で、JVPにも急進主義の傾向があったと言うことは可能かも知れませんが、しかしJVPが依拠し共同しようとしたのはあくまでもスリランカの最も抑圧され、搾取された人々でした。このことはだれも否定できないと思います。それに対してNSSPが共同したのは、あろうことかスリランカのプチブル、ブルジョア、地主の勢力を代表するLSSPやSLFPや統一国民党政府だったのです。この点は決して軽視されてはならないと思います。暴力的な党派闘争は擁護されるべきではありませんが、しかしその暴力がどういう政治的、階級的性格を持っているのかを見ることもまた、問題の性格を考え、問題解決の道を探るにあたって決定的に重要なことなのです。
スリランカ・トロツキズム運動の資本家・地主勢力への追随主義は昨日今日のものでなく由緒ある伝統にもとづいていますが、しかしこの時期のJVPとの対立は次の問題で補足する必要があります。87年のインド・スリランカ和平協定、その下でのインド軍の侵略、それと結びついたタミールの分離・独立運動などに対する評価の対立の問題です。
スリランカ政府のパキスタンやイスラエルやアメリカとの結びつきを快く思っていなかったインドは、タミール問題を口実にしてスリランカに軍隊を進め、UNP政権は強大なインドの力に屈しました。しかしこのインドと少なからず結びつきのあったはずのタミールタイガーは武装解除の要求に抵抗、やがて反旗を翻しました。この動きを見てUNP政権も次第にインド軍撤退の要求を打ち出しはじめ、タミールゲリラとUNP政権との共闘が生まれました。この間社会党や共産党やチャンドリカの人民党は、インドの侵略やそれと結びついたタミール内の分離主義に明確な批判的態度をとることはありませんでした。
こうした中でJVPは一貫してインド軍の侵略に反対して武装闘争を闘いました。インドと結びついた北・東部の分離主義の動きを支持せず、またタミールタイガーの露骨な民族排外主義やファシスト的体質を批判してきました。こうしてJVPはスリランカの政治闘争の中では異端となり、諸勢力と激しく対立することになったのです。
紙数の関係もあり次の機会に譲らざるを得ませんが、この問題は極めて重要であることを指摘しておきます。
NSSP指導部の日和見主義を擁護すべきではない
高島さんは、私がNSSPは一昨年の政変においても入閣主義の誤りを犯したと言ったのに対して次のような主旨の反論を行っています。
NSSPはPAとは別個に選挙闘争を闘い、その後もPAには入らなかったし、政権にも入らなかった。PA(人民連合)にはせ参じることや政権にはいることを主張し、その通り行動したのはNSSP党首のワースデーワ・ナーナーヤカラだけであり、そのためにNSSPは彼から離れざるを得なかった。ナーナーヤカラを日和見主義として批判することは良いが、彼とたもとを分かったNSSPや第四インターを批判するのは筋違いである云々。
何やら、71年のLSSPも入った人民連合政権によるJVP弾圧についての議論と似てきましたが、ここでも私の側に事実関係での誤認があったことは率直に認めましょう。つまり、私はナーナーヤカラらの指導の下でNSSPがPA路線にいったんは走った、しかしその直後に党内から批判が巻き起こって党首をPAに残したままNSSPとしてはそこから離れたと言ったのですが、事実関係はそれとは少し異なり、NSSPとしては最初から最後までPA路線反対であったが日和見主義の党首や幹部連中が党全体の方針を踏みにじってPAに合流してしまった、挙げ句の果てはかつては日和見主義だ反動だと批判したはずのLSSPに復帰してしまった等々ということであったようです。
しかし私がここでもやはり強調せざるを得ないのは、何故かくも同じような裏切りがスリランカトロツキズム運動の中で繰り返し繰り返し現れるのかという事です。入閣主義に走ってブルジョア政党と一緒に政権をつくり71年にはJVP弾圧に手を染めたLSSP。そのLSSPを批判して結成されたのは良かったが、87年前後にはLSSPや共産党や自由党や血に飢えた統一国民党政権とさえ「協同」して反JVPの「キャンペーン」をはり、そしてつい最近はよりによって党首や幹部たちが再びPAとの連合に走りLSSPに復帰してしまったNSSP。こうした日和見主義や反動化や裏切りが繰り返し巻き返し現れる運動に対しては、もっと真摯な総括、根本的な総括が絶対に必要です。
高島さんはなんとしてもNSSPを擁護したいようですが、しかしそうした姿勢をとり続けることが果たしていつまで可能でしょうか。最近の『ランカ・ディーパ』紙のインタビューを読むと、NSSPはPAに走ったワースデーワ・ナーナーヤカラとの関係の修復を追求しているようです。これは、高島さんが言ってきたような党とは関係ない一部の人々の行動ということではなく、残念ながらNSSPとしての公式の方針のようです。高島さんは、NSSPがナーナーヤカラとよりを戻したりPAと共同するなどの事態に至ったとき、これまでこの党を擁護してきたことの責任をどうとるつもりなのでしょうか。やはり、あれはトロツキー主義を裏切った者たちだからもう自分たちには関係がないと説明するのでしょうか。
LSSPとNSSPの誤りはトロツキー主義と無関係か
もちろん高島さんも、さすがにスリランカのトロツキー主義運動に対して批判的な発言をしないですますわけにいきません。LSSPに対しては統一書記局やピエール・フランクの見解として、NSSPに対してはバラタンポらの口を借りて批判をしています。第四インター全体としてすでに批判的な評価を下しているLSSPはさておき、なぜ高島さんがNSSPに対しては積極的に自分の主張として批判を展開することが出来ないのかをいぶかるものですが、それはひとまずは問わないことにして、中身の吟味に入りましょう。
高島さんがLSSPの堕落の教訓として語る、「大きな大衆的影響力を持ち、しかも情勢を左右するような力を持つにいたった革命勢力が必ずといって良いほど直面する大きな危険性」云々の主張は全くのナンセンスというほかありません。またNSSPの教訓だと言われる「情勢の後退期には、不可避的に右からの圧力が強まります。その中で、下からの大衆的圧力が弱まると議員集団の自立化と右傾化は容易に起こります」云々はそれ以上にチンプンカンプンです。
