巻町原発 懲りない面々に再度の鉄 を
テレビCM、地域交付金等々… 巻き返しをはかる電力資本と政府


 巻町の住民投票で一敗地にまみれた原発推進派の巻き返しが、早くも始まった。関西電力は大物俳優高橋秀樹をスポットCMに起用し、原子力発電の必要性を強調している。しかしその内容は限りなく嘘っぽいもので、何がなんでもイメージアップを図りたいという思わくが見え見えだ。
 さらに強力なバックアップとして、原発推進に新交付金「原子力発電施設等立地地域長期発展対策交付金」(仮称)が登場する。新聞報道によると、通産省が8月21日に新設を決定したこの交付金は、原発の運転開始から廃炉前の終了まで長期間立地の市町村に支給される。交付金は出力100万キロワットで年間8千万円、運転開始後15年経過している原発には4千万円が上乗せされる。何やら「揺り籠から墓場まで」というキャッチフレーズを思い出させる、至れり尽くせりのサービスだ。
 原発にはすでにに6種類の交付金や補助金があるが、その費用は「電源開発促進税」でまかなわれている。この税金は毎月各家庭が支払う電気料金から徴収され、その税率は約2パーセントだ。1974年、田中角栄首相の下で成立した電源3法(電源開発促進税法・電源開発促進対策特別会計法・発電用施設周辺地域整備法)は原発建設に大きく貢献した。この時創設された「電源開発促進税」は使途が特定された目的税で、当時の中曽根通産相は「発電所を受け入れる地域の皆さんは迷惑をこうむっているので、福祉を還元しなければバランスがとれない」とその趣旨を説明した。
 以上のようなありさまで、今ここに第7の交付金(迷惑料・買収費)が創設されようとしている。財源として50億9000万円が、来年度予算の概算要求に盛り込まれるという。これまでさんざん札ビラで顔を叩くようなことをしてきて、まだ足りないというのか。金づると利権に溺れた政治家や官僚、そして電力資本や原発メーカーにさらなる鉄槌を! 
 (晴)

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米軍用地強制使用の代理署名訴訟
沖縄の声踏みにじる最高裁判決 住民投票に勝利しよう! 


8月28日、最高裁大法廷は、沖縄の米軍用地の強制使用のため首相が太田県知事に土地・物件調書への署名代行を求めたいわゆる代理署名訴訟で、先の福岡高裁判決を支持し県側の訴えを棄却しました。
 判決理由は、駐留軍用地特措法は合憲、今回の土地使用認定で無効となる落ち度はない、知事の署名代行執行の怠慢を放置することで著しく公益が害されることは明らか、というものでした。
 法廷では、裁判長が主文を読み上げた直後、「沖縄の心がわからないのか!」「最低裁!」「沖縄の50年がわずか30秒で終わるのか!」との怒りの声が次々とあがり、法廷は1時間20分にわたって異例の抗議の場と化しました。
 幾人かの裁判官が沖縄の実状への「同情」の補足意見を示したとされますが、それさえ「基地が集中している現状はわかるが、解決は司法の審査の限界を超えている」という程度で、「沖縄の基地縮小は国の責務」と述べざるを得なかった先の福岡高裁判決と比べても大きく後退しています。
 裁判の過程では県側が準備していた反戦地主や自治体主張や学者など計23人の証人が却下されるなど、裁判所による国側に有利な訴訟指揮も目立ちました。
 この判決は、最高裁大法廷もまた、基地禍に苦しみ、戦争を憎む住民の思いを一顧だにせず、国の軍事・外交政策に追随するばかりであることをあらためて明らかにしました。
 来る県民投票で、沖縄住民の意思を知らしめようではありませんか!
 危険な日米安保新体制を告発する

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脱原発の流れを! 巻町住民の意思の流れを全国へ

原発建設「ノー」

 原発建設に「ノー」の審判が、八月四日の新潟県巻町の住民投票の結果で示されました。この結果を受け、巻町の笹口町長は、原発予定地の町有地を売却しないことを表明し、巻町での原発建設はストップが決まりました。
 住民投票に向けて電力業界は東北電力だけでなく、東京、中部、関西などの電力会社が加わり電力業界の総力を上げて巻き返しをはかりました。電力会社の原発職員が多数動員され、また買収まがいの格安の原発見学ツアーも企画され、批判をあびていました(途中で中止)。
 一方通産省・資源エネルギー庁は6月始めから毎週「連続講演会」を開き、まさに業界、国が背水の陣で挑んだ住民投票でした。その結果の敗北ですから国・電力業界が受けた打撃は相当なものがあります。
 原発反対一万二千四百七十八票、原発賛成七千九百四票と六割の反対票という大差は反論の余地すら与えない結果となっています。

全国で五カ所の住民投票条例

 原発をめぐる住民投票は巻町の他、宮崎県串間市、高知県窪川町、三重県南島町と紀勢町で制定されていますが、串間と窪川は九州電力と四国電力が計画を「凍結」「休眠状態」として「断念」しています。
 南島町では八月四日町長選挙がありましたが、原発反対派同士の争いで予定される芦浜原発は推進できない状況です。
 また原発被爆の死者を出した「静岡県浜岡町では五日、住民グループが中部電力浜岡原子力発電所5号機増設の是非を問う住民投票実施の要求書を浜岡町長に提出(八月六日「東京新聞」)」しています。

住民無視のツケ

 国内の商業用原発は現在四九基、総出力は約四千百十九万キロワットで発電量の三〇%を占めていますが今回の住民投票の結果は国の電力政策そのものの転換を迫るものとなっています。
 国や電力会社は原発建設にあたって「公開ヒアリング」や「公聴会」を実施してきましたが、入場制限をしたり、機動隊に守られてのものでした。「理解」を求めるといったものでなく、国の政策の押しつけであり、原発への不安・不信を取り除くためのものではありませんでした。国からの交付金や多額の地域振興と称する金でもって買収してきたのが今までのやり方でした。
 国・電力会社は、住民投票実施という事態になって始めて住民に「理解」求める行動に出たのですが、時すでに遅しでした。脱原発の流れは大きな流れへと成長しつつあるのです。

原発は理解されていない?

 国や電力会社は、投票結果に対して、「原発に対して十分な理解が得られていない」として原発推進の方針は変えないとしています。しかしながら八八%の高投票率が示しているように、高い意識の中での投票であり、住民が原発に対して十分考え抜いた結果であるといえます。十分理解していないとする国、電力会社のコメントは、投票した人々に対して非常に失礼であるばかりでなく、思い上がった言動と言えます。

大きなリスク

 原発事故は大事故が起きればその地域だけでなく広範な地域が汚染され、全滅し、何十年、何百年ににわたって汚染地域は使用不可になります。放射性廃棄物の処理方法も未解決のままです。こうしたリスクを負ってまでも原発建設する必要性はどこにもありません。電力会社のもうけのために生命の危険を侵すことはないのです。
 (伊藤俊康)

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「国民基金」の一時金は欺瞞
事実を明らかにし、国の責任で補償を


8月14日、政府は「国民基金」を通してフィリピンの元軍隊慰安婦の女性に一時金支給を行いました。
 マスコミや知識人の一部にはこの国民基金構想を評価する論調も見られます。しかしこれが全く欺瞞的なものであること、そればかりか日本の戦争犯罪、軍隊慰安婦問題の全容を明らかにするよう迫り、日本の国家の責任を追及する内外の民衆の運動に対する露骨な挑戦以外の何ものでもないことは明らかです。
 橋本首相は、日本の国家が行ったこの恥ずべき犯罪行為に対してついに謝罪の言葉を発しませんでした。単なる「道義的責任」の言葉でことを済まそうとしたのです。もちろん「謝罪」が国家補償につながることを恐れ、また明確に疑問の余地なく日本の国家と軍隊の責任を認めることは、ブルジョア政治家としては容認しがたいことだったのです。
 この一時金支給に対して、韓国や台湾や多くのフィリピンの元慰安婦の女性たちは「国家補償をこそ行え!」「カネの話しより事実の解明と公表が先だ、日本政府は全てを明らかにして国の責任を認めよ」抗議の声を上げています。
 またこの国民基金による「救済」計画からさえ枠外に置かれた国々の元慰安婦の女性たちも怒りの声を上げ、事実の公表と国家補償を強く要求しています。
 もちろん、自らと家族の生活の困窮から一時金を受け取った女性たちを責めることは出来ません。許し難いのは、その窮状に付け入って、国家責任の明確化と国家補償を要求する人々の運動に分断を持ち込もうとする政府やそれに追随する御用知識人たちです。
 日本政府は、軍隊慰安婦制度とその被害の全容を究明するための手だてと、被害者への国家補償を直ちに行え!