まず、LSSPの堕落を「…革命勢力が必ずといって良いほど直面する大きな危険」などと革命政党が宿命的に有している問題であるかにいうのはあまりにひどい問題のすり替え、あるいは責任回避、革命運動への侮辱です。高島さんも言うスターリンらのような誤りをきちんと総括し、同じ誤りに容易に陥らない政治的成長を獲得しているからこそ、革命勢力は革命勢力の名に値するのです。少なくとも高島さんたちトロツキー主義者は、主観的には自分たちをそう位置づけ、労働者に対してもそう説明して支持を訴えてきたのではなかったでしょうか。
高島さんは「議会主義化した議員集団とそれを支持する大衆との大きなギャップ」などとも言うのですが、こんなものは革命勢力の宿命などでは断じてありません。こうしたていたらくはむしろカウツキーやベルンシュタインらが牛耳っていた第二インターやドイツ社会民主党の姿そのものです。それとも高島さんはここで、実は自分たちは第二インターとさしてかわらない勢力なのだと、打ち明ける気にでもなったのでしょうか。もちろん日和見主義の第二インターは、労働者の闘いの高揚に直面するやブルジョアと一緒に血の弾圧を加える側に回ったのであり、その意味ではLSSPやNSSPの行動もまた一種の宿命ではあったのでしょう。
次に、NSSPの堕落に触れた部分ですが、「情勢の後退期」とは一体なんでしょうか? 「下からの圧力が弱まると」とは一体どういう意味でしょうか? むしろ一昨年の政変時のスリランカの情勢は、後退期どころかむしろひさびさに現れた一定の高揚期だったのであり、また下からの圧力も弱まるのではなく逆に強まっていたのです。高島さんはなぜ情勢をこんなにも正反対に描こうとするのでしょうか。問題を情勢や大衆の責任に転嫁するなどはもってのほかというしかありません。私たちは、これが高島さんの官僚的発想から出た言葉でないことを祈るばかりです。
また、「自らの議席を守る方が運動の利益になる、という口実で原則を放棄する例は、枚挙にいとまがありませんし、今でも私たちの目の前で繰り返されています」などと言ってNSSPの堕落を説明するにいたっては、何をか況やです。高島さんは、そのように言うことによって、実はトロツキー主義をそこいらへんの堕落した「革新」議員の政治と同一視し、他の誰でもなく自分自身の手でトロツキー主義をおとしめているのです。
いずれにせよ高島さんは、LSSPやNSSPの堕落を批判することを通してトロツキー主義の本領を発揮してみせようとしたのですが、逆にトロツキー主義が持っている大きな限界を自らが暴露してみせたのです。LSSPやNSSP、そしてそれを擁護したり批判したりする中で高島さんが繰り出してきた議論を聞いていると、あらためてトロツキー主義の欠陥の大きさを痛感せざるを得ません。
もちろん、革命的な理論を知識として学べば実践においても自動的に革命的たり得るというほど現実は単純ではありません。現実の闘いの中では動揺や日和見主義や裏切りへの不断の誘惑が待ちかまえているでしょうし、それを克服する力を実際に持っているかどうかで革命的左翼はその真価が問われるのでしょう。そして、LSSPや最近のNSSPの行動は、まさにこの点での決定的な欠陥、資質の欠落を示したのです。NSSP指導部に対して曖昧な態度をとることは、もはや労働者への裏切りではないでしょうか。
トロツキー主義にしがみつくことは不毛である
JVPの武装闘争や民族問題への対応、トロツキーの統一戦線戦術とスターリン主義の人民戦線戦術等々重要な論点がまだまだありますが、またの機会にしたいと思います。高島さんの主張に対してもちろん異論・反論を持っていますが、今は時間がありません。
先走って述べておけば、この議論を通して、トロツキー主義といったものを過度に防衛しようとしたり、それに縛られたりすることの不毛さをあらためて痛感しています。もちろん、高島さんの主張に同意してでは決してありませんが、その議論に触発されてもう少し自分の考えを深めなければならないと思い始めた部分もあります。これらの問題については、一方的な情報にもとづくを議論や、○○主義を防衛しなければといった保守的な動機から出たような議論は避け、できるだけ本質的な議論を心がけたいと思います。
(阿部治正)
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- ビルマの人権侵害 〈20〉 ジャーナリスト 菅原 秀
軍事政権、スーチーの連絡手段を奪う
アウンサンスーチーは、昨年七月に自宅軟禁から解放されて以来、電話とファックスを使っての国際社会への発言を続けてきた。
外国人記者の自宅訪問も増えているが、門の前には公安が目を光らせており、ひとりひとりの顔写真を撮っている。取材者のホテルのまわりにもオートバイに乗った公安が動向を探るために待機している状態である。
SLORC(国家法秩序回復評議会=軍事政権)は取材記者たちが書いた記事を世界各地でチェックし、ブラック・リストを作成している。SLORCはリストのコンピューター化をする資金がないらしく、各国ビルマ大使館のビザ発行窓口の係がファックスで本国から送付されてきたブラックリストの照合作業で忙しい。
この事実は、今年一月にバンコクのビルマ大使館でビザを申請した時に、私の名前が載っているブラックリストが旅券窓口の内側に貼ってあるのが見えた結果わかったものである。その時のリストには三十人ほどの名前しかなかったが、今はその何倍にも増えているだろう。
ただし手作業なので、見落としが多いようだ。ブラック・リストに載っている人でも他の国でビザを取ろうとするとすんなりいったりすることがある。
さてそういった制約された状態の中で、スーチーの海外への窓口を引き受けていたのはイギリス系ビルマ人のレオ・ニコルス氏(65)であった。
ニコルス氏はノルウエーの名誉領事であり、さらにデンマーク、フィンランド、スウエーデン、スイスなどの領事代行の仕事も長年に渡って引き受けてきた。ノルウエーはビルマの民主化のために国をあげて応援しており、さらにスウエーデンやデンマークも積極的に民主化支援をしてきた。
ニコルス氏は、オーストラリアに住む家族から再三に渡って移住を勧められてきた。しかし民主化運動の進展のためには自分の力が必要だとしてビルマへの滞在にこだわり続けた。軍事政権が発表する情報は信頼できないので、北欧諸国とにとってはビルマ国内の状況を知るために、ニコルス氏の協力が極めて重要だったからである。毎日新聞掲載のスーチーによる連載「ビルマからの手紙」を日本に送信し続けたのもニコルス氏である。
ニコルス氏はなぜ死亡したか?
軍事政権は、ニコルス氏をスーチーから引き離すために、今年四月「当局の許可なくファックスを利用していた」との罪状で逮捕、禁固三年の判決を下してラングーンのインセイン刑務所に収容していた。
ところが、六月二十日、ニコルス氏はインセイン刑務所内で倒れた。二十一日午前十時、当局はニコルス氏をラングーン総合病院に移送したが、一時間後に亡くなった。遺体は翌日には火葬され、刑務所そばのソーバジー墓地に埋葬された。葬儀には四〇人の軍事政権関係者が出席したが、友人、家族の参加は許可されなかった。
当局の発表によれば検死の結果の死因は脳溢血であり、適切な医療処置をしたが、死亡したとしている。ビルマ人は火葬の前に三日間遺体を安置し、ていねいな野辺送りをするのが常である。軍事政権は遺体を秘密裏に埋葬した。国際社会がかれら軍事政権の発表を信頼することは不可能である。
ノルウエーとデンマークは急遽、調査のための特使を派遣した。軍事政権は検死に関する書類の提示を拒んだ。デンマークはその結果、緊急閣議を開き重大な決意で望むことを決定した。七月一五日にEUが発表した「ビルマ経済制裁」の要請は、デンマーク政府の強い意思によるものである。 ノルウエーはEUに加盟していないが、他の国と共同でビルマへの新しい政策の検討に入っている。
SLORCは政権ではなく犯罪者だ
日本ではビルマの軍事政権が、ビルマ人や少数民族に対してどういった人権侵害をしているかということが報道されていない。軍事政権とスーチー率いる民主派のふたつの勢力が対立しているだけであるという見方が一般的だ。そういう見方ならば、ビルマの民主化はビルマ自身が行えばいいのであって、スーチーを支持する国際世論は内政干渉ということになる。しかし、こういった内政干渉論が通用するのは先進国では日本だけであろう。
日本では内政干渉論がこれから多発することが予想される。つまり軍事政権の組織的な犯罪の実態が報道されてない。紛争を起こしている当事者は軍事政権だけであり、スーチー、NLD(国民民主連盟)、少数民族各派は、抑圧の被害者である。決して紛争原因の発生に関与していない。しかし、日本にはそういった認識が形成されておらず、マスコミは内政干渉論論を正当なものと勘違いして採用する可能性が高いからだ。
殺人、強制労働、拷問、恣意的逮捕、強姦、強制移住、自ら施行した法律の無視、さらに少数民族に対する細菌爆弾や化学兵器の使用などの疑いも含めれば、軍事政権が犯しているのは軍事力を背景にした凶悪犯罪であり、その詳細は、欧米、さらにお隣りのタイなどで詳しく報道されている。そういった犯罪集団なのだが、国連の代表権を握っており、国家の統治者であることを主張している。各国にとっては悩みの種である。
不当逮捕ではなく、無法逮捕である
ビルマ軍事政権は、今年五月には、正式に選任された国会議員たちを三〇〇人近くを逮捕し、家族の職業を奪い、公共住宅から追放するなどの脅迫で、NLDからの脱退をせまった。またそのうち二十人に裁判なしの長期刑を課し、いまだに拘留している。さらにニコルス氏を死にいたらしめた。
SLORCが各地で逮捕活動をしていた頃、SLORC外務大臣がちょうど来日していた。五月二十三日、オンジョー外務大臣は池田行彦外務大臣に面談を求め、「逮捕ではなくて、話を聞いているだけだ」という説明をした。それに対する池田氏の抗議は新聞には報道されていないが、外務省の担当職員がアムネスティ・インタ−ナショナルの七月十日の集会で発表した。
「池田大臣は、オンジョー外務大臣の説明に対して、『話を聞いているだけだったらなおのこと問題だ。話を聞くために拘禁するというのはまさに無法行為ではないか』とおっしゃいました」
軍事政権にアメを与えるな
さてその池田氏はASEANの拡大外相会議に出席する。オンジョー氏に対して臨んだのと同じ姿勢を貫いていただきたいものだが、下準備をしている外務省の担当職員があまりにも軍事政権寄りなので心配である。 今のところ外務省は「ビルマ軍事政権は、経済を安定したのちに民主化を達成する」と考えている。外務省が採用する「ビルマに対しては北風ではなく、太陽を」という路線を受けて、経団連は九五年以来ビルマのインフラ整備のための経済使節団を送り込み続けている。また、今年十月から始まる「ビルマ観光年」に向けて、地元にホテルを建設した日本企業もある。この七月十五日には全日空が大阪とヤンゴンの直行便を就航させた。
こういった経済界の姿勢には、軍事政権がビルマの民衆の人権をないがしろにしているという現実認識がないのである。軍事政権と交換文書を交わすことは、犯罪者と交換文書を交わすことであるという危険さを、日本企業は気付いていない。
人を憎まずという態度は歓迎すべきであるが、罪も憎まずという生半可な態度は、ビルマ民衆の悲しみを考慮しない結果からくるものではないか。国会議員の無法逮捕とニコルス氏の死を知りながら、ビルマからの撤退をしないのなら、まさに死の商人としかいいようがない。
(つづく)
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縄文ワールドへの旅 青森・3内丸山遺跡を訪ねて
梅雨も明けた7月中旬、僕とI君とは夏期休暇を取って、青森の三内丸山遺跡を訪ねる旅に出た。今から4〜5千年前、縄文時代の中頃に、巨大な都市というのか、村落というのか、とにかく、ひとつの高度な文化をもった社会が存在し、しかも約千5百年にわたって続いたという。これまでの「縄文」観を覆すような、この三内丸山遺跡が発掘されたのは、つい数年前のこと。以来、この遺跡には、全国から見学者が後を絶たない。とにかく、百聞は一見に如かず、というわけで、僕達は初夏の青森を訪れた。
「小都市」を思わせる巨大な遺跡
青森市内からバスで約30分。近郊の南西部に、小高い丘がある。そこが、僕らの目的地である三内丸山遺跡である。午前中だが、すでに数十人の見学客が来ている。さっそく、ボランティア・ガイドの後について、見学を始めた。中年の男性がガイドをしてくれた。熱弁をふるってくれた。学校の教師なのだろうか?それとも、古代史ファンである一市民なのだろうか?
ガイドの説明によれば、野球場を建設しようと、工事を始めたのがきっかけで、この遺跡は発見された。発掘調査が進むに連れて、予想をはるかに上回る巨大なもので、しかも歴史を覆すような遺物がぞくぞくと出土したため、ついに県は、野球場建設を断念し、遺跡全体を保存する決定をしたのが、つい最近のことである。遠くの方では、ブルドーザーが、一部だけできていた野球場スタンドを、取り壊す作業を行っているのが何だか愉快に見えた。
とにかく巨大だ。数年前、佐賀県の吉野ケ里遺跡を見て、その広大さに圧倒されたものだったが、それは弥生時代のものだった。ところが、今回の三内丸山遺跡は、それよりも遥か3千年以上も昔のもので、しかも何倍もの巨大さなのである。
遺跡中央には、太い柱の跡があることから、かなり高層の建造物があったと考えられている。当時は、すぐ近くまで海岸が迫っていたそうで、船のオールも発見されている。もしかしたら、その高い建造物は、湾に出入りする船に関係する「灯台」か「物見櫓(やぐら)」だったのかもしれない。
他に、共同の作業場か集会所だったのではないかという、大きな建物がある。これも何回か建て直したらしく、柱の跡が重なっている。その周囲には、縦穴式住居が数十軒ほどあり、当時の村落の人口は、約500名程度ではないかと推定されている。
さらに、食べ物のカラ(貝殻や動物・魚の骨など)を捨てるゴミ処分場や、使えなくなった土器を捨てる(というより奉納して自然に帰すという方が近いらしい)「盛り土」という、一種の土器のお墓がある。墓地は、住宅地に近い所に「子供のお墓」、少し遠い所に「大人のお墓」と、分けられている。栗の木などを栽培したらしい。つまり農場もあったのだ。