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危険な日米安保新体制を告発する
沖縄の米軍基地をどうすべきか−欺瞞的な整理・統合・縮小−


 戦後50年の間に蓄積された、あらゆる矛盾が現代社会を揺るがしています。そうした中で、ともすれば見失いがちな方向性を模索し、確かなものとするために、『現代を問う会』は考え、行動しようと思います。
 その第一歩として、安保と沖縄の問題を取り上げます。八月二八日には「代理署名訴訟」の最高裁判決が予定され、九月八日には全国初の県民投票(基地の縮小・地位協定の見直し)が実施される等、沖縄の夏は熱く燃えています。私たちは沖縄の戦後五〇年を知ることを通じて、沖縄の基地問題に迫りたいと思います。 日本政府はこの間の沖縄の反基地闘争を押さえ込むために、米軍基地を「整理・統合・縮小」して約二〇パーセント削減すると言っています。しかし、一方で「近い将来を展望したとき、現在のアメリカが日本に駐留している兵力構成、水準は必要であり、そのために必要な基地はぜひ使わせていただきたい」(池田外務大臣)ということも強調しています。これは、沖縄の米軍基地面積は減らすが、全体としての基地機能は維持・強化しようというものです。
 四月一七日に発表された、橋本とクリントンによる「日米安全保障共同宣言」には、「二一世紀に向けての同盟}と副題されています。これによって日米安保は、二一世紀を目指す新体制に移行しようとしています。
 彼らは、日米同盟がアジア太平洋の平和と安全にとって重要な役割を果たしてきたと自賛し、今後も米軍の存在が「依然として不安定性及び不確実性が存在する」(共同宣言)この地域には必要だと言っています。これが全くでたらめであることはベトナム戦争一つとっても明らかであり、実体はこの地域への(自国の利益のために他国を犠牲にする)帝国主義的介入にほかなりません。
 こうした動きは安保の「再定義」などと言われていますが、実際上安保条約の「改定」そのものであり、本来国会で審議されるべきもので                        も、住専国会のように結果は決まっていたでしょう。とはいえ、橋本首相の署名だけで済ましたことは、再軍備のために積み上げられてきた解釈改憲の延長であり、見逃すことはできません。
 アジア太平洋とはかっての戦争で大日本帝国が侵略した地域であり、沖縄はその時捨て石とされました。今また、同じ歴史がくりかえすかのように、新安保体制が動き出しつつあります。沖縄の基地闘争は、そうした新たな、歩みを踏み出そうとしている日米同盟に

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アメリカの経済学者による ソ連国家資本主義論の最新論文
ソ連の教訓――マルクス理論をより高めるために スティーブン レズニック, リチャード・ウォルフ /共著 叶秋男/訳


われわれは、剰余労働の生産と分配を社会分析の切り込み点とするマルクス的理論によって引き出されるソ連の階級構造についての問題を提起することから始める。そうした剰余労働を遂行したのは誰か、その剰余労働の果実をまず受け取るのは誰か、そして最後に、こうした取得者たちがこの剰余を次に誰に、どれだけを、どんな目的で分配し、いかなる結果がもたらされたのか。
 工場および農場報告、歴史書、経営研究を読んで確信することは、ボルシェビキ革命から今日まで、国営企業の労働者以外の人間が、いつでも労働者の生産した剰余の最初の取得者であったことである。剰余を生産した人間とそれを取得する人間のこの違いは、共産主義の階級定義をなす両者の同一性と完全な対照をなす。したがってわれわれは、共同財産所有と国家計画にもかかわらず、ソ連には剰余労働の共産主義的な生産・分配形態はまったく存在しなかったと結論する。
 われわれはまた、これまでのわれわれの実証研究に基づいて、国営企業には封建制あるいは奴隷制といった他の非共産主義的階級構造は存在しなかったと確信する。国家官僚が賦役労働や小作料といった封建制形態、あるいは直接的労役といった奴隷制形態で剰余を取得した証拠は見いだせない。さらに、封建制階級構造もしくは奴隷制階級構造のいずれかを保障しうるような特殊な政治的、文化的、経済的制度があった証拠も見いだせない。ソヴェト労働者は、例えば、奴隷制におけるように剰余労働取得者の財産でもなく、封建制におけるように個人的義務を通じて取得者の所有財産に束縛されたのでもない。そんなわけでわれわれは、その全歴史を通じてソヴェト国営企業(工場および農場)の特殊な階級構造は、共産主義的形態でも、封建的形態でも、奴隷制的形態でもなかったと結論する。証拠が物語ることは、それが資本主義形態に類似していたことである。
 ソ連の階級構造を表現するのに、なおも別のレッテル──「官僚制政体」、「国家指令経済」など──が広範に使われている(スウィージーやベトレーム)。しかしながら、権力に焦点を合わせる他のアプローチよりも剰余労働に焦点を合わせるわれわれのアプローチの方が、政治的事柄に重点を置く他のレッテルよりも資本主義を連想させる。そのうえ、剰余労働の見地からの階級分析は、とりわけソ連に関する文献に欠落していたものである。次に述べるようにわれわれは、ソ連は、あらゆる資本主義同様に、自らの特殊性を有する資本主義的階級構造を露わにすると信じる。これらの特殊性の細目には、歴史家や理論家にもよりなじみのある私的資本主義とこの構造を際立って区別する国家との関係が含まれる。
 国営企業で働く労働者によって生産される剰余の第一の集団的取得者となる立場にある個人として頭に浮かぶのは、ソヴェトの国務大臣たち、特に閣僚会議(COM)である。したがってCOMは、剰余の第一の分配者でもあった。その分配は主に、(一)重工業の資本蓄積、(二)国家官僚の残りの者たち、共産党、そして軍、および警察機構のための俸給、および運営費、そして(三)全ソヴェト市民(この剰余を生産した人々を含む)による共同消費用の公共財供給補助金であった。こうした公共財は大部分は市場交換を経由することなく、つまり通俗的な慣用語法でいえば「社会主義」のもたらす「無償」財としてソヴェト市民の手に渡った。
 そんなわけでCOMは、工業および農業における国家労働者によって生産される剰余を取得するとともにそれを分配したのである。その分配目的は、COMを剰余取得者かつ分配者として成り立たせるような特定の社会状態──政治的、文化的および経済的──を揺るぎないものにすることであった。他の研究書でも認められているように、これら国務大臣たちは、私的資本主義が標準的である国々の法人理事会に類似したやり方で役割を果たした。
 われわれの分析では、COMの国家資本主義的「役割」は、マルクス的理論に従えば、労働者の労働力の獲得と消費によって定義される。労働力の「消費」とは、労働者に道具や設備をあてがい、原材料に働きかけさせることを意味する。その結果生み出される生産物の一部(マルクスが「必要」労働と呼んだ部分)は労働者に給料としてもどされ、一部は使用された原材料、道具および設備の取り替え用に留保される。剰余生産物と定義される残りのものは即時的かつ自動的にCOMに帰属する。
 ソヴェト的コンテクストでは、この剰余生産物は剰余価値の形態をとる。しかしながら、ソヴェト的剰余価値は独特であった。それは私的資本主義でのように市場取引によってではなく、労働力、資源、そしてほとんどの生産物の価値の国家決定によって実現された。そんなわけで、ソヴェト的剰余価値は、テクノロジー、資源の有用性、労働日の長さおよび強度、その他の習慣的決定因ばかりでなく、価値を分配する国家の行為にも依存した。これとは対照的に、私的資本主義における剰余価値は、習慣的決定因と価値を割り当てる市場の個別事情によって決まる。
 要するに、その場合、国の労働者によって生み出される剰余価値の第一の取得者としてのソヴェトCOMは、労働者との関係において資本家の地位を占めた。それは私的資本家とほぼ同じやり方で労働者を搾取したのである。COMは、工業と農業両方の国営生産企業の中で生み出される剰余価値を領有した。ソヴェト史を通じて、最初に「管制高地」、それからほとんどの生産活動が、こうしたやり方で機能する国営企業に転換させられた。それゆえに、われわれはソ連を国家資本主義と呼ぶのである。
 ところでCOMは、剰余価値の第一の取得者という自らの階級的立場を維持するような政治──権力分配と政治プロセスの編成──を維持しようとした。COMは、個人をCOMの地位へつけるにあたって選定もしくは任命機構を開発した。それはまた、剰余価値がCOMに帰属したようなやり方で投入および産出価値を設定する権限をCOMに与えた党=国家政治体制を維持した。COMは、国営企業の法人格としての自らの地位(私的資本主義における理事会に匹敵する)を確保するために制定されるべき法体系づくりに努めた。それは、配置された労働力や集団的所有の生産手段の効率的利用を含む、国家の経済管理部としてCOMに責務を課する法律を維持した。COMはまた、労働者を剰余労働の遂行に駆り立てるために、あらゆる工業および農業国営企業における指令と規律の制度を発展させた。
 これらのさまざまな政治プロセス──立法、行政および司法──を推進するために、COMは、直属の下部機関やそれらに従属する管理者レベル(特定の国営工場の支配人を含む)からゴスプラン(国家計画局)といった計画機関、共産党職員、それに立法府・司法機関に至るまで、ずらりそろった官僚機関への俸給と運営費として、領有する剰余の一部を分配した。こうした官僚制の再生産は、マルクス的表現をすれば、資本という自己増殖する価値の人格化たるCOMの再生産に役立つものとなって返ってきた。
 国家資本家としてCOMが機能する経済的存在条件の中には、価値体系あるいは価値「法則」の作用があった。この場合の価値法則は、もちろん、ソ連の社会プロセスの特殊形態に固有のものであった。それは、価格を決定する市場取引を排除し、ゴスプランが生産に必要な直接的および間接的労働量であると決定するものに従って投入物と産出物の価値を算定する活動を含む。それゆえに価値の点では、さまざまな種類の生産財が市場管理的相互関係ではなく国家管理的相互関係の中で存在した。
 ソ連の価値体系を構成する別の重要な変数の確定には、ほかの国家官僚が当たった。彼らは、例えば党、労働組合、そして工場組織と共同して、労働日の長さや生産技術を設定した。こうした変数は、ゴスプランが生産における原材料および機械の価値と生きた労働によって付け加えられる価値とを計算する基礎となる。最後に、さまざまな国家官僚が、党および労働者組織とともに、労働者を再生産する賃金および俸給として何時間相当の産出物を彼らにもどすべきかを決定した。
 そんなわけで、COMの領有する剰余価値は、産出物に設定された国家管理価値と全投入物に設定された国家管理価値との差額に相当した。生産手段と労働力の価値総額に対するその剰余価値の割合は、国家資本主義の利潤率を示した。いろいろな国営企業全体でこうして計算された利潤率は──民族的および国民的軋轢を最小限にし、軍事的必要を確保し、社会主義的目標の達成などを含めたCOMの設定したその他の基準とともに──どのように資源を配分するか、どれくらい資本を蓄積するかの決定に使われた。
 これらさまざまな経済プロセス──投入物および産出物の分配、価値計算とその普及、資本蓄積──を維持するために、COMは剰余の一部を所属国家機関に俸給と運営費として分配した。同様に、COMによる剰余価値の取得は、一つにはこうした特定経済プロセスの存在と再生産に依存したのである。
 COMの資本家階級的地位もまた、ある特定の観念や意味を確立し普及させる一連の文化プロセスによって決まった。COMの存在は、一つには、ソ連を社会主義あるいは共産主義とする定義を肯定して国家資本主義の概念を抑圧したイデオロギーの産物であった。ソヴェト社会主義あるいは共産主義は、階級搾取をなくし階級社会を破棄したがゆえに、史上初めて、単なる形式ではなく真の民主主義を達成したものとして描き出された。そうした解釈は、労働者たちに自分のためよりも集団(COM)のため剰余労働を遂行させるのに役立った。というのも、労働者たちは、少なくとも幾分かは、官製文化の言説を信じるようになったからである。その意味で、ソヴェト労働者は米国の労働者に類似してきた
。違いはあるものの、二つの文化は共通した結果を生んだ。いずれの国の生産的労働者も、自分たちがいかなる形の階級搾取にもあっていないと信じていたのである。この要素は、いずれの国でも搾取を容易にし持続させる強力な手段となった。
 そのためにCOMは、出版、学校、講演、映画、そして博物館で、こうした意味体系を創作し普及させるために、共産党職員、教育者、マスメディア機関などへ運営費と俸給として剰余の一部を別個に配分した。前述したさまざまな政治および経済プロセス維持のための分配に、この「文化目的」の剰余価値分配が付け加えられた。こうした分配が全体として、COMが資本家階級的地位を再生産するのに必要な多くの条件を国家、党、その他に提供するのを可能にした。
 ソ連において「共産主義に向かって前進する社会主義文化」という繰り返し語られたセルフ・イメージが意味したことは、ほとんどすべての人間が、実際には国家資本主義であるものの成功をそうした「社会主義」と同じものとして扱ったということである。このイメージにともなうリスクは、もし失敗が起こったときには、国家資本主義があらゆる責任を免れてしまうことであった。それゆえに一九七○年代にもろもろの失敗が起こり、一九八○年代に爆発的になると、非難は社会主義と共産主義に向かった。したがって、解決策は必然的に社会主義と共産主義でない「別物」、すなわち資本主義への移行であるように思われた。そのためにほとんどの転換支持者も、批判者も、実際は国家資本主義から私的資本主義への転換であるものをまるで社会主義から資本主義への転換であるように議論し論争しつづけている。
       (つづく)