この三内丸山遺跡は、実は「中心」で、その周囲に「衛星」のように、いくつかの村落が発見されている。つまり、三内遺跡は、この地方のかなり広い地域の中心の役割を持つ「小都市(国家?)」だったようなのだ。
交易と栽培農業を営む高度な社会
これまで、縄文文化というと、狩猟や漁労、採集にあけくれ、定住することのない、原始的な共同社会というイメージで語られてきた。文明が花開くのは、弥生時代になって、稲作が伝播されてから、という風に考えられていた。しかし、三内丸山遺跡は、そうした「遅れた縄文文化」観を根本から覆すものだ。
第一に、この遺跡からは、青森地方にはないはずの、新潟で採れるヒスイや、岩手産のコハク、北海道産の黒曜石、秋田産のアスファルト等が出土している。つまり、日本列島の北部を股にかけて、かなり広い範囲での交易が行われていたのである。
黒曜石は鏃(やじり)に使われ、狩猟を効率的に行うための必需品である。アスファルトは、その鏃を矢に取りつける接着剤である。三内丸山社会は、船でこれらを調達し、近隣の諸共同体にこれらを配給していたのだろうか?とすれば、三内丸山社会は、狩猟・採集文化圏における、道具の物流センターとして機能していたということになる。
そして、ヒスイやコハクといった装身具素材の存在は、この社会が内外にある種の「権威」をアピールしていたことを推測させる。交易による共同体首長の所有層への転化が始まっていたことが伺える。
第二に、自然の物とは異なる品種の植物の種子や実が発見された。このことから、栗や瓢箪(ひょうたん)、豆、ゴボウ等の栽培農業が行われていたことが推定される。食生活のかなりな部分は、依然として、狩猟(ウサギ、ムササビ、カモ、キジ等)、漁労(タイ、ヒラメ、マダイ等)、採集(オニグルミ、イヌビエ、ヤマブドウ等)に依存していたが、部分的には栽培農業に着手していたのである。
食生活の豊かさ(量はともかくも「多彩」という意味で)は、現代人の我々も羨ましい程である。ドングリのクッキーや、一種のパンのようなものも作っていたというし、酒も作っていたというのだから。
しかし妊産婦と乳幼児の死亡率は高かった
縄文社会は「豊かな社会」だと述べたが、それは、現代人の尺度で言うのとは違う。社会の営みが多彩であるという意味で「豊か」だということなのであって、必ずしも量的に豊かだったということではない。500人程度の共同体が、漁村と農村と商業都市の機能を合わせもち、夕食後の団欒では、近所の人々が集まって、酒を酌み交わしながら、遠方から帰って来たばかりの船乗りは今回の交易の苦労話に花を咲かせ、また別の人は今年の天候や栽培作物の出来具合を語り、またある人は不幸にして病に倒れて亡くなった隣人の思いで話を語り・・、そんな光景を僕は目に浮かべるのである。
だが、その「豊かな」縄文社会は、常に死の恐怖と隣り合わせだった。墓地の半分は子供のお墓だ。また、墓地からは奇妙な土偶が多数発見されているが、一説によればそれは亡くなった妊婦を形どったものではないかと言われる。そう思って見ると、無事に出産することができずに、不幸にして亡くなった母の「無念」の表情が、その土偶から読み取れるようにも感じる。「5人位の子供を産んでも、無事に成人するのは、平均して二人位しかなかったようです。」とガイドが語る。
母と子供の死亡率が高いことは、それだけ、人間の基礎的な抵抗力が弱いということだ。とはいえ、縄文人の人骨は、当時の人間が立派な体格を持ち、スポーティーできれいな体系をしていたことも推測させる。それは、弥生人のように農作業に一面化されず、体全体の神経と筋肉をフルに使って、そういう意味では極めて「健康的な」労働に従事していたためだと言われる。
縄文社会の健康と疾病を「厚生白書」風に叙述するなら、全体的に栄養水準は低いが、食生活は多彩で栄養のバランスそのものはいい。多彩な生活環境のもとで、バラエティに富んだ労働による健康的な肉体と精神を持つ人が多いが、ひとたび出産や乳幼児という弱い場面になると、生命の脆さを露呈する。そのため死亡率も高い。そんな状況ではなかっただろうか?
縄文とは異質(?)の亀ケ丘式土器文化
さて、僕らは驚きと感動に満たされて、三内丸山遺跡を後にした。それから、汽車に乗って、今度は津軽半島に足を伸ばし、縄文時代後期のものである亀ケ丘遺跡を訪ねた。だが、ここで僕らは何とも言えない違和感に襲われた。目の前に陳列してある「亀ケ丘土器」は、あの自由奔放で立体的ないわゆる縄文土器、とは似ていないのである。もちろん、ノッペリした弥生式土器とも違う。むしろ、古代中国(殷とか周とか)の土器のように整った形をしているのだ。
この時代、すでに西日本には、おそらくは朝鮮半島から稲作が伝わり、弥生文化を形成した。これに対して、東日本では中国大陸からの影響を受けた亀ケ丘文化が形成されていたようなのだ。それは、稲作こそ伝えていないようだが、何らかの面で、それまでの縄文文化とは異質なものであったと言えるのではないだろうか?この疑問は、今回の旅では解けずじまいだった。
偉大なる「縄文革命」
旅館に着いてから、僕らは縄文時代というものについて、いろいろとお互いに語ったり、それぞれ物思いにふけったりした。
縄文時代は、約1万年という気の遠くなるような長期間の時代である。しかしそれは、人類200万年の歴史という尺度から見れば、最後の一コマでしかない。その最後の1万年である縄文時代は、世界史的に言うと「新石器時代」である。200万年かけて、人類は全地球に広がった。まずアフリカでゆっくり育ち、やがてアフリカを出て、ユーラシア大陸に広がり始めた。いったん、東南アジアで成長し、その後、シベリアへ、あるいはヨーロッパへと向かい、最後の数万年でベーリング海峡を越えて南北アメリカ大陸へと渡った。これが「旧石器時代」である。
最後の1万年、地球の温暖化に伴って、人類は世界各地で、いっせいに文化の花を咲かせた。栽培農業を始め、土器や織物を作り、高品質の石器を生産し、船を作って交易を始めたのだ。栽培農業、手工業、交易という、今日の文化の基本要素となる文化の素形が全世界で登場したのが、この最後の1万年なのだ。200万年の旧石器時代から脱する、人類の最初の世界同時革命であった(同時といっても1万年なのだが)。
この1万年の半ばを過ぎたころから、世界のあちこちで大河の流域を中心に、農耕を基盤とする階級社会が現れた。その周辺には引き続き「土器文化」を営む社会が広汎に存在していたが、それぞれは孤立しているのでなく、交易を通じて相互に関係し合っていた。その中に、交易の要衝に位置する都市社会がいくつも存在した。そのひとつが、三内丸山遺跡だったのだ。
その後の階級社会の展開は、この延長上にあるといってもよいのではないか。この1万年の後半期に、農業や遊牧や手工業や商業を基盤とした、様々な形態の階級社会、すなわちマルクスが、アジア的とか、ギリシャ・ローマ的とか、ゲルマン的とか、スラブ的とか呼んだ社会が展開していくのである。そして三内丸山社会も、こうした諸展開の初期の一コマとしての位置を占めているのである。
遥かな過去から遥かな未来へ
そして、最後の約500年に、人類は「第二の革命」である「市民革命」の時代に突入したのだ。それは、スペインのラテン・アメリカ支配に始まり、イギリスの市民革命等を経て、アジアの独立運動に発展し、ロシアのペレストロイカへとつながった。それはまた、資本主義経済が全地球を覆う過程でもあった。今日、それはほぼ完了しつつある。世界的な規模で「市民社会」が形成されつつある。
そして今、我々は人類の「第三の革命」を展望する地点に立っている。「諸階級と階級諸対立をともなう古い市民社会に代わって、各人の自由な展開が万人の自由な展開の条件であるような、ひとつのアソシエーションが出現する。」とマルクスは、予見したのだが、それはいったいどのような社会なのだろうか?
遥かな過去から、遥かな未来まで、いつになく僕らの思いは広がっていった。縄文遺跡への小さな旅は、実は人類が巨大な旅の途中にあることを、僕らに思い知らせてくれたようだ。- (福岡・M)
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- 小さな旅
須之内コレクション満喫 宮城県美術館(上)
うだるような大阪の暑さを逃れて、先日、東北に山登りに行ってきました。そのとき、仙台市にある宮城県美術館に寄りました。いい作品といくつも出会えました。
洲之内コレクション
特にユニークなものを紹介してみますと、まず、井上肇「軍服」。
これは、宮城県美術館が所蔵する「洲之内(すのうち)徹コレクション」の一つです。洲之内コレクションというのは、東京銀座の「現代画廊」という画廊のオーナーだった洲之内氏が、長年、自分の好みに合わせて集めた作品の数々で、それを氏の没後、宮城県美術館がそっくり譲り受けたもの。
洲之内氏(一九一三〜八七年)というのは、なかなか複雑な人物です。僕は最初、氏が戦前のプロレタリア美術運動の出身で、後に特高に捕らえられ、拷問を受けて転向し、軍属となって中国大陸に派遣されたことを知って、「なんだ、裏切者か」ぐらいに思っていました。また、司修『戦争と美術』(岩波新書)という本を読むと、戦争中軍部に迎合し戦争画を描いた藤田嗣治を批判する立場で著者の司氏が登場するのに対し、司氏の藤田評価に異議をとなえる人というかたちでこの洲之内氏の名前が引き出されていて、それを見て僕はあらためて、「やっぱり……」と思ったりしていました。
ところが、その後、洲之内氏自身の書いたものを読んでいくと、そうした自分の評価、判断がかなり単純で底の浅いものであることを僕は思い知らされ、いろいろ考えさせられました。
例えば、転向ということについても、僕が勝手に想像していたのとは違って洲之内氏はべつに居直っているわけではありませんでした。しかし他方、あの当時の、反戦運動、革命運動、さらにはプロレタリア美術運動って何だったんだろう、転向しないそれが、ではどこまで正しかったんだろうかということは、氏は直接そういうことを提起しているわけではありませんが、氏の文を読んでいるといろいろ考えさせられます。だがこのあたりは、書き出すと長くなりますので、またの機会に。
芸術の評価ということ
また藤田の評価にしても、司氏の本から僕が勝手に想像していたのとは違って、洲之内氏はべつに藤田の軍部への迎合を擁護しているとかいうのではありませんでした。藤田のそういう行為と藤田の画業全体とを同一視することはできないこと、前者をもって、それだけで後者を判断する、そういう評価は芸術というものを考えていくうえで安易ではないかとしているのでした。
そういえば、この点でいちばん極端なのが共産党でしょう。「赤旗」を読んでいていつも思うのですが、共産党は、美術家であれ音楽家であれ文学者であれ、その人が共産党に近い人なら、どう見ても大したことない人、大したことない作品でも褒めあげます。そして逆に、その人が政治的に他党派に近いとか、あるいは特に元共産党員で後に離党したという人の場合は、絶対に褒めません。
洲之内氏の本を読みながら僕は、常日頃こういう共産党を嫌だなあと思いながらしかし、同じような安易な発想、視点が自分のなかにもあったなあと考えさせられました。藤田に対する僕の態度も、考えてみれば典型的なこれでした。
ちなみに、本紙に転載中の故・須山計一氏の「抵抗の画家」にもやはり、そういうところがあるのではないでしょうか。つまり、どう描いたか、どこまで描けたかということよりも、何を描いたかによってまず、もう、芸術家の評価を決めてしまうようなところが。これも、そういうところを考えながら読まねばと、思ったりします。
「軍服」
ともあれ、その洲之内氏のコレクションがいま、宮城県美術館にあって、常設展示されています。
といっても、常設展示というのは定期的に入れ替えがおこなわれています。井上肇「軍服」も、僕が行ったときたまたま展示されていたということです。ですから、この「軍服」も、後でみる二つの作品も、いつ行っても見れるとは限りませんので、その点ご了承ください。
さて、洲之内氏によれば(『気まぐれ美術館』、一九七四年、新潮社)、氏はこの「軍服」を一九七二年のアンデパンダン展で目にして、買ったそうです。愛着が深かったようで、普段でも「私はこの絵を画廊に掛けていることがある」。すると「よく、私の軍隊への郷愁だろうという人がある」。洲之内氏は言います、「私に、軍隊や軍服への郷愁などあるはずがない。軍隊の思い出は、私の生涯を通じての最も屈辱的な時期の思い出である。それは教育隊の二等兵のときも、佐官待遇の軍属だったときも同じである。二等兵は二等兵なりに、佐官待遇の軍属はまたそれなりに、その受けた人間的屈辱に変わりはない。軍隊というものの機構を知っている人なら誰でもわかるはずである」。
一方、描いた方の井上氏は、一九三二年の生まれで、軍隊の経験などない世代でした。それがどうして「軍服」かというと、井上氏は一九六六年に「ベトナム人民」という油絵で画壇にデビューしました。つまり、ベトナム戦争を凝視するところから出発して、次に時代を逆にさかのぼり、自国のかつての戦争に批判の目を向けたのでした。
改悪?
なお、この作品の題名、「軍服」というのは、元々は「悪夢」という題であったのを、洲之内氏が「軍服」とつけ変えたものだそうです。これだけ聞くと、しかも、その人の略歴や別の人の書いた本だけ読んでいとも簡単にある人間の評価を下していた、上記のような僕の以前の姿勢からすると、「何や、せっかくの題を改悪して」となりそうですが、でも洲之内氏の言葉を聞くと「うーん」とうならされます。結論として「悪夢」がいいとなるか「軍服」がいいとなるかは別にして、それ以前に、少なくとも、僕はこの洲之内という人よりも物事をつっこんで考えるということをはるかにしていないなあということを思い知らされます。
「……しかし『悪夢』では、絵の題ではなく、解説になってしまう。それに、いったいこの作者に、実際にそんな悪夢があるのだろうか。あるとすれば、軍隊を悪夢にして片づけてしまいたがる戦後の、そして現代のひとつの傾向への、作者のやや安易な迎合があるのではないか」。
「井上さんにとって、戦争は『ベトナム人民』以来九年にわたる一貫したテーマで、これからもまだ続いていくらしい。そして、これまでそのテーマを実現するためのモチーフを探し歩いて来たように、今後も井上さんは新しいモチーフを求め続けていくのだろう。
モチーフも、それを扱う発想も、いろいろに変わっていくだろう。どう変わっていくかを予見することはむつかしい。だが、それは、いま私が考えていることとは別のことである。いま私が考えているのは、戦争が絵になるためには、絵としてのリアリティを持つためには、作者を内から支える戦争のイメージがなくてはならないということ、まずそのイメージをしっかりと掴み、それを見失わないために、ひそかに苦闘を続けている若い井上さんの画家としての誠実さということである」。