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ビルマの人権 21   ジャーナリスト 菅原秀

ビルマ人活動家仙台で拘留中

 六月二十日、東京在住の元ビルマ人学生活動家が仙台に出稼ぎに行った。初めて訪ねた森の都で嬉しかったのだろう、自転車に乗って町を散策していたところ警察官に尋問され、不法在住であることが発覚した。 この三人は一九八八年中心にラングーンでの学生運動に参加しており、目前で友人が銃殺されたりした状況の中でタイに逃れ、最終的に日本に逃げてきた。
 その後三人は民主ビルマ学生組織(DBSO)という民主化団体に所属し、日本国内でも民主化運動を続けてきた。
 民主化運動に参加して日本に逃げてきた活動家は数多い。飲食店などで働いている若いビルマ人のかなりの部分がそういった人々である。
 これら民主活動家のうち数十人が日本政府に亡命の申請をしている。一九九四年九月、そのうち十一人の申請が却下された。理由は日本に上陸してからすぐに亡命の申請をしなかったので認めることができないという手続きの問題だという。 この問題については別な機会に触れるとして、とにかく強制送還をされたら逮捕される可能性のあるビルマ人活動家がたくさん日本に在住しているのが事実だ。 仙台で尋問を受けた三人は外国人登録証不携帯で逮捕され、仙台北警察署に拘留された。さらに三人は送検され、現在は裁判待ちの状態で刑務所に移送されている。あいかわらず拘留されたままだ。
 ビルマ人難民問題を無償奉仕で扱っている「ビルマ難民弁護団」の渡辺彰悟氏とビルマ語の通訳が仙台に急行し、仙台入国管理事務所に亡命の申請をした。申請をしない限り入管が強制送還する可能性があるので、緊急にとられた手段である。 検察では軽重な違法行為であるにもかかわらず、逃亡の恐れありとして、釈放を拒んでいる。
 在日ビルマ人活動家は、ごたぶんにもれず、経済的に大変な状態である。さらに日本のミャンマー大使館は在住ビルマ人全員をどうかつして、税金と称する上前金を毎月収めさせている。これを拒否すると旅券が取り上げられ、ビルマ人であることが証明できなくなってしまう。一種のかつあげに似た犯罪である。
 この上前金は月に最低一万円以上または収入の一割以上とされているのでビルマ人にとっては大きな負担である。もちろんミャンマー大使館が日本国内で自国民から税金を徴収する権利などはない。この件で筆者は法務省に調査を依頼しているが、「違法行為の可能性あり」としながらも、いまだに捜査に着手していない。また大蔵省にも交渉したが、とまどっているだけで、あの強権的な国税庁も食指を延ばそうとしない。日本に居住する労働者から国税庁と無関係なのあやしげな団体(軍事政権の大使館)が徴税しているのに、捜査をしないのだから、なんともだらしない。
 したがってビルマ人たちが弁護のための費用や保釈金などの調達をするのはきわめて難しい。自分の住む場所の家賃を払って、食って行くだけがやっとだ。しかし弁護士の無償活動にも限度がある。仙台までの新幹線代も馬鹿にならない。 なんとか、この三人の救援活動に力を貸して欲しい。連絡先〒一〇二東京都千代田区隼町三ー一九はやぶさ法律事務所、渡辺彰悟弁護士。電話〇三ー三二六三ー三八八一。


スーチー逮捕報道

 さてこの三人が逮捕される寸前、六月十九日の毎日新聞に「アウンサンスーチー週末にも逮捕か」という一面記事が出た。
 実は一八日の午後にラングーンの外交団の間で「SLORCがスーチーの逮捕の準備をしているらしい」といううわさが流れ、毎日新聞は一八日の午後七時ごろに政治部が外務省筋から得た情報も同様だったことから、掲載に踏み切った。真偽はいまだにわからない。しかし後日、日本外務省ビルマ担当者ははこのうわさはスーチーのまわりから出たのではないかという非公式見解を述べている。失礼な考え方だ。
 当のスーチーさんは二十日に自宅に訪ねてきた毎日新聞の藤田記者に「十八日の毎日新聞報道はとても不愉快です」と話している。 とにかく、この報道に驚いたミャンマー民主化促進議員連盟(会長・小杉隆、自民)は六月二十一日に緊急集会を開き、今後の対応策を検討した。
 国会が休会になった直後であり、議員の集まりは思わしくなかったものの、逮捕のような事態になれば、かなり強い態度をとらねばならないとして事務局レベルで臨戦体制をとろうという形で散会した。


池田外務大臣の事実誤認

さて、7月にジャカルタでひらかれた開かれたASEANの会議には、ビルマ軍事政権の外務大臣オンジョー氏も招待され、オブザーバーとしての資格が認められ、オンジョー氏はさらに正式メンバーに迎えてくれることを強く要請した。
 フィリピンなどがこの決定に不満を持ったが、人権保護を自称する日本の代表からはとくにクレームはでなかった。
 この会議のあとに池田行彦外務大臣は同行の日本人記者団に次のような発言をした。
「スーチーさんも民主化に向けて国内での対話努力をしなければならない。外国のテレビの前で話しているだけではないか」
 実際のところ池田氏はビルマの情報にはうといと思われるので、これは外務省職員からの入れ知恵があっての発言であろう。しかし、重大な事実誤認である。
 ビルマ国内のマスコミはすべて軍にコントロールされており、スーチーさんの意見を国内で発表することは不可能なのである。自宅前の毎週土曜日の集会が唯一の情報発表の場所であり、聴衆は警察に見付からないようにその演説を録音して、そっと伝達している状態である。池田外務大臣はスーチーに対してビルマの何という新聞あるいは何と言うテレビでその意見を発表しろというのか。
 確かに、五月のNLDの選出議員たちの大量逮捕のときの池田氏はあっぱれだった。
「話をきいているだけだとしたら、ますますもって遺憾である。人を拘束して話を聞くことが合法的なのか」という趣旨の抗議を、オンジョー外務大臣に述べているからだ。しかし、ここにきて軍事政権に対する情報をさっぱり把握していないのが明らかになった。 外務省の意図は悪質ですらある。ビルマの言論が完全に統制されている事実を日本人が知らないことをいいことに、スーチー側に難題を持ちかけているのである。そういうことを大勢の日本人記者を引き連れていった外国でのうのうとしゃべるのだから、何とおめでたい外務大臣なんだろう。       (つづく)


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ワーカーズ サマースクール マルクスの「サソシエーション論」を学習
新しい社会における労働のあり方などをめぐり談論風発


 8月24日、25日の二日間、大阪でワーカーズ・サマースクールが開かれ、約20名の会員や読者が集まり、マルクスの「アソシエーション論」を学習し、討論した。
 テキストは田畑稔著『マルクスとアソシエーション』を用いた。僕はそのレポーターを担当した。