作品のコピーを掲げておきますが、やっぱりコピーでは迫力は伝わりません。ぜひ機会があれば実作品の前に立って、洲之内氏の提起も含め、戦争について、美術というものについて、皆さん、いろいろ思いをめぐらしてください。
(小川 紀、つづく)
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- 8・6広島集会 戦争も搾取もない社会を
私達は、ここ何年か続けて8月6日に広島へ行っています。今年も兵庫、大阪から車を飛ばして参加しました。
現地に着いたのは明け方の5時ぐらいで、例年なら3時ぐらいに着いて仮眠をとるのですが、あいにく途中で交通渋滞にあい少しだけ休んで5時45分ぐらいにビラまきを始めました。他党派や市民グループはまだどこも来ておらず、一番乗りでした。
私達のビラの内容は、表が「戦争も軍隊もない社会を」「広島・長崎・沖縄・アジア諸国の犠牲を無にせず、現実を変える闘いを」というのを大見出しにしました。裏面は、新聞『Workers』の紹介や、我々がどういう活動をしているのかを紹介しました。
ビラの受け取りは、まあまあでした。今後、このビラを読んで我々に連絡が入ることを期待したいと思います。
ビラまきを終えて、帰りに皆で広島市現代美術館に行き、レオン・ゴラブ&ナンシー・スペロ展を見ました。戦争の状況を独特の絵で描いていました。
最後に、広島市が主催する平和祈念式の「平和宣言」を見て思うのは、核兵器の悲惨さを訴え、核兵器廃絶を訴えています。しかし、現在の沖縄の反基地の闘い、自衛隊の海外派兵、等々についてはしらんぷりです。
私は、戦争のない、軍隊のない、そして資本家による労働者への搾取のない社会を、現在の具体的な闘いと連帯しそれを発展させるなかでめざしたいと思います。
(大阪・河野守)
- 8・9長崎集会 読者と共にビラづくりいつかはデモも
8月9日の、長崎原爆の日に向けて、福岡支部では取り組みを行った。
「ビラで何を訴えようか?」読者と意見交換
まず、事前に読者のNさん等と、当日のビラ内容について、意見交換を行った。反戦平和の集会で言わなければならない問題はたくさんある。原爆投下の歴史的な位置づけ、第二次世界対戦の性格、原爆被害者の補償問題、アジアへの侵略戦争や朝鮮人の強制連行の問題、日本軍の細菌兵器や毒ガス兵器開発の問題、今日の核実験全面禁止条約の性格、中国やフランスの核実験、沖縄の米兵犯罪や米軍基地問題、自衛隊の中東へのPKO派遣の問題、軍核主義や民族戦争をもたらす資本主義の問題、等々。しかし、一枚のビラですべてを語ることは不可能であるので、何を中心に訴えるか?が問題だ。
アメリカが「原爆投下は日本軍の侵略戦争を終結するために必要だった。」と正当化している問題、アジア諸国の人々にもそうした評価が根強いことにどう答えるか?原爆投下が、戦後の米ソの覇権争いをにらんで、アメリカがソ連牽制のために行ったという政治的性格も暴露されなければならないのでは?等、いろいろ話し合った。しかし、結果的には、Workers前号の伊藤さんの文章が、よくまとめてくれているため、これを切貼りして、裏面はサマースクールの呼びかけとし、配りやすさを考えてA4版で作成した。今後は、もう少し福岡の読者との意見交換の回数を増やし、独自の文章で作成できるよう、共同作業を充実させたい。
原水協・原水禁・市民団体、3つの会場で宣伝
さて、ビラを持って、前夜Nさんと共に車に乗り、高速道路で一路長崎へ向かった。長崎のビジネス・ホテルに着いたのは11時半ごろだったが、せっかく来たのだからと、思案橋の近くの居酒屋でビールを飲みながら、翌日の打合せやいろいろなおしゃべりをした。
当日は、原水協系の集会の市民会館、原水禁系の集会の総合体育館の二手に分かれ、手分けしてビラを配布した。原水協集会では、市電や貸切りバスが着くたびに、どっと参加者が降りてくるので、そのたびに、そちらに走ってビラを配布した。ビラを繰るのにてこずっていると、向こうからどんどん手をだして、受け取っていく。原水禁集会でも、同じような状況だったが、少し遅れて市民団体の人もビラ配布に訪れた。
11時頃までには、両会場のビラ配布を終え、市民グループ等が集会を行っている平和公園下の爆心地に行った。ビラの残り枚数がほんの少しになってしまったのが残念だった。来年は、もう少し枚数を増やした方がよさそうだ。この会場は、反核グループや日本山妙法寺、生協のピース・サイクリング、急進派系のデモなどが、それぞれ勝手に思い思いの趣向で、企画を行っていた。将来は、僕らもデモをやりたいな、と思ったが、いつの日のことやら。
すっかり疲れて帰路についた。帰路の途中、佐賀県の山里の温泉に立ち寄って、露天風呂でゆっくり休息した。これも楽しみのひとつだ。
ところで、市民グループのビラにも書いてあったのだが、核実験全面禁止条約の協議の陰で、アメリカは「核爆発を伴わない未臨海実験」という新たな形を変えた核実験を計画しているということである。爆発に至らなくても核物質を用いて、一定の操作をして実験を行うことには変わりがなく、核兵器を今後も開発し保持するということであり、また実験による放射能汚染も続くということである。こうした具体的な事実をもっと知らせていくようなビラ作りも必要だと思った。来年も頑張ろう。
(福岡支部発)
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- フォークなんて古い? 中川五郎 5、受験生ブルース
一九六七年一○月、アメリカで「フォークの神様」とまでいわれているピート・シーガーの来日公演があり、それを聞きに行って、僕はあらためて歌の素晴らしさ、力強さを知り、僕は一生歌いつづけるぞと改めて確信した。
また、この公演の中の「腰まで泥まみれ」という歌は、それ以後の僕のフォークソングに大きな影響を及ぼした。これは、泥沼状態になってどうしようもなくなったベトナム戦争でのアメリカを痛烈に皮肉った歌だが、これを聞いて僕は絶対に歌わねばならないと、その日のうちに訳詞をつくり練習し、二週間後、一○月二五日の第一回フォーク・キャンプ・コンサートで「腰まで泥まみれ」を歌った。
一一月、第二回フォーク・キャンプに参加し、その頃から高石友也に連れていってもらって歌うのでなく、僕ひとりで歌いに行くようになった。結婚祝賀パーティから政治的なピケット・ライン、そして反戦デモまで、「腰まで泥まみれ」「カッコはよくないけれど」などを、前までの歌に新しく加えて歌い歩いた。
六八年二月のフォーク・スクールで、女性の立場をもう一度考えてもらおうと考えてつくった「主婦のブルース」(後述)と、岸・佐藤兄弟を皮肉った「殺し屋のブルース」を、三月のフォーク・スクールでは「恋人よ、ベッドのそばにおいで」という、少女趣味や夢物語でないラブ・ソングを歌った。
五月、大阪労音六月例会「どきゅめんと沖縄」の取材のため二週間沖縄へ行き、「俺はヤマトンチュ」をつくった。