「アソシエーション」を引き受けた訳


 僕は、5月の全体会議の時、今回のサマースクールのテーマについて「アソシエーション論をやっては?」と提起した「言い出しっぺ」である。その時は、割と軽い気持ちでレポーターを引き受けてしまった。実は田畑稔の『マルクスとアソシエーション』という本も持っていなかったし、全然読んでいなかったので、レポートの準備を始めてから、だんだんその本の内容が多岐に渡っており、そう簡単にまとめられるような代物ではないことがわかってきて、「しまった」と思い始めた。しかし、もう遅かった。「とにかく、やるしかないか・・」それでも、レポートをまとめる作業がそれ程苦痛でなかったのは、それなりの訳があったのだ。
 5月の全体会議で「規約」(案)の討議をしたとき、僕らはどのような社会を基本的にめざすのか、でそれぞれ微妙なニュアンスが異なって、それらの意見を聞くうちに、僕も自分の意見をもう一度見直してみる必要があると思ったのだ。
 僕がその時、提案していた「案」の一部は次のようなくだりだった。「働く者自身により管理運営する共同生産の社会、すべての人々が社会的生産に参加する社会、男女が平等であり、障害者や高齢者が排除されない、「共に働き共に生きる」社会をめざすこと。また、人々が民族や国家に分けられ、戦争等で殺し合い、憎しみ合うことのない世界をめざすこと。」
 これに対して「働く者自身によって管理運営する共同生産の社会」だけでは、いろいろに解釈できて、国家資本主義とどこが違うのかわからない、という意見があった。以前は、「あれは国家資本主義だ」だから「働く者自身によって管理運営する共同生産の社会」ではないのだ、といえば事足りていると思い込んでいた。しかし、旧ソ連や中国も表向きは「労働者階級の党(?)である共産党の国家によって管理運営する」という形を通じて「働く者自身によって管理運営する共同生産の社会」を実現している、と主張されてきたのだから、あくまで、それとは違う「働く者自身によって管理運営する共同生産の社会」とは、具体的にどのようなものなのかを示さないと説得力がない、そう痛感したのだった。
 僕の「案」の「我ながら捨てがたい」点は、「すべての人々が社会的生産に参加する社会、男女が平等であり、障害者や高齢者が排除されない、共に働き共に生きる社会」つまり「ノーマライゼーション」の全面開花された社会として、未来社会をイメージしようとしたことであるのだが、にもかかわらず、「働く者自身によって管理運営する共同生産の社会」とは原理的にどういうことなのか、についてはボヤけたままである、という難点があった事は否めなかったのだ。
 そういう訳で、「働く者自身によって管理運営する共同生産の社会」とは原理的にどういうことなのか、「アソシエーション」というキイ・ワードを用いて、いろいろな角度から検討されている(と巷で話題になっている)このテキストを引き受けてみようという気になったのだと思う。



アソシエーション」から見えてきた事


 田畑氏のこの本の趣旨は、「アソシエーション」という概念ををキイ・ワードに、マルクスを再読し、そのことによって未来社会がどのようなものかを明らかにすることである。それは「ごくかい摘まんで言えば」(本来はそんなことできるわけないのだが、紙面の都合もあるので勘弁してください)次のようなことであると思う。
 マルクスは「未来社会」つまり社会主義社会、共産主義社会を「ひとつのアソシエーション」とか「諸アソシエーションからなる一社会」という言い方で、表してきた。しかし、多くの人々は、その「アソシエーションからなる社会」とか「自由でアソシエイティッドな労働」とかいう言い回しの意味に、注意を払うことなく、読み過ごしてきた。その原因は、訳語の問題もさることながら、マルクスの唯物史観に対する一面的な理解にもあった。
 一般に、マルクスは「経済的土台が政治的上部構造を規定する」と二元論的にとらえている、それがマルクスの唯物史観だと思われているが、「社会的編成」という概念に着目すると、「1物質的生活過程、2社会的生活過程(社会的編成)、3政治的生活過程(国家)、4思想的生活過程」の4層によって、この社会は規定されるというのが、より正確なマルクスの考えである。
 では、その「社会的編成」は、物質的生活過程の発展に規定され、どのように発展してきたかというと、最初は「自生的(本源的)共同体」として農業共同体として出発し、それが様々に「変容」し(アジア的、古典古代的、ゲルマン的共同体を指すようだ)ていく。そこでは人間は共同体の一部として埋没している。
 やがて、その中から「商品交換」が発展すると「商品交換型社会」の「市民社会」が成立する。それは「交換」を通じて個人が自立するが、共同性は「物と物の関係」として外的なものになる。さらに、「資本と賃労働の関係」が生まれると、そこでは「労働者の諸関係」が労働者から離れ「資本家のプラン」として、外から強制する「権力型社会」に転化する。
 市民社会が発展し成熟すると、その中に、労働組合や協同組合、地域的なコンミューン等、様々な形態でのアソシエーション型組織が生まれる。それらが、それぞれ意義と限界を持ちながら、発展してゆく結果として、社会全体が「アソシエーション原理」を基本とするものになる。
 その「諸アソシエーションからなる」未来社会は、「労働と労働の交換」を原理とした「必然の国」を土台に、自由時間の拡大を条件に「自由な個人性」が全面開花する「自由の国」を実現する。必然の国では、「自由でアソシエイティッドな労働形態」を基礎に、指揮労働や科学労働が特定の特権的労働者に固定化されず、労働者は直接的労働、指揮労働、科学的労働のすべてにローテーション的に、携わり、生産や消費の見通しやそれに対応する労働の配分についても、「アソシエイティッドな知性」として関与する。
 これにより、生産諸力の拡大と共に、必然の国の領域はだんだん小さくなり(しかし無くなることはない)、それを土台に「自己目的原理」を基本とする「自由の国」が発展してゆく、というのである。



「何がわからないか?」も見えてきた


 以上が、マルクスとアソシエーションに関する田畑氏の展開の、「ごくかい摘まんだ」紹介であるが、当日は、それをいくつかの図式にまとめてレポートした。僕のレポートの不十分さも大いに手伝ってだろうが、参加者からは、いろいろな疑問が出された。申しわけない事に、僕としては、それらの多岐に渡る疑問に答える能力はさらさらなく、「なる、程、それも、もっともな疑問で」と、調子を合わせてその場をしのぐのが精一杯なのだった。
 出された疑問のうち最大のものは、マルクスがアソシエーションとして未来社会を描いていたというのは、それはそれとしていいのだが、しかし、ではそれはどのような条件で実現されるのかについては、マルクスの生きた時代に制約されて、具体的には示されていない、哲学的にしか示されていないのではないか?その条件は、マルクスの文献の中には見出せないのであった、現代社会の分析の中から我々自身が見出すしかないのではないか、ということであった。(もっとも、それは田畑氏も著書の前書きのところで断っていることなのであるのだが。)
 「アソシエイティッドな知性」とはどういうものなのか?僕の貧困な発想の中から、精一杯イメージするに、現代の資本主義に生きる我々労働者の関心事は「消費」でしかなく、消費を巡ってはインターネットを駆使してでも、飽く無き情報へのアプローチに労を惜しまない。これに対して、資本家の関心は「生産」であって、彼らは彼らで資源の確保や工場の立地、労働力の配置等を巡って、各種の資源や物流の情報へのアクセスやシュミレーションの毎日を送っている。未来社会では、我々労働者の関心は、消費に狭められることなく、何をどのように生産するかについて、主体的に関わるようになる。労働時間の短縮で、直接的な労働は午前中で終わり、午後の早い時間は、様々な生産プランの様々なレベルの委員会に参加し、生産活動の現状と将来の展望について、クラブ活動のような楽しみをもって、検討や議論を行う、それが生活の一部になっているのではないだろうか?
 労働のあり方についても、僕らはいろいろ議論を交わした。意見交換の終わり頃は、それぞれの職場でつき当たっている問題を紹介しあう、えらく具体的な話になってきた。郵便職場に「7ケタ郵便番号」が導入されようとしているが、それは効率的ではあるが、大量の人減らしをもたらすこと、配達の道順がマニュアル化されると、労働者の異動には都合がいいが、自分なりの回り方ができなくなり疎外されること、それらをどう評価するのか?等々。
 これらの議論は、尻切れとんぼで終わってしまったが、今振り返って、これらの議論をもう少し、いろんな角度から出し合っていく必要があるのではないだろうか?また、その議論を噛ませることを抜きにしては、せっかくの「アソシエーション論」もひとつの「お話」で終わってしまうのではないだろうか?また、逆に言うと、それをすることによって、アソシエーション論は何らかの形で、僕らの運動に活かせるのではないだろうか?と思い始めている。
 次は「ワーカーズ・パネル・ディスカッション」を企画してみたらどうか?題して「何が問題?僕らの労働。どうしたら解放される?僕らの労働。」
    (福岡・M)


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原発を考える @
一人立ちできない原発


三分の一のマジック


 「日本の電力の三分の一は原子力である」――これは国や電力会社などの推進派が原発のPRによく用いる言葉です。
 更に推進派は「三分の一に達しているのだから原発抜きのエネルギー政策などありえない。原発を無くしたら人々の現在の生活や産業が成り立たなくなってしまう」と主張しています。この主張は一見かなり説得力のある主張ですが、最近読んだ「脱原発のエネルギー計画」(藤田祐幸・勝又進著、高文研刊)の中で明快に論破しているので紹介したいと思います。
〈表1〉発電電力量(一九九四年)」の項の割合を見て下さい。原子力は三一.三%で確かに三分の一弱が原子力です。更に表の右の「設備利用率」を見ると原子力は七八%を越えており、水力の二二%程度、火力の五一%程度に比べてはるかに高い設備利用率です。この表からでは原子力は効率の良い設備だと思ってしまいがちです。しかしここには数字のマジックがあるのです。



発電調整不可の原発


〈表1〉を見ると原子力は二〇%程度しかありません。にもかかわらず「発電電力量」は三一%を越えています。この数字の意味するものは原発はフル稼働で動いているということです。逆に言うと原発はフル稼働でしか働けない設備ということです。
 火力や水力は昼間と夜間あるいは季節による電力需要に応じて発電量を調節できるのに原発ではそれができないのです。原発は稼働し始めたら最後、次の定期点検の時まで一定の発電量で昼夜を問わず発電し続けまなければならないのです。原発でも燃料棒の出し入れで発電出力を変化させることは可能ですが、出力が大きいため危険の度合いも大きくなります。原発の稼働ではむやみに出力を変化させず、とにかく「一定の発電量」で発電し続けることが安全を保障する第一条件です。
 以上のことから言えることは「原発は小回りのきかない、非常に不安定な発電設備」ということです。原発の設備利用率が高いのも出力調整ができない結果でしかないことが分かります。火力や水力が原発に変わって出力調整をしているのです。