六月のこの「どきゅめんと沖縄」例会の頃から、僕は阪大ニグロ、アプルズと共に大阪の小さな集会で一緒によく歌うようになり、精力的に歌いまわった。
そして六八年一○月、僕はこの阪大ニグロ、アプルズと共に自分たちの今までの運動をまとめ、新たな出発点とするためフォーク・フロンティア・コンサートを阪大講堂で開き、千五百名の人たちと共に、僕たちの歌をうたいあげました。
ところで、その少し前に「受験生のブルース」がマスコミのヒットパレードに顔をのぞかせた。不思議だった。この歌をつくったとき、まさかレコードになるとさえ思っていなかったのだから……。
おいで皆さん 聞いとくれ
おいらはかなしい受験生
地獄のような毎日を
どうか皆さん 聞いとくれ
一九六七年夏、僕は地獄のようなものと違って気楽な(?)受験生活を送っていた。夏休みの補習授業の授業中、講義の日本史にもなんとなく身が入らずボヤッとしていた。そのとき突然、その頃よく大阪のフォークソング集会で歌われていた「炭坑街のブルース(ノース・カントリー・ブルース)」のメロディに乗せて、歌の言葉が浮かんで来て、僕はそのときの授業に使っていたプリントの裏に、一節目を書きはじめ、それにつられてスラスラとまたたくまに十二番までできてしまった。
そして九月の末、この「受験生のブルース」を、初めてステージで歌い、それから後、受験勉強を必死にしなければいけないような状況に追いこまれてゆくのに比例して、この「受験生のブルース」を必死にいろいろなところで歌った。
年が明けて一月に、僕の歌っているメロディはアメリカのものだし、少し暗すぎて広まりにくいのではないかというので、高石友也さんが新しくメロディをつけ直し、それでレコードができて、いつのまにかヒット・ソングになってしまった。
ときどきこの歌が、アングラ・ソング、コミック・ソングとして捉えられてしまうことがあるけれど、僕はそのできあがり方こそ何か発作的だったが、この歌を思いつきやみんなを笑わせてやろうといった気持でつくったのでなく、非常にトピカルな問題としての受験にみんな目を向けてほしかったし、願わくば受験について考えてほしい、そんなことを前々から思っていて、受験というものをテーマにした歌をつくりたいと思いつづけていた。それが、とてもスピーディに、補習授業中にできあがってしまった。
友達に勉強してるかと聞かれたら
全然してないよと答えとき
相手に油断をさせといて
その間に俺は勉強する
テストが終わっても自信なげに
全然あかんと答えとき
相手に優越感与えておいて
後でショックを与えるさ
この歌詞は、受験生のごく当たり前な心理を歌ったものだし、
女の子よりも大事なものは
旺文社の参考書
それに 旺文社の実力テスト
赤尾好夫さま ばんざーい
受験生にとって憎らしい存在である旺文社を皮肉ったものだ。旺文社が受験・受験とどこへでも顔を出し、多くの高い本をつくって売る。受験生としては旺文社クソクラエと思うんだけれど、やっぱりいろんな傾向が載っていたり、旺文社のを使うとうまいこと勉強できる。受験に関しては権威(?)がある等の理由で、旺文社の本を買って使わずにはいられない。
「赤尾好夫さま万歳!」というところなど、僕は受験生としての怒りをこめて歌っている。
また、この歌をそのまま受け取られて、現実はそんなものじゃない、と批判されたことがある。
とてもオーバーな表現を使ったのは、やっぱり皮肉というものを強く出したかったから
で、この歌を聞いて「悲壮だねー」なんていわれると当惑してしまう。
(つづく)
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- 色鉛筆 ありがとう、渥美清
「ニュース見たか、渥美清が逝った」。自宅に帰り着くと友人から一枚のファックスが入っていました。
今年の正月に上映された『寅次郎紅の花』(四八作目)の中の渥美清は確かにその病状の重さを思わせるものがあり、「シリーズも終わってしまうんちゃいますか」と、寅次郎の台詞も覚えてしまっている程このシリーズを愛してやまない椎原さんともよく話していたものです。
車寅次郎は、確かに僕達、四十を回った者達の青春と共にありました。毎年、夏と冬の二回、友達と誘い合って劇場へ出かけていったものです。シリーズの一つ一つのシーンがその時代の僕達の喜怒哀楽とともにありました。
翌朝の新聞の紙面や写真に目を通していると、やはりそれぞれの時代の自分自身にすっかり引き戻されてしまい、改めて彼の死に悲しみを感じずにはいられませんでした。「もうこれで新しい寅さんを見ることがでけへんねんな…」。
昨年の暮れNHKの「現代クローズアップ」で撮影現場の渥美清を追っかけるものが放送されていましたが、その中で彼は、インタビューに答えて「スーパーマンって可哀相だね、何時でも空を飛べないといけないんだね、でも空を飛べないもんね、だって糸で吊るってるんだから。寅さんも人の前で何時も笑ってないといけないもんね…」。
僕は、何とも言えない悲しみを感じました。選ばれた者達が背負わされた重い重い宿命を彼のつらそうに歩いている姿の中に見て取ることができました。僕もまた彼にその宿命を負わせた一人なのかもしれません。
彼の死は、三日間ふせられました。「『死んだ顔は絶対に見せるな。家族三人でみとり、骨にしてから世間にお知らせしろ』と、病床で強く本人に言われていました」。これは、遺言によるものだったのです。「宿命」を最後の時まで貫き、一つの時代を駆け抜け、多くの人達に笑いや涙や励ましを贈り続けてくれたのだろうと思います。
僕は、寅さんだけを愛したのではありません。テレビドラマの『泣いてたまるか』や『拝啓天皇陛下様』など心に強く残る作品もたくさんあります。
『泣いてたまるか』を見ながら、鉄工所で働き慎ましい生活を送っていた父親が涙ぐんでいたことをはっきりと覚えています。彼の作品の多くは、誰よりも労働者達から愛され迎え入れられたものであったことは言うまでもありません。
渥美清の死は、椎原さんに、つらい夏を送らせることになりました。きっとこの『Workers』の紙面に取り上げ、もっと深く渥美清を愛させてくれることでしょう。
「国民栄誉賞」など彼には全く相応しいものではありません。誰よりも彼が、そう考えるだろうと思います。『Workers』から、細やかな気持ちを彼の死に送ります。「ありがとう渥美清」。
(寿)
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- 地声人歌
黒板の文字なつかしき昼下がり
「下ノ畑ニ居リマス 賢治」
俵 万智
宮沢賢治が自宅の入口に黒板を吊るし、伝言板にしていた事を踏まえます。その賢治、一八九六年八月二七日に現・岩手県花巻市に生まれ、今年はその百周年ということで、ブームです。が、賢治が当時、マルクス主義者の一グループであった労農派のシンパで資金援助までしていた(青江舜二郎『宮沢賢治』)という事実については誰も触れません。もっとこういう面に光が当てられるべきだと思うのですが。
(小川紀)
- くたばれ「おシャンソン」!