原発と揚水発電


 原発は昼夜を問わず一定の発電量で発電し続けるため発電需要が少ない夜間には余剰電力が発生します。火力やダム式の水力でも調整できない場合、余剰電力の捨て場として「揚水発電所」が使われます(挿し絵参照)。
 電力を使って汲み上げた水で汲み上げに消費した電力の三分の一しか電力を生産しないという非効率で変な発電所ですが、原発があるがゆえに作られた付帯設備です。付帯設備であるため設備容量は一〇%近くあるにもかかわらず、発電電力量は一%未満です。ほとんど稼働しない、原発のためにある無駄な設備ですが、原発が増えるに従って揚水発電所も又建設されるのです。



火力のバックアップ


原発は非常に不安定な設備のため内包する危険性も非常に大きいものがあります。わずかな故障でも大事故=広域の放射能汚染につながることが十分考えられます。故障があれば直ちに発電停止です。その他、安全のため定期的に数カ月にわたる定期点検があります。事故や定期点検は発電停止ですのでそれに見合うバックアップ発電が必要となります。
 〈図1〉の「日本の発電施設の設備容量と稼働量」を見て下さい。原発の設備が増えるに従って火力発電の設備容量も急速に増加しています。これは原発のバックアップのために火力発電が作られているためです。
 原発の稼働率が八割近いのに、火力発電の稼働率は五割でしかない秘密の一端はここにあるのです。原発のバックアップは原発でという訳にはいきません。何故なら原発は不安定な発電設備だからです。火力発電によるバックアップが必要となり、原発を作れば作るほど火力発電を作らなければならないというなんとも奇妙な構図が浮かび上がってきます。
原発の建設には揚水発電と火力発電の建設が必要で原発だけでは一人立ちできません。しかも原発は大きな危険性を内包しています。原発はその内容を知れば知るほどその非合理性が浮き彫りになってきます。
    (伊藤俊康)


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抵抗の画家 須山計一 D レーピン(1844〜1930)

 独創性

 レーピンの最初の力作「船ひき人夫」は、彼がペテルベルグの美術学校を卒業して直後の作品で、すでに一八六八年、ペテルブルグの郊外に初めて船ひき人夫たちの苦渋な労働の姿を見て以来、彼の頭の中に焼きつけられたものだった。一八七○〜七一年のふた夏をヴォルガ河畔で送り、船ひき人夫の生活やタイプを研究して、やがてまとめあげられたのがこの傑作である。
 レーピンの真の理解者でもあるスタソフがいったように、「虐げられ、踏みつけられ、家畜力あるいは機械力の代わりをさせられている」勤労人民の姿を示し、これまでのロシア絵画をつくったすべてのものとまったく違った独創性をうちたてた。


 美なるもの、それは…


 イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピンは、一八四四年、帝政ロシア、ハリコフ県の貧しい軍人の家に生まれた。一○才のとき画心を立て、一四才になってアトリエに入り、一七才になると聖像の仕事など引き受けるようになり、一八六三年、それで稼いだ金でペテルブルグに上京、翌年アカデミーを受験して合格、そこの学生となった。
 ところで、この一八六○〜七○年代という時期は、封建的なロシア社会にブルジョア的改革の波の押し寄せた時期で、美術の方でもチェルヌイシェフスキーの「美なるもの、それは生活である」という有名なテーゼが大きい影響を与えだしていた。レーピンはアカデミーで絵画技法の基礎を学びながらも、外側のチェルヌイシェフスキーの理論美学に耳を傾けた。
 とはいえ、この時代のアカデミーはもっぱらキリスト教の古典的テーマを卒業制作の課題としていたので、レーピンも金牌のため「ヨブとその友」等の制作に打ち込んだ。
 そして、みごと金牌を獲得。ロシアの美術アカデミーの規則では卒業制作で金牌をもらった者は国費による海外留学の制度が決められていたので、レーピンは一八七三年から約三ケ年をウィーン、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、パリに暮らした。


 人民の中へ


 パリから帰って、一八七八年、レーピンは第六回移動派展に「教会の補祭長」を出品した。こうして、久しく憧れていたこのロシアの人民的美術運動に結ばれたのだった。
 この移動美術展覧会組合の成立は一八七○年で、彼らの中の良心的な人々は、当時のロシアにおける革命運動、ナロードニキに影響されていた。「人民の中へ(ヴ・ナロード)」というのが、移動派のスローガンでもあった。
 一八七八年、第七回移動派展にレーピンが「宣伝家の逮捕」を出品したことは、彼が早くもナロードニキの革命家たちへの熱い同感を示していることを物語っている。「ざんげの拒否」「思いがけなく」も、同じく人民解放の革命運動に参加した人々を高いテーマ性でとらえている。
 これらのうち「宣伝家の逮捕」に際しては、一八七八年の第一作をスタートとして、一八九一年の第二作、さらに一八九二年の第三作というふうに、彼のめざす主題の高揚への努力が貫かれている。最初はやや説明的であった構図が、第二作では人物も減らしてさらに圧縮され、第三作ではいっそう人物も少なくなっているが、その地下活動の情景も真に迫っている。この絵のもつ主要な意義は、作者が農民たちの社会的地位と、その解放のために戦ったナロードニキの革命家の地位とを典型的に示した点にある。
 「ざんげの拒否」は、革命運動で捕らえられた革命家の一人が、その獄中で死刑を目前にしながらも、官憲側さしまわしの教悔師の最後のざんげの強要を断固拒否している英雄的な図である。
 「思いがけなく」は、政治犯の夫が突然シベリアの流刑地から釈放されて、留守宅へ思いがけなく戻った瞬間の、一家のドラマチックな光景をとらえている。


 コンミューンを偲んで


 また、レーピン的完成を示す大作「クールスク県の十字架行列」は、農村のいきいきとした現実を、各階層の立体的群像で構成し、憲兵のむちの下に呻吟するロシア農民大衆の、不平等な圧制の姿を大写しにした。えがかれた人物も数百人におよび、その中には僧侶、憲兵、富農から農奴的小作人、乞食、巡礼などのそれぞれの典型的人間像が描かれ、ゆるやかな放射線形構図としてゆるぎなくまとめられている。その点、ドラクロア、ダヴィッドなどの一九世紀のモニュメンタルな作品につづくものであろう。
 歴史画「イワン雷帝とその子イワン」は、実際に過去のロシアにあった帝政の暗い物語を再現したもので、一五八一年、イワン四世がカッとなって自分の長男イワン皇子を傷つけ殺してしまった瞬間をモチーフとして、ツアーリズムの反人間性を暴露したものである。近代美術の中でも、これほど恐ろしく呪われた血の作品は少なかろう。果たしてこの作品が発表されると、その「社会的危険性」がすぐ支配者たちの話題になった。
 レピーンは一八八三年に、ドイツ、オランダ、フランス、スペインなどの美術遍歴の旅に出たが、この時の収穫の一つに「コンミューン戦士の壁にて」がある。一八七一年のパリ・コンミューンの敗北で倒れた戦士の壁を記念する市民たちを扱った力作である。


 ロシア革命


 一八九四年、レーピンは美術アカデミーに復帰し、そこの教職をとった。もうこの時代には移動派も昔の進歩的面影を失ない、むしろアカデミーの方がその力を復活していた。
 一九○○年、世界展覧会のためレーピンはパリへ行ったが、そこでナターリャという女性と恋におちた。六○才に近い彼は、真剣に彼女に恋して、最終的に妻と離婚して、ナターリャといっしょにフィンランドの彼女の家に移り、そこで残りの三○年の生涯を暮らすことになった。
 一九○五年に起こったロシア革命(第一次革命)は、隠棲の老画家に再びナロードニキ的精神を呼びおこし、「一○月一七日」「赤色葬儀」などを描かせた。しかし、それらの作品には往年の充実したリアリズムは見られない。
 レーピンの手は一九一四年頃から痛みだし、貧乏と飢えとが迫った時代もある。
 一九一七年のソビエト革命の後、ソビエトの美術家代表の訪問を受け、祖国へもどることをすすめられたが、彼はついに帰国することなく、一九三○年九月二九日、自分の子どもや孫たちに囲まれて、その八六年にわたる偉大な生涯を閉じた。
(次回は一九世紀ハンガリーの画家ムンカッツィー)

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小さな旅 須之内コレクション満喫 宮城県美術館(下)