」」」私の求めるシャンソンと歌い手たち
森本理子(歌手)
初めまして。
私はシャンソン歌手の森本理子といいます。『Workers』紙上で、椎原さんに何度か私の歌をとり上げて頂き、感謝の気持ちでペンをとりました。
「歌手」などと偉そうに書きましたが、実は私は歌など歌える人間ではなかったのです。 私は子供の頃から声が異常に低く、いわゆる「子供らしく」ない声をしておりました。小学校の音楽会では、先生に「邪魔になるから、お前は歌わずに口(くち)パクでやれ。」と言われていたんですから。
そんな私がどうして歌うようになったかというと、それはダミアというシャンソン歌手の歌をたまたま、深夜ラジオで聞いたからでした。
それは「暗い日曜日」という歌で、第一次世界大戦後、ヨーロッパでヒットし、それを聞きながら、自殺する人が余り多いため、放送禁止になったという、いわくつきの歌でした。
暗い歌ですが、彼女は悪声にもかかわらず、素晴らしい歌唱力で私の心を、とらえました。そして、彼女がまだかけ出しの頃、声が低く、オーディションにことごとく落ち、「お前の声は女の声じゃない。歌うのはあきらめろ。」と言われていたにもかかわらず、歌い続け、数多くの人々の支持を得たというエピソードも、私の心を打ちました。
さて、こうやってダミアのコピーをしていた私はシャンソン教室というものに入門したのですが、私の想像していた世界ではなく、私の好きな歌とは全く正反対の世界でした。 そこで私は自分が異端児であり、日本のシャンソンファンの多くは、「タカラヅカ」とか、「おしゃれなフランス」に盲目的に憧れている、小金持ちの人々であるという事を認識しました。
なぜか、ある店のオーディションに合格し、シャンソン歌手として出発しましたが、私の歌は受け入れられる事が少なく、私はある決心をしました。「もしかしたら、私の歌を聞いてくれる人は他の場所にいるのではないか? シャンソニエを出て、他ジャンルのライブハウスで歌ってみよう。そしてそこで拒絶されたら、もう歌はやめよう。」と。
決心の後、私はノンジャンルのライブハウスに出演しましたが、そこで初めて熱い体験をしました。10代、20代の若者中心のその店で、彼らは私の歌を静かに、熱心に聞いてくれ、そのうちの何人かは、楽屋に訪ねて来てくれ、感想を言ってくれ、私を抱きしめてくれました。
その時歌ったのは、ジャック・ブレル、セルジュ・ゲーンズブール、バルバラ等、私の愛する人々の歌でした。日本ではシャンソンは甘く、ロマンティックなものと思われているようですが、違うのです。
フランス人は「唯一の個性」を重んじる国民なのです。ただ美しいだけの歌は認められません。その代り、超越した個性と、自己主張を重んじるのです。国家としてのフランスは好きにはなれませんが、フランス人のこんなところはとても好きです。
そんな彼らが愛する歌手たちを御紹介しましょう。
●イブ・モンタン 「枯葉」でおなじみの代表的なシャンソン歌手。日本では小粋なパリジャンで、ブルジョワだと思われていますが、放送禁止となった「兵隊が戦争に行くとき」を歌った、貧しいイタリア移民でかつては共産党員でした。
●ジャック・ブレル
ベルギー人。祖国を愛しながら、その祖国を告発せざるを得なかった彼。コミカルな風刺の歌から、人間の本質に迫る永遠の歌まで、幅広いレパートリーと人間性が聞く者を魅了します。
●セルジュ・ゲーンズブール
ジェーン・バーキンの元夫で、アナーキーと言えば彼のこと。
最近では何故か彼の歌を聞く若い層が増えたが、例え、とっかかりは何であろうと、人々が彼の歌を聞くのは良い事!
●バルバラ
ロシア系ユダヤ人。
彼女の歌は、かたくななまでに美しい。フランスでは、パンクも聞くが、彼女のファンでもあるという、若い世代でコンサート会場が埋めつくされるというのが嬉しい。
●レオ・フェレ
一昨年90才という高齢で死去。
彼は死ぬまで枯れた大人になる事なく、若い感性と、怒りを持ち続けた。
ルイ・アラゴン作詞で、彼が作曲した「赤いポスター」は、1944年、ドイツ軍占領下で殺された、レジスタンスの人々を歌ったもので、数多くの心ある歌手によって、歌い継がれている。
●エディット・ピアフ
「愛の讃歌」の創唱者。
日本では「愛の讃歌」は、結婚式の余興に歌われる、甘い歌に誤訳されているが、実際は、もっと激しい内容の歌である。ピアフは、極貧の環境に育ち産院へ行くお金のない母によって、パリの街頭で、産み落された。
アルコールやドラッグに身を蝕まれながらも、命の限り、歌い続けた。
彼女のオランピアでのラストコンサートには鬼気迫るものがある。
いかがでしたか?
シャンソンに対するイメージ、少しは変わりましたでしょうか?
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- 第2回「Workersライブ」の日時決定
あなたが求める歌がここに 森本理子さん登場
暑い日が続いております。皆さん、いかがお過ごしでしょうか? まずは、その暑さを吹っ飛ばすうれしいお知らせから。
実は、「Workersライブ」の第2回を『Workers』7月1日号で紹介の森本理子(もりもとりこ)さんが引き受けてくださったのです。日時は11月24日(日)午後2時から。場所は前回と同じ大阪中津のミノヤホールです。今から、カレンダーに印を入れて、この日は絶対空けておいてくださいね。内容は9月以降の『Workers』紙上でお知らせしていく予定ですので、お楽しみに。
さて、今回の『Workers』、その森本理子さんが原稿も寄せてくださいました。ライブが実現し、そのうえ原稿も書いてもらえて(ちょっとファン感情が出すぎかもしれませんが)僕は有頂天。理子さんにはホントに感謝しています。
理子さんの原稿の「私の歌を聞いてくれる人は(シャンソニエではなく)他の場所にいるのではないか?」というところを読んでいて、5月の理子さんのライブのことを思い出しました。
それは今年の5月5日。大阪市役所のすぐそばに中之島公園という公園があるのですが、この5月の連休の期間に「中之島まつり」が開かれ、市役所の周辺から公園の一帯は屋台やらフリーマーケットやらでいっぱいになります。歌もあります。大きなメイン・ステージとは別にフォーク系の歌い手の人たちが中心に運営している野外ステージが市役所前の道路に設けられているのですが、そこに理子さんが出るというのを「まつり」見物に行ってたWorkersの会員から教えてもらいました。
で、お察しのとおり。もちろん出かけてきました。帰ってらかそのライブの様子を大阪の会員にファックスで送ったんですが、以下はそのときの文章です。
ありがとうございました。
おかげで今日の「中之島まつり」で無事に森本理子さんのライブを見ること(聴くこと)ができました。
理子さんのライブは3時20分位から始まったのですが、前のグループのときにたくさん人が集まっていたのに終わるとガラッといなくなってしまいました(何やねん、今から理子さんが出はるんやぞ!)。入れ代わるように正面に僕を含めた理子さんの固定ファン4人が陣取り、後はパラパラでした。他の3人の固定ファン(恐らく僕なんかよりずっと古いファン)、3人とも30〜40才ぐらいで短髪に髭をたくわえGジャンといういでたち。たしか1月のミノヤの理子さんのバースデー・コンサートで花束を渡していた人たちです。「中之島まつり」でも理子さんのライブの直前に現れ、理子さんが終わるとサッと消えてしまいました。「理子さんのあの歌よかったですねぇ」とか一度話してみたいと思いました。
ライブはよかったです。『Workers』で紹介した「さあ続け!」という反戦歌、それに「地下鉄の切符切り」も歌われ、またまた涙が出てきました(ごつい男が4人揃って涙を流している場面をご想像ください)。
気がつくと人がいっぱい集まっていました。反戦歌「さあ続け!」は迫力があったし、理子さんのスタイル(白塗りに黒のセーター、黒の革ズボン、黒のブーツ、黒の帽子)がちょうどパントマイムの芸人さん風。それに、表現自体もパントマイム色の強い一人芝居風といった感じなので目立ったのでしょう。演劇的表現の多いシャンソン歌手の人たちの中でも異色のスタイルです。「さあ続け!」の後、大きな拍手が沸き起こりました(ヤッタ〜と隣の人たちと手を取り合って喜びたかったのでした)。
「シャンソン歌手」という枠を踏み越えての理子さんの挑戦はきっと実を結ぶと思います。そして、その歌は、きっと『Workers』の読者の皆さんからも(僕がそうだったように)「自分の求めていた歌はこれだ」という大きな共感を得られるものだと思います。第2回の「Workersライブ」、ご期待ください。
(椎原一夫)
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