退廃美術


 宮城県美術館で出会えるユニークな作品として、前回、井上肇「軍服」を見ましたが、他に例えば、パウル・クレー「内なる光の聖女」があります。
 ナチスが政権を取って五年目の一九三七年、ドイツで「退廃美術展」なるものが大々的に開催されました。これは、ナチスが自分たちの気に食わない美術作品に「退廃」の烙印を押し、これを一堂に集め、さらしものにしようとした美術展です。
 クレーもこうして迫害され追放された画家の一人でしたが、「内なる光の聖女」はさらに独特な取り扱いを受けました。
 といいますのは、ナチスは「退廃美術」の評判を落とすためにいろいろな宣伝をおこないましたが、その一つに、精神病院に入院している人たちの描いた絵と「退廃美術」の作品とを並べ、「ほら、よく似ている」として、「こいつらは精神病者と同じだ。精神病者は排除、隔離されねばならない。精神病者と同じ連中も排除されねばならない」とのキャンペーンを張ったのでした。
 いわく、「人種保護の思想にとって芸術ほど優れた教育手段はない。しかるに、ドイツでは退廃美術が幅をきかせていた。そしてその手本たるや、精神病患者や精神衰弱者を収容した施設にあったのだ」「歪んだ形態、酔いどれた色彩は精神衰弱の産物だ」「病人は治療するか、排除せねばならない。嘔吐をもよおす馬鹿らしさは、芸術の神殿に帰属させるわけにはいかない」「精神伝染病を伝播させる者は、美術家だけでなく、美術館長や展覧会企画者も、責任を問われねばならない」云々(ヴォルフガング・ヴィリヒ著『芸術神殿の浄化──ドイツ的精神におけるドイツ美術の健全化に関する美術政策上の闘争の書』、一九三七年、ミュンヘン)。
 そして、こうして取り上げられた作品の一つが、クレーの「内なる光の聖女」でした。この作品と、上記、ナチスによる「退廃美術展」のパンフレットの一頁のコピーを掲げます。パンフレットの上の絵がクレーの作品、下の絵が精神病院に入院していた人の描いた絵です。なるほど似ています。しかし、この両者の関係が、単なる類似なのか、それともより深い共通なのか、小さな写真だけでは判りません。が、もし前者と後者に深く相通じるものがあったとしても、それはべつに前者の芸術性の低さの証明などにはならず、むしろ後者のそれの高さを示すものだと僕には思われるのですが。
 またクレーの作品は、白黒で見ますとちょっときつい感じがしますが、現物はあわーい色彩がついていて、もっと優しい印象を受けます。


ファシズムとスターリン体制


 ところで、僕がクレーの作品の前で思ったのは、なぜナチスはこうした作品を嫌悪したのかということでした。
 そしてこの疑問は実は、前に提起した、以前からの僕の問題意識と重なります。すなわち、あのドイツ、イタリア、日本で出現したファシズムの体制と、あの旧ソ連で出現した「スターリン体制」と呼ばれた体制とは本質的に同じものだったのではないか、これが僕の問題意識でした。
 簡単に繰り返しますと、まずスターリン体制とファシズム体制とを「全体主義」として一括する見解は西側の「ブルジョア学者」の間に古くからありました。これに対し「マルクス主義」の陣営はこの見解を否定したのですが、それはその根底に旧ソ連を「腐っても鯛(社会主義)」とする理解があったからです。が、僕はこの「マルクス主義」の陣営とも、またその点では理解を同じくした「ブルジョア学者」の陣営とも違って、旧ソ連を「社会主義」とは見ず、これを「国家資本主義」(の一変種)と見ました。そしてかつてのドイツ、イタリア、日本もこの「国家資本主義」(こちらが典型)と見ました。つまり、後発国が急速に資本主義化を達成するため、国家の強力を前面に押し出した体制です。そしてこの後発国が、先発国に追いつき追い越そうとして先発国と軋轢を引き起こし、やがてこれが戦争に突入していく一九三○年代の未曾有の危機の、したがって緊張の時代に、ただでさえ前面に押し出されていた国家の強力がこれら諸国では極限まで押し出されて行った、それがあのファシズムの体制であり、スターリン体制でなかったか、そういう意味でこれらは本質的に同じ体制ではなかったか、これが僕の提起でした(「ドイツ、イタリア、日本とロシア──後発国と国家資本主義」、『ワーカーズ・ブックレット』第一二号、九四年二月)。
 しかしそれにしても、こういう無粋な話とクレーの愛らしい作品とがではどう結びつくのか。
 それは、芸術というものに対する態度においても、ナチズムとスターリニズムとが共通していたということです。すなわち第一に、芸術においてナチスが嫌悪したもの、彼らから見ると「退廃」と映ったもの、そして逆に彼らが賛美したものと、スターリニストが嫌悪したもの、スターリニストから見ると「退廃」と映ったもの、そしてスターリニストが賛美したものとは、同じでした。そして第二に、自分たちの嫌悪する芸術の傾向に対し、単に嫌悪を表明するとか批判するとかいうにとどまらず、これを暴力的に抑圧、排除したという点も、「ブルジョア社会」一般や、のみならず「国家資本主義」一般(ただし僕の規定する「国家資本主義」)にも必ずしも見られないナチスとスターリニストに共通した顕著な特徴でした。
 そこで上の、僕がクレーの作品の前で思いめぐらしたという疑問は、より詳しくは、一つにはこの共通が偶然なのか、それとも僕(や埼玉の伊藤さん)の見る両者の本質的な同一性の、これは必然的な現われなのかということ。もう一つは、僕はたぶん偶然ではないと思うのですが、ではナチスやスターリニストにはなぜ、この芸術が嫌悪すべきものと映り、あの芸術が好ましいものと映ったのかということでした。


 キーワード


 しかし時間がなくなってしまいましたので、今回は課題の提起にとどめ、追究はまたの機会に先送りしたいと思います。よろしければ皆さんもいっしょに考えてみてください。
 キーワードは「リアリズム」です。すなわち、ナチス、スターリニストに共通して好ましいものと映った芸術はリアリズム、写実的なものであり、いいかえれば「わかり易さ」でした。そして逆にそうでないものは彼らには「退廃」「不真面目」「無駄飯食らいのお遊び」といったもの、嫌悪し、唾棄し、排除すべきものと映りました。これは上記の、ファシズム体制、スターリン体制の本質に目を向けるとき、非常に示唆的ではないでしょうか。
 さて最後に、松本竣介について書くつもりでいたのですが、時間がなくなってしまい、これまた別の機会に。
 松本竣介(一九一二〜四八年)は僕の昔から最も愛する画家のひとりで、実は今回、宮城県美術館で僕がその前に立ち最も胸踊らせたのもやはり、「郊外」など彼のいくつかの作品でした。
 もっともこれは、好み、ということで、彼の芸術性とか彼の生き方の評価、といったものとはやや違い、そういう意味でちょっと書くのが難しいのですが、しかしまた前者と後者とはやはり、いやが応でも結びついており、そして竣介の生き方は、確かに当時の反戦運動や革命運動とは無縁だったのですが、他方、積極的に戦争画を描いて軍部に迎合するという戦中の大方の画家たちとも異なっていて、それはそれで十分、追うに値するものだと思います。いつか、ぜひ……。

 ──宮城県美術館へは、仙台駅前からバスで一○分ほどです。こざっぱりした街なかを抜け、歌で有名になったあの広瀬川をわたるとすぐです。旅行や出張で仙台に行かれた際、よかったら寄ってみてください。
      (小川 紀)

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「受け入れ」と「閉め出し」の狭間で
移住(外国人)労働者問題全国フォーラムに参加して 

最後に、福岡での2日間のフォーラムへの参加を通じて、印象に残ったいくつかの点を述べてみたい。移住(外国人)労働者問題の内容そのものについては、前回までの連載で報告したので、ここでは運動のスタイルが変わりつつあり、それは現実の中で試されているという点についてである。

1、「移住労働者」という呼び方について

 まず、第一に注目されることは、これまで「外国人」労働者と呼んできたのを「移住労働者」と呼び変えたことである。ここに至る議論の詳細はわからないが、「国民」対「外国人」という対立的とらえ方をやめよう、ということではないだろうか?
 そこには、次のような現実の社会状況の変化がある。これまでは「外国人」というと、一時的な訪問者でしかなく、従って「外国人労働者」は出稼ぎ者でしかなく、年金や医療等の社会保障制度の適用など論外であると言われてきた。しかし、定住化傾向と共に、外国人労働者は、単なる「労働力商品」として存在するのではなく、結婚もし、出産し、子供を学校に通わせ、病気にもなり、障害をもち、老いていく、そういう意味では、「国民」となんら変わらないということが、ますますはっきりしてきた。実際、ヨーロッパでも、西アジアからの労働者は、移民として、それぞれの国の国民の一部になりはじめているといっても過言ではない。こうした変化にもとづく、人権意識の発展結果として、排他的なニュアンスのある「外国人」をやめて、客観的な事実としての「移住者」という呼び方が提起されたのではないだろうか?
 それと共に、今回「移住労働者自身のための分科会」が設定され、予想以上に盛況だったことや、これまでの「代行主義」的な、つまり日本の市民団体や支援団体が中心になった運動のあり方の限界を指摘する発言が相次いだことに見られるように、移住労働者自身の主体的な運動への参加の機運が前進していることが感じられた。

2、「女性の視点」が強調された事について

 第二に、今回のフォーラムに当たっては、企画段階から「女性の視点を貫く」ことが意識的に強調された。
 このことは、特殊的に言えば、日本における移住労働者問題の大きい部分を、アジアからの女性労働者が占めており、彼女らの置かれている状況も、エンターテイナーや、人身売買、といった形で、女性差別的と極めて深く関わっていることによるものである。韓国での労働問題の講演への質問の第一声が「韓国での女性労働者の状況は?」というものであったことにも、よく表れている。
 また、第一日の交流会のアトラクションで、ラテン系やフィリピン系の女性の舞踊が披露されたのに対して、後でアジアの女性から「やっぱりエンテーテイナーでしかないのか」と厳しい批判の声が上がったことは、深い問題を提起している。交流会を企画した側の意図としては、それぞれの移住労働者の祖国の文化をお互いに楽しく紹介し合おう、というものだったことは間違いない。舞踊を自らの文化として披露した本人の意識と、そこには女性差別が反映していると敏感に感じた参加者に意識にもギャップはあったかもしれない。そのような問題を企画段階では、全く意識できなかったという限界が、運動主体にあったとも言えるかもしれない。
 一方「女性の視点」は全体会議や分科会の運営にも、意識的に貫かれた。それは、一見些細なことのようだが、「発言者が男性ばかり」ということにならないよう司会は女性の発言を促進すること、司会や基調提起などの任務についても「ジェンダーバランス(同等な男女比)」を配慮すること、等が繰り返し申し合わされた。
 しかし、反省会では「交流会の後片付けは結局、女性に片寄った」という事実が厳しく指摘された。
 こうした視点とそれを貫く態度は、私のように既成の労働組合で「男性中心」の運営を当然のように受け入れていて、セクハラすら日常化している中に慣れてしまった者としては、目を開かされるところがあった。

3、合議による「宣言」採択

 第三に、フォーラム宣言の採択にいたる過程での、柔軟な民主主義的手法である。
 この種の集会では、とかく「集会宣言」は、あらかじめ実行委員の中で担当を割り振られた者が執筆したものが配布され、代表が読み上げて、拍手して終わり、という形式的手法が恒常化していた。
 今回は、「フォーラム宣言」の執筆、討議、採択のすべての過程に、集会参加者が実質的に関与する手立てが講じられた。まず、集会の第1日目に、「宣言」の素案が、参加者の中の何人かの「キーマン」を集めた場で「たたかれる」。これによって、予想される問題点を基本的にクリアしたと判断されるまで整理された「宣言案」が出来上がり、第2日目に全参加者に配布される。それは、分科会において若干の時間を裂いて、検討される。(これは、あまり十分にはできなかったようであるが)。そして、最後の全体集会で、討議される。座長は、発言者の意を汲んで文章の修正を提起して、全参加者の同意を求める。対立的な議論になった問題は、無理に「多数決」で決めず、その後の討議課題として宿題の扱いとする。こうして、基本的に、しかし実質的に全参加者の納得できるものにして、採択する。今回は、修正箇所が多いため、修正の趣旨のみを確認し、成文化は後日行って郵送することで了承を得た。
 こういうスタイルも、「執行部が提案」「全員の拍手で確認、または、原案と修正案について多数決」という形式に慣れしまっている私には、新鮮に感じられた。
 こうした合議のスタイルは、参加する諸団体や諸個人が、唯我独尊の自己主張ばかりしていては不可能である。運動の全体的発展状況を顧みながら、お互いに自制的態度で、ていねいに議論する姿勢が求められるのである。これは、言葉も文化も思想も異なる人々同士が連帯する中で育んできた知恵であるのかもしれない。しかし、運動のあり方として、特に諸グループが提携しながら、大きな運動を起こしていくために、どうあるべきかという点で、学ぶべき点があるように思う。
 移住労働者フォーラムは、様々な問題の共有と、新たな運動の創出という課題を、ひとつひとつこなしながら、運動の前進にひとつの寄与をした。移住労働者が排除されない社会をめざして、これからも様々な部門で様々な人々の苦闘が続いていく。そのことが、具体的に見えたこと、それによって私たち自身の日常的な生き方まで問い直す契機になったことが、このフォーラムに参加した意味だったと思う。

(外国人労働者問題を考える医療従事者の会・M)

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色鉛筆 O157騒ぎに思う
 
大阪の堺市で、集団発生した食中毒。一体何が原因なのか、感染ルートが解明されぬまま、不安な日々が過ぎました。そして一方で、O157から自己防衛せよとばかりの、新聞折り込みの総理府広報室からのチラシなど、ますます混乱するばかりでした。
 娘の通う保育所では、父母の会主催の夏祭りに、用心のために食べ物は取り扱わないでほしいと保育所側から注文が付く。そして子供たちが楽しみにしているプールも今夏は中止となってしまいました。予防のためとはいえ、何か疑問が残ったのでした。
 私の疑問は新聞記事となって明らかになりました。それは、最近のO157情報で、患者に関するひどい差別の実態が報告されたことです。感染した者には宿泊拒否、解雇勧告、仲間外れ等、いじめ社会の構造が浮き彫りになったようです。
 農薬、添加物で食べ物が危険だと叫び続けられて来たこと、子供たちの中から高い率で成人病が発生していること等、私たちの食生活は既に警告が発せられていました。市場では安全な食べ物を探すことの方が困難、と言ってもいいでしょう。安全は二の次で価格が安く、見た目の良い商品を私たちは買わされてきたのです。このO157騒ぎをきっかけに、自分自身の食生活を見直してみてはどうでしょうか。
 厚生省は原因食材を「カイワレ大根の可能性を否定できない」と発表したが、証拠のデーターがないと言う無責任なもの。聞くところによると、消去法でカイワレが残ったそうです。この発表後、かいわれ協会は一日一億円の赤字と言うからすごいものです。今、スーパーでは消毒液、殺菌石鹸などが売り切れになってしまうほど売れ行き。被害を受けるところがあれば、利益を得るところあり、資本主義社会の厳しい現実をみた思いです。
(恵)

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 フォークなんて古い? 中川五郎 6、マイホーム主義

ピート・シーガーが一九六八年一○月に日本に歌いにやって来たとき、テレビのモーニングショーに出演して、バンジョーを弾きながら「主婦の嘆きうた」というのを歌った。この歌は、朝早くから起きて、掃除、洗濯、料理、食器洗いなんかやっているうちに一日が過ぎ去ってしまう、あーあ人生は悩みよ、いつの間にか私はふけて行ってしまうのね、といった内容のもので、これを聞いて僕は何か鮮烈な印象を受け、そういえば日本には主婦を扱った歌がないなあと痛感した。
 それからしばらくして、ガールフレンドといろんなことを話しているうちに、結婚のことに話題が移り、彼女は「やっぱり小さなきれいな家に住んで、かわいい赤ちゃんを生んで、親子水いらずの幸福な生活を送っていきたい」と言い、やっぱり女性は結婚というものに人生を賭けるのかなあ、マイホーム主義はそれほど魅力的なものなのか、と思った。その日の日記に僕は次のようなことを書いていた。
 「彼女から電話があり、色々と話した。彼女は、自分はまったく平凡な人間であり、何かに対して特に情熱がないから、マイホーム主義で行きたいと言う。何かをしようと思っても、自分にはきっとできないだろうから、やめる。自分の情熱を注ぎ込むようなものがないと思うから、別に探しもしないで、やめる。自分を平凡だと決めつける。それじゃ、生き甲斐は何か。生きる目的は何か。もっとも、彼女が『生き甲斐』とか『生きる目的』なんかは偽善的で甘いものだと主張するのなら、こんなこと言ったってどうしようもないのだが。
 僕も、ついこの間までは、マイホーム主義だって一つの生き甲斐になりうるのではないか、そんな人生を妻としての安堵な一生を送ることでその人は真摯にその人生をまっとうしたと言えるのではないか、と思っていた。でも、『人間のしるし』などを読んで、そのマイホーム主義肯定はくつがえされ、それは生き甲斐ではない、女の生き甲斐はそんなぬるいものではないと思うようになりつつある。
 もちろん、マイホーム主義で生きるというのは素直でいいようにも思えるのだが、でも現代において人間は、社会の中の人間として生きるほかない。世界の中の人間、その意識に目覚めたら、マイホームなんて言わないのではないか。
 しかしそう言う僕に彼女は、何かあることを試みて(考えるだけじゃなくて行動してみて)目にはっきり見える成果がなくても自分は何かしたんだということに満足するというのは、偽善で甘い、と言った。だが彼女は、そういうことをしてみたことがあるのだろうか。何もしないで、『それは偽善だ』『甘い』と言っているほうが、僕はよっぽど甘くて偽善的だと思うけど。
 非難だけでは、何にもならない。そして自分は……。僕もマイホーム主義を肯定したくなる。けれどそれは、『人間のしるし』の放棄ではないのかと思う。僕と妻との、ふたりだけの幸福なホーム。それはあったかいだろう。でも、みみっちいな! ホームに浸り切らずに、外的にたえず働きかけるようになりたい! 自分だけの平和の巣にこもってしまいたくない。
 しかし、本当に人には他人を思う気持があるのだろうか。同情はあっても、運命をわかちあうとか、犠牲になるというのは、自然ではないのではないか。人間は自分だけのことしか、つきつめれば考えられないのではないか、とも思う。しかしそれでも、仮にみんなの平和を望みつつ生きるということが自然でなくても、無理にそうしているとしても(そんなことはないのだが)、それは『人間のしるし』を放棄していない生き方ではないだろうか。
 ああ、こんな僕の気持を歌にしたい! こんなことを歌った歌をつくりたい! マイホーム主義者をおびえさす歌!」(一月七日)。
 そしてこの頃の僕の気持と、ピート・シーガーのあの歌のメロディとかが、だぶり始め、自分の母のことも考えに入れて、「主婦のブルース」ができあがった。

 おお 人生は悩みよ 楽しくはないの
 恋なんかしない間にふけちゃった
 これが人生というものかしら
 思いどおりには行かないものね

 私が一番きれいだったとき
 あたりまえの男と見合いをして
 その時あこがれてる人がいたけれど
 親がすすめるから結婚したの

 楽しいはずの新婚生活
 それは戦争の真っ最中
 夫は知らない南の島へ
 もんぺをはいて泣いてた私

 やがて子供が生まれたのよ
 私はこの子にかまいきり
 ところがおばあちゃんが干渉して
 嫁と姑の対立よ

 夫の浮気に気づいた夜は
 純情な私もみだれたの
 いっそ子供がいなければ
 あのとき離婚をしていたわ

 かわいい子供も恋をして
 私に恋人を紹介する
 恋も自由にできなかった私は
 シットに燃えくるう

 やがて子供の結婚式よ
 白髪のまじった私は
 しあわせそうな二人を見つめて
 思わず夫を見返した

 もうすぐおばあちゃんになってしまう
 私の小さな楽しみは
 朝は「旅路」に昼は小金治
 テレビが私の生き甲斐なのよ

 べつに大きな不幸もなく
 平和のうちに歳をとった
 私は自分に問いかけるの
 本当にこれでよかったかしら

 主婦は女の生き甲斐かしら
 本当に私は生きたのかしら
       (つづく)

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 赤軍メンバーの「事故死」

先日、朝日新聞に、かつて日航機をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍派のメンバーの一人、岡本という人のことが出ていました。
 「岡本容疑者は、政治的対立から他のメンバーと離れているといわれ、動静は不透明のまま」「岡本容疑者は八○年代初め、活動方針などをめぐり他のメンバーとの対立が表面化したといわれ、日本からの訪朝団の前にも姿を見せていない」「岡本容疑者について、田宮高麿容疑者=去年十一月に死亡=は『連絡の取れない場所にいる』と語り……」。
 ところが、この記事が出た三日後の八月一○日付け同紙夕刊に、小さく、「よど号事件、岡本容疑者と妻は朝鮮で事故死か」という記事が出ていました。
 でも本当に「事故死」なのか。
 強い、大きな疑問が、私には浮かびます。


   ■ ■ ■


 といいますのは、上記の「他のメンバーとの」対立というのは、ただ単に他のメンバーとの対立ということでなく、北朝鮮のあの独裁政権との対立だったからです。
 すなわち、ちょうど朝日の記事の出る少し前、七月に出た、RENK(救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)の機関誌『RENK』第一○号がこの岡本という人のことを報じていました。それによりますと、北朝鮮に渡った赤軍派の他のメンバーがすべて金日成・金正日の労働党独裁体制を容認しこれを賛美する立場に立ってきたのに対し、この岡本という人だけがこれを拒否し、これを批判し、その結果、もう何年も、家族ともども収容所送りになっている、ということだったのです。
 李英和(リ・ヨンファ)氏(RENK事務局長)の「北朝鮮の強制収容所に囚われる岡本武一家を救おう」という文章から少し引用してみますと──
 「赤軍派は『人民のため』『正義のため』と称して日航機をハイジャック、北朝鮮に渡った。しかしその後の活動は、『人民』や『正義』とは無縁だった。贅沢三昧に暮らし、独裁者にへつらい、日本人向けに虚偽の『地上の楽園』宣伝をふりまき……」。
 「だが、彼らの中にも良心と勇気を失っていない人物がいた。岡本武は、『北の独裁者の手先』になることを拒んだ。金父子と労働党が北朝鮮の国民を苦しめている現実に気づいたのだろう。やがて彼は仲間たちと袂を分かち、労働党に反旗をひるがえす。その代償が『収容所送り』であった」。
 「自分の行為が『高くつく』、罪のない家族にも『塁が及ぶ』──長年の北朝鮮生活の経験で、このことを岡本はよく分かっていただろう。それでも危険な行動に岡本を駆り立てたものは何だろうか。人間としての良心だろう」。
 「岡本の逮捕後、田宮高麿が収容所に定期的に面会していた。関係者の話では、田宮の面会目的は岡本に『転向書』を書かせることだった。書きさえすれば『偉大な首領様の寛大な措置』、つまり釈放が期待できる、家族も助かる。田宮はそう面会のたびに『説得』を試みた。だが、岡本は首を縦にふらなかった」。
 「『俺は間違っていない。間違っているのは労働党だ』──岡本は頑として『転向』を拒否し続けたという。そのせいでいまも収容所に幽閉されている。他の赤軍派メンバーが失ってしまった『革命家としての正義感』を垣間みる思いがする」。
 「私は留学で北朝鮮に暮らしたことがある。その経験に照らしてみて、岡本武の生きざまはまさに驚異に映る。立場を入れ替え、私ならそうできるか──そう自問すると、答えるのは容易ではない。こころ打たれ、こころ密かに敬意を表するのみである」。


   ■ ■ ■


 しかし上記のように、「いまも収容所に幽閉されている」どころか、「事故死」したとのことです。
 「事故」の嘘は見え見えですが、「死」が事実ならば、痛ましい!
 誤報であることを祈りつつ、岡本氏だけでなく、北朝鮮の独裁政権によって囚われているすべての人々の一日も早い解放、つまり独裁政権の打倒を、あらためて、こころから望みます。
       (きくえ)

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地声人歌

蚊帳を吊らずに寝れるようになったと
喜ぶ母を先に寝かせてビラを刷ってる
             江原 与志

 一九三○年『プロレタリア短歌集』より。僕より一回り若いT君やK君は蚊帳というものを見たことがないとの事。それを聞いて驚く僕も、記憶はせいぜい小学校に上がった頃まで。また、僕が活動を始めた頃はまだビラはガリ版を切り、謄写版で刷っていましたが、やがてファックスが現れ(電話のFAXではない)、今ではパソコンに。季節の移ろいを歌った歌を読みながら、時代の変遷をしみじみ実感。
(小川紀)


もうひとつの賢治像 (1) 青江舜二郎

 宮沢賢治は、ますます日本人好みの感傷的で卑小な人物に仕立てあげられている。私は、賢治はもはやこれ以上、神秘めかした白布に包まれた虚像であってはならないと思う。


 賢治は、一八九六年、岩手県稗貫郡花巻町に生まれた。父は質屋および古着商を営む商人だった。また仏教への信仰厚く、花巻仏教会をつくるなど布教にも尽力した。
 一九○九年、小学校を成績優等で卒業。岩手県立盛岡中学校に入学。寄宿舎に入る。休日のたびに植物、鉱物の採集に出かけた。
 一九一一年、前年刊行された石川啄木の『一握の砂』を愛読する。
 一九一四年、盛岡中学卒業。家業を手伝うが、その仕事が嫌で、たびたび父と口論。また、『漢和対照妙法蓮華経』という本を読み、異様な感動を覚える。浄土真宗を信仰する父を改宗させようと努力する。と同時に、農民の苦しみをよそに繁栄する宮沢家のあり方に疑問を持ち、これは賢治にとって生涯の負い目となった。
 一九一五年、盛岡高等農林学校に首席で入学。
 一九一八年、同校卒業。地質土壌肥料研究生となる。
 一九二○年、同研究科卒業。
 一九二一年、花巻農学校教諭となる。
 一九二四年、四月、『春と修羅』を自費出版。一二月、童話集『注文の多い料理店』を刊行。
 一九二六年、花巻農学校を退職。


●羅須地人協会


 農学校を退職して、賢治は、町のはずれの宮沢家の別荘を手入れしてそこに入り、ひとり住まいの自炊生活に入った。付近の荒れ地を町から借り受け、そこを開墾して自給自足の体制を確立しようとした。そしてここで「羅須地人協会」なるものを発足させ、農業を営む若い人たちに、稲作法、農業科学、農民芸術論などの講義をはじめた。
 残存している賢治のメモの中には、「農民芸術の興隆」のところで、どんなことを講義するかという綱目を並べているものがある。これは従来、ほとんど問題にされていないが、その最後の「芸術をもってあの灰色の労働を燃やせ」の項には、次のようなものが見られる。
 「芸術の回復は、労働における悦びの回復でなければならぬ。労働は常に創造である。創造は常に享楽である。しかし人間を犠牲にして生産に仕ふるとき苦痛となる」。
 ところで、「羅須」の由来にはいろいろの説があるが、私はラスがアイヌ語の松だというのを採りたい。よそからこの地に入って、まず驚くのは濃緑で暗愁をたたえた松林の美しさだ。
 しかしこの「ラス」という音は、英語のRussia(ラシア)にもつながり、革命後のロシアがそのころ労農ロシアと呼ばれていたことと、必ずしも無縁ではないだろう。
 そうだ、賢治は羅須地人協会時代において、まぎれもなく労農派のシンパであり、協会はその運動実践のためのものであった──この立場に立つとき、はじめて、賢治が農学校の教師をやめてから、この協会を足場に新しい生活に飛び込むまでの期間を記したこれまでの伝記に痛感される歯切れの悪いモヤモヤがたちまちにして消え、いっさいがはっきりしてくる。
 以下、これを見ていこう。


●カモフラージュ


 しかし賢治は用心深かった。協会の壁には、幕を張ったり、縄を吊るしたり、野草海草をぶらさげたりしたが、それは賢治の好みであると同時に、もう一つ、彼の運動があくまでも政治運動ではなく芸術運動であることを示そうとする当局へのカモフラージュでもあった。
 その綱領から「労農」の「労」の文字を省いているのも、彼の直接の対象が農民であったからでもあるが、しかしさらに、それを省くことで「ガサ入れ」でもあったとき、この派と直結していないという弁明のためのものでもあったと私には推察される。
 協会が発足し、開墾がはじまり、賢治の粗食がとてもひどいことを耳にした母が、弁当をつくっていくと、賢治はそれは拒否して全部井戸ばたに捨てたという挿話は有名だが、これも、自分の行動は宮沢家とは関係がないということを世間に示そうとする一つのゼスチュアではなかったか。


●賢治と革命



 それはともあれ、中国の魯迅、ロシアのゴーリキーは、その時代のすぐれた革命文学者で、その運動にも関係しながら、革命の本質は結局は人間そのものの革新でなければならぬことを強調したことでは共通し、それゆえに魯迅は蒋介石に迫害され、ゴーリキーはスターリンに暗殺されてしまう。それと同じ思想を同じように表現しながら、なぜその頃の賢治は革命とは無縁の「法華の行者」とされてしまうのか。

 サキノハカといふ黒い花といっしょに
 革命がやがてやってくる
 ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
 おほよそ卑怯な下等なやつらは
 みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに
 潰れて流れるその日が来る
 やってしまへやってしまへ
 酒をのみたいために尤もらしい波瀾を起こすやつも
 じぶんだけ面白いことをしつくして
 人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
 いつでもきょろきょろひとと自分をくらべるやつらも
 そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
 その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
 それらをみんな魚や豚につかってしまへ
 はがねを鍛へるやうに新しい時代は新しい人間を鍛へる
 紺いろした山地の稜をも砕け
 銀河をつかって発電所もつくれ

 この詩が書かれたとされる一九二七年頃は、まさしく日本社会の革命前夜で、警察官たちは「革命が起こればまっさきに、俺たちがお前たちに殺(や)られるのだ」と叫びながら、つかまえた運動家たちをやっつけていた。そして一九二八年、二九年の大検挙がなされる。賢治はまさしくそうした日本の農村に生きていたのである。
      (つづく)

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